「『である』ことと『する』こと」の最初の段落は「権利の上に眠る者」というタイトルがつけられている。内容は次の通りである。
「時効」について、金の貸し借りについてを題材として話を始める。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババを決め込む不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするのは不人情な話のように思われるが、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨がある。このような考え方は日本国憲法の自由や権利、アメリカの自由においても同じような考え方ができる。つまり日々権利や自由を行使しなければ、その権利や自由は失われてしまうのである。その意味では近代社会の自由や権利は一部の人には荷厄介な代物だと言える。
この「権利の上に眠る者」の要約はどうなるのか。どの指導書を見ても上記の最後の一文のところが抜けているのである。つまり「権利や自由は行使しなければ失われてしまう。」という近代社会の精神だけがこの段落で語られていると言っているのだ。これはあきらかに誤りだ。なぜならこの「『である』ことと『する』こと」という評論は近代的な「『する』論理」が正しく、「『である』論理」が遅れていて正しくないということを言っている文章ではないからである。これは全体を読めばすぐわかることだ。
このような間違った指導書の記述を何十年と放っておいたのはなぜなのか。あきらかに国語教師の怠慢である。「『する』論理」、つまり近代社会の精神の解説しかしてこなかったのでこういうことが起きてしまっているのではないか。
また、これは講演の原稿からの文章だからなのか、論理構造がはっきりとしていないという欠点がある。民法の時効の精神が、日本国憲法の自由や権利と通ずる、そしてそれがアメリカの「自由」に通じるという論理なのだから、それを各形式段落の最初に示すべきなのだ。そして「近代社会の自由や権利は一部の人には荷厄介な代物だ」という内容は別の形式段落にすべきなのだ。このような論理構造のはっきりしない文章をむりやり読解させる意味があるのであろうか。このような文章は一昔前の文章と言っていい。もっと論理構造のはっきりとした文章に入れ替えるべきである。
「時効」について、金の貸し借りについてを題材として話を始める。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババを決め込む不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするのは不人情な話のように思われるが、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨がある。このような考え方は日本国憲法の自由や権利、アメリカの自由においても同じような考え方ができる。つまり日々権利や自由を行使しなければ、その権利や自由は失われてしまうのである。その意味では近代社会の自由や権利は一部の人には荷厄介な代物だと言える。
この「権利の上に眠る者」の要約はどうなるのか。どの指導書を見ても上記の最後の一文のところが抜けているのである。つまり「権利や自由は行使しなければ失われてしまう。」という近代社会の精神だけがこの段落で語られていると言っているのだ。これはあきらかに誤りだ。なぜならこの「『である』ことと『する』こと」という評論は近代的な「『する』論理」が正しく、「『である』論理」が遅れていて正しくないということを言っている文章ではないからである。これは全体を読めばすぐわかることだ。
このような間違った指導書の記述を何十年と放っておいたのはなぜなのか。あきらかに国語教師の怠慢である。「『する』論理」、つまり近代社会の精神の解説しかしてこなかったのでこういうことが起きてしまっているのではないか。
また、これは講演の原稿からの文章だからなのか、論理構造がはっきりとしていないという欠点がある。民法の時効の精神が、日本国憲法の自由や権利と通ずる、そしてそれがアメリカの「自由」に通じるという論理なのだから、それを各形式段落の最初に示すべきなのだ。そして「近代社会の自由や権利は一部の人には荷厄介な代物だ」という内容は別の形式段落にすべきなのだ。このような論理構造のはっきりしない文章をむりやり読解させる意味があるのであろうか。このような文章は一昔前の文章と言っていい。もっと論理構造のはっきりとした文章に入れ替えるべきである。