とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「良心の命令に従って」(『こころ』シリーズ⑧)

2017-12-18 19:16:54 | どう思いますか
 こころの授業をしていて生徒からの指摘を受けて考えていることがあります。Kの「お嬢さん」への恋心の告白を受けて、「先生」のこころは乱れていきます。疑心暗鬼がつのり、とうとう「奥さん」に「お嬢さんをください。」と願い出ます。Kに追い詰められての告白なのだから、どう考えてもこの後Kに対する罪悪感を感じないわけがないと思うのですが、その後、すっかりとKのことが頭から消えてなくなります。「奥さん」が「お嬢さん」に話をしている間、「先生」は散歩にでかけ、「奥さん」と「お嬢さん」のことだけを考えて、Kのことをすっかり忘れているのです。なぜなのでしょうか。以上の疑問を生徒に投げかけました。
 
 下の46章から引用します。

 私はこの長い散歩の間ほとんどKのことを考えなかったのです。今その時の私を回顧して、なぜだと自分にきいてみてもいっこうわかりません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
 Kに対する私の良心が復活したのは、私がうちの格子を開けて、玄関から座敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の部屋を抜けようとした瞬間でした。彼はいつものとおり机に向かって書見をしていました。彼はいつものとおり書物から目を放して、私を見ました。しかし彼はいつものとおり今帰ったのかとは言いませんでした。彼は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか。」とききました。私はその刹那に、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野のまん中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い止められてしまったのです。そうして悲しいことに永久に復活しなかったのです。


 その時にある生徒が言いました。

 「私はきっと良心の命令に従って」という記述がひっかかる。普通の表現ならば「私は良心にしたがって」でいいではないか。それなのにこのような表現をしているということは、「良心」がカギカッコつきの「良心」であるような気がする。つまり本当の良心ではなく、理屈の上の「良心」なのではないか。そう考えると、その時、「先生」はまだ本当の意味でKに対する罪悪感を感じていなかったのではないか。「先生」の自殺の原因は、Kに対する罪悪感というよりも、自然な良心もなくなっていた過去の自分が許せなかったからなのではないだろうか。

 なるほどと思いました。Kに対する罪悪感を感じないはずがない場面で、罪悪感を感じられなかった自分が、未来の自分を苦しめているという解釈です。これはいい読み取りです。
 
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