新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

サッカー今昔物語

2024-09-02 08:08:23 | コラム
現代のサッカーは変わってしまったが、これを進歩というのだろう:

慶應義塾大学対早稲田大学のサッカー:
昨1日の午後に偶然に合わせたチャンネルで、慶應義塾大学対早稲田大学のサッカーの試合を中継放映していた。リーグ戦なのか何処かの大学の対抗戦なのかも解らないままに暫く見ていた。という訳は、慶応のユニフォームが古き良き時代のサッカー選手が知っていた配色と全く異なっていたからなのだった。

私が承知していた時代では上が空色で、白い紺色のパンツを履き、ストッキングは上が赤で下は紺という具合だった。それが黄色いシャツに黒いパンツ、ストッキングが黄色という具合で、恰もラグビー部のタイガージャージとか呼ばれている配色だったからだ、往年には慶応大学の三色旗に近い紺と赤が使われていたし、OBのクラブは「慶応BRB」と称して、Blue red and blueだった。確か、当時は「ソッカー部」という名称。

早稲田大学は往年では「ア式蹴球部」という名称で、OBのクラブはWMW即ちWhite Maroon and whiteで、スクールからの海老茶色(というのか)を表していた。昨日見た早稲田大学は往年の配色の儘だったと思う。率直な思いを言えば「何だ。これじゃラグビーの早慶戦みたいじゃないか」だった。試合は慶応が劣勢で早稲田が4対0とリードしていた。先ほども新聞もテレビ欄を見直したが、この番組が見つからなかったのは何故だろう。

どうやらこの試合は定期戦のようだったが、この両校の定期戦は昭和20年代だったと記憶するが、当時の神宮外苑競技場の進駐軍の置き土産・夜間照明を活用した「慶早ナイター」だった。高校生だったと記憶する私は勿論観戦に上京して、その美しさと華麗なる大学生の技術に酔いしれていたものだった。夜間照明に生える慶応と早稲田のユニフォームの鮮やかだったこと。この試合は毎年観戦に行っていた。

実は、我が湘南中学(高校)の蹴球部のユニフォームは慶応大学ソッカー部とパンツを除いて全く同じ配色だった。但し、湘南ではシャツがワイシャツと同じ前でボタンをかける形式だったのが、慶応大学と違っていたかもしれない。しかも、そのユニフォームは試合に出る選手の分の11着しかなく、代々引き継がれていたのだった。その為か、多くはボロボロに近い状態で随所に補修の跡がある由緒正しき伝統に輝くユニフォームだったのだ。

WMフォーメイション:
昨日も一寸だけ触れたが、私が昭和20年4月に湘南中学の蹴球部に入った頃と、現代のサッカーはこのように呼び名が変わった以上に変わってしまっているのだ。私が長い年月経験してきたポジションは今や存在していないようで、RHだのRIなどと言えば「それらが現在のサッカーのどのポジションに性質が似ているか」は識者が解説しないと現代には通じなくなっているのだ。

私は今日までに繰り返して「WMフォーメイション時代のサッカーで育った」と言ってきたが、これなどは現在のサッカー選手たちだけではなく、ファンの方にも通用しないだろうと思う。言って見れば「全く違う、我々には解らないのが現在のサッカーなのである」ということ。

WMはGKを除いた10人のポジションを示している。Wが5人のFWを示している。Wには上に三つの先端があり、その右端が右のwing即ちRW、真ん中がcenter forward即ちCFとなる。下部にある二つの突起の右側がright innerがRIで、左側はLIとなる。Mの左右の二つの突起がhalf backを表し右側がRHで左側がLHである。底になる突起はcenter halfでCHという非常に重要なポジション。

現代のサッカーとの根本的な違いはと言えば「この10のポジションは言うなればゾーンディフェンスとゾーンオフェンスであって、右側の者は右側だけと言って良いほど右サイドでプレーし、左側の者が右側に出張ってくるのは極めて希にしか起こらなかった。但し、CHはそのティームによって主義主張が異なるので、現在の3バックの形で守りに専念するし、またはロビングハーフと言って自由に動き回るのと二方式があった。

