英語とその発音に悩む方々に対して所謂「上から目線」だったか:
私はこれまでに多くの方から「あれほど学校で勉強した(させられた?)にも拘わらず一向に英語が話せない」という嘆きを聞く度に「それは貴方の能力の問題ではありません。話せるように教えない学校教育のせいだと割りきってください」と言ってきた。そして、ずっと以前には実際にお教えしたこともあった。
また、こと発音の問題になると、我が国独特の学校教育独特のカタカナ的というかローマ字風の教え方も手厳しく非難してきた。そして、「発音は綺麗で正確でなくてはならず、その為には日本人にとって親しみやすくアメリカ国内でも正調とされる西海岸の発音を目指されると良い」などと言ってきた。言うなれば、これまでは英語が思うままにならない方に向かって、学校での教え方の批判ばかりしてきただけだった。
だが、今回ブログに頂戴したコメントへの反論というか、私の意見と考えを纏めて初めて気付いたが、私はこれまで「通じなかった」か「何とか通じたので嬉しかった」という範疇に入る方々に対して無情だったようだと思うに至った。そういう立場に立って考える必要もあったと、あらためて反省したのだった。そのような悩みをお持ちの方にお教えしないまでも、一緒に悩み、改善の手法を考えて上げるか、もっと優しい助言をすべきだったと思うのだ。
とは言って見たものの、我が国の学校教育の英語で育ってきた方々の英語力を高めるお手伝いをするのは容易ではない。それは何回か講座の如きものを開く経験をしたし、商社の若手の個人指導も手がけてみて、痛切に解ったことだった。だが、そう言ってばかりいてもことは始まらない。大きなことを言えば、機会があれば何処かで何らかの手段で我が国の英語教育が少しでも良くなるようなことをやってみたいという野望は捨てられないし、捨てたくはない。それこそ、”better late than never.”の精神だ。
私はこれまでに多くの方から「あれほど学校で勉強した(させられた?)にも拘わらず一向に英語が話せない」という嘆きを聞く度に「それは貴方の能力の問題ではありません。話せるように教えない学校教育のせいだと割りきってください」と言ってきた。そして、ずっと以前には実際にお教えしたこともあった。
また、こと発音の問題になると、我が国独特の学校教育独特のカタカナ的というかローマ字風の教え方も手厳しく非難してきた。そして、「発音は綺麗で正確でなくてはならず、その為には日本人にとって親しみやすくアメリカ国内でも正調とされる西海岸の発音を目指されると良い」などと言ってきた。言うなれば、これまでは英語が思うままにならない方に向かって、学校での教え方の批判ばかりしてきただけだった。
だが、今回ブログに頂戴したコメントへの反論というか、私の意見と考えを纏めて初めて気付いたが、私はこれまで「通じなかった」か「何とか通じたので嬉しかった」という範疇に入る方々に対して無情だったようだと思うに至った。そういう立場に立って考える必要もあったと、あらためて反省したのだった。そのような悩みをお持ちの方にお教えしないまでも、一緒に悩み、改善の手法を考えて上げるか、もっと優しい助言をすべきだったと思うのだ。
とは言って見たものの、我が国の学校教育の英語で育ってきた方々の英語力を高めるお手伝いをするのは容易ではない。それは何回か講座の如きものを開く経験をしたし、商社の若手の個人指導も手がけてみて、痛切に解ったことだった。だが、そう言ってばかりいてもことは始まらない。大きなことを言えば、機会があれば何処かで何らかの手段で我が国の英語教育が少しでも良くなるようなことをやってみたいという野望は捨てられないし、捨てたくはない。それこそ、”better late than never.”の精神だ。