富山県南砺市の井波町(いなみまち)は欄間(らんま)などの木工彫刻で有名な町です。
「井波彫刻」という名称を獲得するほど、井波町は木工彫刻という地場産業を育成できたのは、「井波別院 瑞泉寺」という雛(ひな)にはまれな立派な寺院が建立されている地だからです。このお寺の建物の伽藍(がらん)などに優れた木工彫刻の作品が並んでいます。このお寺の前にある門前町は、現在は欄間や仏像などの木工彫刻をつくる工房が並んでいます。工房は木を彫っている作業場が外から見えるショーウインドになっています。
欄間は部屋の上部にある“飾り窓”にような透かし彫りです。部屋を仕切る襖(ふすま)の上に配置され、片面の絵柄が、もう片面の絵柄と違う複雑な透かし彫りです。
最近は自宅に欄間を飾る和風の住宅をあまり見かけません。もちろん、欄間はかなり高価です。部屋の仕切りの襖ごとに配置すると、かなりの費用がかかります。昔はその家の力(財力)を示す“粋”な飾りだったようです。
戦国時代に一向一揆という宗教集団が支配した地域の一つが現在の富山県南砺市辺りだった結果、この地に立派なお寺が立てられたそうです。入り口の山門からして立派な建物です。ある意味では“城”だったようです。そして、経済の中心地だったようです。戦国時代に、大名などの武士が支配していない地域がいくつかあったことに驚きます。日本にもそんな地域があったとは(たしか、現在大阪府の堺市も町人が支配していたと習った記憶が・・)。
南北朝時代の1390年の明徳元年に、当時の本願寺の第五代上人(しょうにん)の綽如(しゃくにょ)上人が開基となって建立(こんりゅう)された浄土真宗のお寺です(「真宗大谷派」と表記されています)。戦国時代に栄えたものの、一向一揆をつぶそうとした織田信長が派遣した佐々成正の軍勢に焼かれて、一時衰退します。その後、豊臣秀吉が庇護し、江戸時代に再建され復興したとのことです。この江戸時代の再興時や、江戸時代に何回かの火災に会った時、そして明治時代と大正時代の復元工事などによって、地元の大工の棟梁や彫刻師などが腕を磨いて、現在の木工彫刻の地場産業を築いたそうです。火災などの度に、再建という仕事ができ、木工彫刻を育てたようです。
山門は総檜づくりの真言寺院の山門形式を示す代表的な建物だそうです。江戸時代に火災に会い、京都市の東本願寺から最初は京都の大工が派遣され再建工事を始めたそうですが、途中からは井波町の大工が受け継ぎ、再建したそうです。
こうして、井波町には木工彫刻の地場産業が形成されていったようです。太子堂(聖徳太子像を持つ)、菊の門(勅使門)という建物も木工彫刻をふんだんに盛り込んだ傑作だそうです。
瑞泉寺は正確には「後小松天皇勅願所 井波別院 瑞泉寺」という名称です。本堂も北陸随一の大きさです。中に入ると、その広さに驚きます。今風にいうと、ワンルームの通し部屋でかなりの広さです。信徒の方が多数入ってお祈りができます。京都市のお寺にも引けを取らない大きさでした。この地域の信徒の熱心な献身ぶりが感じられます。
大きな屋根の軒には木工彫刻の飾りが多数配置されています。木工彫刻師の腕前を競う場です。
こうした作品は木工彫刻師に仕事が与えられた結果の傑作です。この蓄積が地場産業を育成したと思います。木工彫刻の仕事が持続してあったことがポイントだった気がします。各地には、その地の歴史の積み重ねがあり、思いがけない発見がある点が旅の醍醐味だと思います。
「井波彫刻」という名称を獲得するほど、井波町は木工彫刻という地場産業を育成できたのは、「井波別院 瑞泉寺」という雛(ひな)にはまれな立派な寺院が建立されている地だからです。このお寺の建物の伽藍(がらん)などに優れた木工彫刻の作品が並んでいます。このお寺の前にある門前町は、現在は欄間や仏像などの木工彫刻をつくる工房が並んでいます。工房は木を彫っている作業場が外から見えるショーウインドになっています。
欄間は部屋の上部にある“飾り窓”にような透かし彫りです。部屋を仕切る襖(ふすま)の上に配置され、片面の絵柄が、もう片面の絵柄と違う複雑な透かし彫りです。
最近は自宅に欄間を飾る和風の住宅をあまり見かけません。もちろん、欄間はかなり高価です。部屋の仕切りの襖ごとに配置すると、かなりの費用がかかります。昔はその家の力(財力)を示す“粋”な飾りだったようです。
戦国時代に一向一揆という宗教集団が支配した地域の一つが現在の富山県南砺市辺りだった結果、この地に立派なお寺が立てられたそうです。入り口の山門からして立派な建物です。ある意味では“城”だったようです。そして、経済の中心地だったようです。戦国時代に、大名などの武士が支配していない地域がいくつかあったことに驚きます。日本にもそんな地域があったとは(たしか、現在大阪府の堺市も町人が支配していたと習った記憶が・・)。
南北朝時代の1390年の明徳元年に、当時の本願寺の第五代上人(しょうにん)の綽如(しゃくにょ)上人が開基となって建立(こんりゅう)された浄土真宗のお寺です(「真宗大谷派」と表記されています)。戦国時代に栄えたものの、一向一揆をつぶそうとした織田信長が派遣した佐々成正の軍勢に焼かれて、一時衰退します。その後、豊臣秀吉が庇護し、江戸時代に再建され復興したとのことです。この江戸時代の再興時や、江戸時代に何回かの火災に会った時、そして明治時代と大正時代の復元工事などによって、地元の大工の棟梁や彫刻師などが腕を磨いて、現在の木工彫刻の地場産業を築いたそうです。火災などの度に、再建という仕事ができ、木工彫刻を育てたようです。
山門は総檜づくりの真言寺院の山門形式を示す代表的な建物だそうです。江戸時代に火災に会い、京都市の東本願寺から最初は京都の大工が派遣され再建工事を始めたそうですが、途中からは井波町の大工が受け継ぎ、再建したそうです。
こうして、井波町には木工彫刻の地場産業が形成されていったようです。太子堂(聖徳太子像を持つ)、菊の門(勅使門)という建物も木工彫刻をふんだんに盛り込んだ傑作だそうです。
瑞泉寺は正確には「後小松天皇勅願所 井波別院 瑞泉寺」という名称です。本堂も北陸随一の大きさです。中に入ると、その広さに驚きます。今風にいうと、ワンルームの通し部屋でかなりの広さです。信徒の方が多数入ってお祈りができます。京都市のお寺にも引けを取らない大きさでした。この地域の信徒の熱心な献身ぶりが感じられます。
大きな屋根の軒には木工彫刻の飾りが多数配置されています。木工彫刻師の腕前を競う場です。
こうした作品は木工彫刻師に仕事が与えられた結果の傑作です。この蓄積が地場産業を育成したと思います。木工彫刻の仕事が持続してあったことがポイントだった気がします。各地には、その地の歴史の積み重ねがあり、思いがけない発見がある点が旅の醍醐味だと思います。