このようなゾーン様式は私が大学を終えてから数年経った頃に、大きく変化した。それは早稲田大学に八重樫という確か東北から来た変幻自在の名手が現れ、彼と言わばコンビを組んだ杉本という小田原高校(我が湘南の不倶戴天のライバル)の優れ者が、割り当てられたポジションを無視するかのように頻繁に左右に移動して、相手のディフェンス陣を混乱に陥れて大成功したことに始まったと私は信じている。

この八重樫/杉本方式を徐々に他の大学が取り入れるようになった後から、ヨーロッパから来た指導者も新時代のサッカーを持ち込んだので、WMフォーメイションが残念なことに「前世紀の遺物」と化していったのだった。私は我が国のサッカー界が外国人と言ってもヨーロッパかブラジルの指導者に依存したのは止むを得なかったことだと理解している。

だからと言うか何と言うべきか、旧世代のシステムで育った私には現在のサッカーは取っ付きにくいし、理解不能な点が多々あるのだ。典型的な例を一つだけ挙げておけば「その昔には『バックパス』などと言う逃げるパスは余程の場合以外は蹴ることなどなかったし、吉田麻也はいなかったからバックス間で延々と横パスを交換することもなかったこと」である。このパス交換は本当に理解不能なので困る。往年はひたすら前に向かって攻めるのがサッカーだったのだ。

9月1日 その2  自由民主党総裁選の候補者に思う

2024-09-01 11:36:06 | コラム
近頃本気で心配していること:

既に名乗りを上げられた小林鷹之氏を除けば、出馬を鮮明にした顔ぶれを見れば代わり映えがしないというか、古色蒼然としているという感があるのだ。それは、その有力者たちは私には今日の自由民主党の衰退というか退勢を招いた人たちではないのかという事。43歳という最年少が持て囃されているかのような印象がある小泉進次郎氏と雖も、その仲間であるとしか思えないのだ。

11名の方々は皆学歴も職歴も政治家歴も立派であると思って眺めている。だが、どうしても気懸かりなことがある。それは、彼等は皆自由民主党を今日の形にしてしまうまでの間に、閣僚として、党内の実力者として、議員歴と当選回数を重ねて、今日の党内の地位を築き上げてこられたと思う。だが、後難を怖れずに言えば「彼等が習い覚えた手法というか政治の手腕が、今日の無残なバラバラの状態を招いたのではなかったか」なのだ。

しかも、今や一時は「時代遅れ」とアメリカで酷評されていた60歳代が2氏を除いて占めているのだ。アメリカでは1970年代前半で「40 out」という「40歳にして体を為していない者は去れ」と言っていた国でありながら、つい先頃まで81歳と77歳が大統領選を争うようになりそうだった。何処で流れが変わったのかと、不思議に感じている。

ではあっても、私は我が国で過去の手法で育ってきて党内の地位を占めている60歳超の古手に、自民党だけではない我が国を任せる総理大臣にして良いのだろうかという疑問に撞着する。それでは何処がどのように宜しくないのではと言えば「往々にして人は誰でも自分が教えられ、育てられて成長した手法でしか組織を言うか、他人というか後継者を教え導く方法を知らないのではないのか」との疑問である。

よりあからさまに言えば、今回再出馬せずと表明された岸田文雄総理とは同年代/世代の人々が出てくるのでは、賽の河原ではないのかと心配したくなってしまうのだ。小林鷹之氏と小泉進次郎氏が若くて経験不足ではという声というか論調というか批判がある。だが、人は誰でも未経験の新たな仕事、職、学問に接して取り組んでいくのである。そこで成功か失敗かは当人に実力と努力次第ではないか。私は両氏を擁護する気はないが、こういう貶し方には与しない。

さらにあからさまに言って念を押しておけば、60歳代の候補者の手法は古いのであるだけではなく、その中には閣僚として「常に責任回避の言辞を弄していた老練な政治家」もおられるのだ。これから先に我が国が直面せざるを得ない国の内外の情勢をこのように教えられ育ってきた手法で当たられては、どうにもならぬ時代だという認識があるのかと問いかけたいのだ。

