大谷報道は過剰ではないか:
3日ほどネットから遠ざかる過ごし方をしてきて、昨30日に帰ってきて見てみれば、各方面と有識者から「マスコミ、特にテレビでも大谷関連の扱いは過剰ではないか」との意見が出ていると知った。「矢張り、そういう声があった」と、正直に言って安心した。兎に角、ニュースではあらゆる話題に先駆けて大谷翔平の動静であり、Dodgersの勝敗から始まると言っても過言ではない状況なのだから。
確かに怪我を顧みずにティームの為、自分の為に大試合に出場する大谷君は立派だろう(と見えるのだろう)とはは思う。恐らく、日本中に熱心な大谷支持者が無数にいて、石破政権の行く先に何があるのかよりも、我らが大谷翔平君の動静が気懸かりなのだろう。テレビはその方が視聴率も上がるのだろうし、新聞だってそうすることで駅売りが伸びるのだろうとは思う。
だが、狭いようで広い日本には、そういう過剰な大谷報道に対して、批判的というか苦々しい思いで見ている人たちもいるのだ。当方も彼等報道機関の商業主義を真っ向から否定はしないが、視聴者をミーハーの如くに看做しているかのような姿勢は好ましいことだとは見ていない。
私の年来の持論は「マスコミが特定のスポーツ選手を過剰に持て囃すような扱いで報道すると、動もすると好ましくない結果が出る」なのだ。断っておくが「好ましくない結果」は、その選手が過剰な褒めそやし報道に接して思い上がったとか、自信過剰になったというのではない。
これまでにそういう例が数多くあったではないか。今回もリーグ戦中にあれほど多くの盗塁をして事故もなく過ごしてきた大谷に、まさかの左肩亜脱臼が生じていた。因みに、1946年にサッカーの試合中、倒された時にあのような左の掌のつきかたをして左肘を骨折して未だに不自由である経験からも、あの形が危険だと経験上からも言える。
私が強調したいことは、毎度のことだが「マスコミの軽佻浮薄な歩道の姿勢」を非難したい点である。「我が国内に如何なる事態が生じていようと、報道する側はニュースの優先度を的確に判断すべきだ」という事。尤も、視聴者がそのニュースの扱い方に慣れて、大谷が打ったか打たなかったかを心待ちにするようになることが、総選挙の結果よりも重大だと思っているとしたら、それも心配になってしまう。