とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

1年前シリーズ 蕎麦の隠居

2017-05-05 21:32:07 | どう思いますか
 (1年前のブログを振り返ります。これが1年前だったと考えると1年って長いんだなと思います。また、振り返ることによって本当に自分が残したい言葉が見えてくるように思うからです。体調がイマイチで。忙しいのは同じです。)

 忘れられない落語がありました。おそらく「笑点」で見たのだと思います。小学生くらいのころ見たのでもう40年ほど前ではないかと思います。昔は「笑点」でも落語をよくやっていました。その中でも異色のサゲの落語だったのでとても印象に残っていました。

 話の内容は次の通りです。

 とある蕎麦屋に老人が一人やってきて、そばを半枚(1枚の半分)注文する。次の日は倍の1枚。次の日は2枚。次の日は4枚と倍々に増えていく。そしてそのたびに老人は蕎麦屋に小言を言っていく。倍々に増えていき、こんなに食べられるのかという枚数まで来たのに老人は平気で食べて小言を言う。さて次の日、やはり老人がやってくる。・・・

 この落語が印象に残っていて、その後いろいろなものを調べてみましたが探せませんでした。「半そば」というタイトルだったような気がして、また演者が馬生さんだったような気がしていました。

 その謎がついこの間解けることができました。落語のタイトルが「蕎麦の隠居」。演者は入船亭扇橋さんのようです。インターネットの検索でやっと見つけることができました。「吟醸の館」というホームページの「落語ばなし」というサイトに詳しくその話が出ています。そこに詳しい話の内容が出ていますのでこの話の面白さを味わってみてください。「蕎麦の隠居」は本当におもしろい落語なので、ぜひ誰かがやってくれないかなと思っています。

 長年の私の心のしこりが取れて久々に解放感を得ることができました。「吟醸の館」のサイトの管理者はすごいと感動しました。また、インターネットの便利さもあらためて痛感しました。

 仕事だらけで忙しく、また体調もイマイチのゴールデンウィークですが、ちょっとうれしいゴールデンウィークになりました。
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「『である』ことと『する』こと」③(「自由と権利」)

2017-05-05 17:26:18 | 国語
 「『である』ことと『する』こと」の第1章の批判をするその2回目。
 
 この論説文は講演の原稿なので論理性が犠牲になっている部分がある。この章ので言っているアメリカの自由についての記述は本当に正しいのかということだ。

 よく聞く話だが英語の自由にはfreedomとlibertyの2種類がある。Freedomは「生まれながらの自由」であり、libertyは獲得する自由である。ここで筆者の言う自由とはもちろん後者である。このように英語の自由には2種類あり、しかもそれ現在ではわりと知れ渡っている状況である。それなのに何の説明もなしに「自由は獲得するものだ」という記述を素直に受け入れなさいというのは今日では無理である。

 4月6日に「権利」についても記載した。再掲する。

 きょうの朝日新聞の「福岡伸一の動的平衡 言語が脳に刻みこむ論理」というコラムがおもしろかった。「言語の役割は何か?」という疑問から、「言語は、概念を作り、人間の脳に、その言語固有の神経回路を生み出しうるのだ。」と主張し、次のように言う。

 米国のミーティングにて。英語のネイティブスピーカーがこう話した。rightとprivilegeは何が違うでしょう? 受験英語的には、前者=権利、後者=特権、と暗記させられたから、似たようなものかなと思ってしまう。ところがフロアの人々(これも英語のネイティブスピーカー)、当然のことのように、rightはもともと人間に備わった権利だが、privilegeは本人の努力によって得られるもの、と口にした。

 さらに次のように続ける。

 たとえば当地の子どもは携帯電話を使えるのは、あなたのもともとのrightではなく、privilegeだと厳しく教えられる。宿題予習を終わらせてから初めて親から付与されるものだと。

 子育てでスマホを子供に預ける親が増えていると聞く。実際にそれはしょうがない場面もあるかもしれない。しかし、しっかりとしたしつけなしに行っている親もいるようである。こうやって育った子供はどうなっていくのか。

 日本人は直接的な表現をさける。これは人間関係を円滑にするための知恵である。しかし、この曖昧性を好む傾向は日本人のだらしなさにつながりかねない。ことばを大切にしない社会は、次第に衰えていく。ことばを大切にする社会を作りたい。


 以上のように欧米でも自由は権利は2種類あり、すべてが獲得するものとは言えない。これを見る限り、筆者は欧米人をステレオタイプと考えていると言っていいのではないか。もちろんこれは揚げ足取りのような意見ではある。これが書かれた時代はそこまでの考えにはいたらないのが普通かもしれない。しかし、今日これが教科書に載っているということは時代錯誤と言ってもいいのではなかろうか。
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