彼等に本気で「自由民主党を急速に且つ大きく変わっていく時代に即応するような清新の気に溢れる政党に変えていこうという意気込みがあるのか」と訊きたい。ただ単に「総理総裁の座を目指しても良い年齢と経験を積んだから、一つ行くか」というような個人的な功名心だけで、この難しい時代に直面する日本国を牽引しようという程度の考え方であって欲しくないのだ。

トランプかハリスかなどだけではなく、直ぐ近所にはX氏もいれば、そのもう少し向こうにはP氏もいればK氏もいるのだ。彼等は憲法も改正できない程度の手法で真っ向から勝負できる相手ではないのでは。これまでのような手法で向かっていては、領海や領空の侵犯だけには終わらない危険性が見えてくるのは、当方の取り越し苦労であって欲しい。

近頃一寸心配なこと

2024-09-01 08:11:05 | コラム
湯治場で案じていた事柄:

自然災害:
今回は流石にテレビのニュースを流し続けていた。そこには当然のことで「10号台風が日本全国にどれほどの災害をもたらすかが心配だった事」があった。東側の高気圧に進行を妨げられたそうが、あれほどの長期間一カ所に長逗留されて風雨の災害をもたらされては、能登半島地震の後始末さえ充分に進んでいないこの時期に新たに大規模な災害を被れば、それでなくとも停滞気味の我が国の経済というか景気に大いに悪影響を心配していた。

いや、正直に言えば帰宅の為に依存しなければならない公共交通機関が新幹線を始めとして運休した上に、高速道路も停止されては動きが取れなくなるかも知れないという重大な関心があったからだ。特に恐ろしかったのは、小田急線が伊勢原付近で線路付近の土砂崩れが発生していたことだった。これだけのことだけではなく、災害は何時何処でどのような形で発生するかは予測不可能であるようだから、ハラハラしながらテレビを見ていた。

如何に科学が進歩発展しても、台風の規模を縮小させる手立ては開発されておらず、地球温暖化(なのだろうが)を阻止しきれず海水温が上昇していれば、台風の規模は際限なく拡大してしまうよう。今更CO2の削減がどうのと言っても追いつく訳でもあるまいが、削減への努力は必要だろう。という訳で非常に不安な状態に置かれたが、幸いにも同宿の方のご好意で東京方面に帰る車に同乗させていただいたので、無事に昨日中に帰ってこられた。

自由民主党総裁選:
既に取り上げたことで、自由民主党所属の議員と党員の投票で決まることだから、一般の有権者は眺めている他ないのである。であるから、立候補者とその見込みの人たちの人気を世論調査することに、当方は余り意義を見出していない。また、出ると言われている者の間で(報道によれば)壮烈且つ熾烈な推薦人獲得競争が裏に表に陰に陽に展開されているのは、何となく見当が違うように思えてならない。

即ち、月並みなことを言えば、この総裁選びはこれから先3年かあるいは何年かの我が国の命運を託す人物になるのであるから、義理や人情や長幼の序や旧派閥の力学に束縛されて欲しくないのだ。とは言って見たが、現代のようにICT化やディジタル化が目覚ましく進歩発展し、AIが広く普及してしまった時に、政治の世界(「だけで」と言いたいが)で経験を積んで60歳を超えた議員に、次代と時代を任せて良いのかと非常に真剣に案じている。

手っ取り早い話では、昨日60歳代でシニアのサッカーで全国制覇をされたという方と「サッカー」を語り合う機会があった。90歳代の私がその昔についていたポジションであるSH、FB、CH、RI等というと、脇で聞いていた人たちに、夫々が現代のサッカーのどのポジションに相当するかを一々解説しなければ話が進まなかった。言いたい事は「CHしか知らない方が、現在のボランチだのセンターバックが果たす役割が解るのか」という懸念である。

では、小林鷹之氏や小泉進次郎氏たちのように40歳だったら良いのかということ。マスコミ論調では両氏にも一長一短があると特集しているではないか。私に古き時代の経験を充分に積んで来た昭和30年代(1960年代前半?)生まれが好ましいのか、ディジタル化時代以後の人たちが望ましいのかの判断が出来ない。彼等国会議員たちと党員にはそういう判断の能力が備わっているのだろうか。

アメリカの大統領選挙戦:
私はこの民主党と共和党の間で熾烈化する一方の競争は、黙って見守っている他ないと思うのだ。それは、自由民主党の総裁選ですら我々は参加できないのであるから、海の向こうのアメリカ合衆国の大統領選挙などは、対岸の我が国で騒ぎ立てても何にもならないのであるから。今月中には新内閣が出来るのだろうから、候補者たちはカマラ・ハリス氏かドナルド・トランプ氏の何れが当選されても即刻対応できるように、今から策を練っておくべきではないのか。

ここから先は20年以上もアメリカ人たちの中というかアメリカの会社の社員としてアメリカ人たちと仕事をして、日常生活を共にしてきた(珍しいだろうと自負する)経験から言えることで、最初に「民主党政権は常に我が国にとっては悪いお知らせだった」を取り上げたい。即ち、クリントンとオバマ政権がどれほど我が国を邪険に扱ったかなのである。これは簡単なことでブッシュ親子政権を思い出して比較すれば明らかなこと。

トランプ氏である。この方は在職中に「知は力なり」ではなく「無知は力なり」をこれでもかと立証してきた大統領だった。彼は「アメリカ第一」という美名に隠れて「自分第一」を思い切り推進された。その前歴が示すように国際的というかInternationalな分野での経験が皆無と言えたし、知識もなかったのが長所であり短所でもあった。

だからこそ、中国との貿易には思い切った高率の関税賦課という手を打てたし、国内産業の保護を打ち出してプーアホワイトと労働者階層の支持を確保された。それだから、日本製鉄のUSスティール買収案に反対を唱えられた。この反対論はUSWが反対した後だったことが示すように「彼の支持基盤の労組のご機嫌伺い」だと私には見えた。

即ち、自民党の立候補者たちは今からでもハリス、トランプ両候補者の特徴と弱みを追求して、どちらが当選しても良いような準備を整えておいて欲しいのだ。これは思うように英語で話せるとか何とか言う類いのことではない。「敵を知り己を知れば云々」と言えば両候補を敵呼ばわりすることになるが、準備を怠らないようにと言う意味だ。立候補者の先生方はそこまでお考えだろうかと、一寸心配している。

8月29日 その2 お知らせ

2024-08-29 07:02:44 | コラム
謹告、

本日までで、暫く休載します。宜しくお願いします。

真一文字拝

近頃気になって仕方がないこと

2024-08-29 06:06:30 | コラム
何でもかんでも「ハラスメント」と表現するのは疑問に感じている:

私には「何とかハラスメント」のような表現は英語の動詞である“harass”または名詞形にした“harassment”の濫用だとしか思えない。いや、カタカナ語の粗製濫造ではないのかとすら言いたくなる。そもそもは、アメリカの企業社会で90年代に入ったかどうかの頃に“sexual harassment”という言い方が現れて、我が本社では副社長が集めた講座が開かれて「セクシュアルハラスメントを犯さないように」との注意があったのだ。

そこで、我が国ではどのような行為/言動がそれに該当するのかとWikipediaに訊いてみた。そこには「セクシャルハラスメント(英語: sexual harassment、セクシュアルハラスメント、セクハラ、性的嫌がらせ)とは性的嫌がらせのことであり、性的言動によって不利益を受けたり、労働環境などが害されたりするハラスメントである」とあった。

実は、これだとその講座があった日に偶々本部にいて、講座から帰ってきた副社長の説明とは大いに違っているのだ。それは、女性の社員に向かって例えば「今日の服装は綺麗だね」とか「今日の髪型は美しいな」とか「体型が良くなったね」などと言えば、それらがharassmentの範疇に入るから注意するようにとの指導だったと聞かされたのだから。要するに「この辺りから注意せよ」というかなり微妙な言動が問題だったのだ。

この段階が所謂「セクハラ」であり、例えば強引に女性の体や胸に触れたとか、極端な例ではキスを迫ったなどと報じられている場合は、某大学の法学部の教授が指摘されたように「犯罪行為」であり、ハラスメントの領域を遙かに逸脱しているのだ。我が国では、その辺の分類も未だ定まっていないように見えるのだが。

そこに、誰がどのように“sexual harassment”を解釈したのか不明だが、有りとあらゆる「他人にとって厄介なこと、心配させること、悩ますこと、攻撃すること、困らせること等々の行為の前に、加害者というかそういう事をする人等を持ってきて「パワーハラスメント」だの「カスタマーハラスメント」だの「マタニティハラスメント」とか「モラルハラスメント」とか「リストラハラスメント」等々のように無数の「ハラスメント」が出来上がっていた。そこには日本ハラスメント協会(JHA)が設立されていた。

この流れを見ると、何らかの迷惑行為・嫌がらせ・示威行為・圧力・叱責・暴言・不当なクレーム等々があった場合に、それらを仕分けして行為に出た者乃至は団体を持ってきて、その後にハラスメントを付けているかのように見えるのだ。私には何故普通に漢字を使った日本語で表現しないで「ハラスメント」のようなカタカナ語を使って一括りにした辺りが理解不能なのだ。もしかして「外来語」で威力を増幅させようとでも企図したのか。

最早時代に取り残されている私などは、アメリカで聞かされたsexual harassmentの内容とは余りにもかけ離れてしまった「ハラスメント」の大量製造には、唯々恐れ入っているだけ。お客が店頭で従業員か店員(今日ではstaffに置き換えられた)向かって不当な暴言を吐くとか、極端な場合には暴力行為に出ることなどを「カスタマーハラスメント」と呼ぶようなことは、最早英語の“harass”が意味する事を遙かに離れている。

「マタニティハラスメント」のような例では、英語の単語を使ったのだろうが、英語としての体を為していないのが残念なのだ。実は厳密に言えば「パワーハラスメント」等も間違っても英語だと思って使わないことが望ましいとすら思っている。何でもかんでも上記の“harassment”の範疇に入ると考えて「ハラスメント」で括らないことが望ましいと、私は考えている。

何故そう言うかを、ここで英語の文法に立ち返って考えて見よう。“power harassment”は「上司乃至は上位にある者がその指揮下にある部下または従業員を(厳しく)叱責すること」なのだろうが、それなれば“harassment by superior”か“harassed by boss”のような語順にせねば意味を為さないと思う。「カスハラ」では“harassment by customer”にしましょうと提案したくなってしまう。「マタニティハラスメント」となると「母である事がいやがらせをしていること」になってしまう。困ったことは“maternity”は形容詞なので、ハラスメントの加害者(行為者)にはならないのだ。

気になっていることは、“sexual harassment”が我が国に伝来した時に、sexualが形容詞である事を忘れたか知らなかったようで「ハラスメント」をした主語であると見たようであること。だから「~ハラスメント」という表現を作る際に「カスタマーハラスメント」のように語順が逆になってしまったようだ。どんな場合でも「ハラスメント」を白に付けていれば良いという事にはならない。

「一寸くらい英語が解るからといって、偉そうに屁理屈を言うな」という声はもう聞こえてきている。そう言われる事くらいは承知で言っているのだから。今日まで主張し続けてきたことは「カタカナ語を幾らでも作り上げて使われることを阻止するつもりなどない。だが、圧倒的多数のカタカナ語というかカタカナで表記されている言葉は、英語としては通用しませんよ」なのである。

であるから、何も「ハラスメント」などと言わずに「お客様の不当行為」であるとか「上司による地位または職権濫用の粗暴な叱責」のように普通の日本語にすれば、意のある所を表現できるのではないかと言いたいのだ。もしかすると「カタカナ語にして表現すること」に権威を見出しているのかと、残念に思っている。