前回人間が「言葉」を使うことによって、世界を対象化しすると言った。世界を対象化することによって自己の存在に覚醒し、自己を特別な存在とみなし、自分によってよりよい世界を望むようになる。言い換えれば、人間は「言葉」を手に入れたことにより、欲を持ち始めたとも言える。つまり「言葉」の獲得が人間の苦悩の源なのである。
ここで思い出すのが、旧約聖書のアダムとイブの「禁断の果実」である。「禁断の果実」というのは「言葉」である。
人間にとって「言葉」は生きるために必要なものであったが、逆に「言葉」によってつらさも背負いこむことになった。それは現代でも古代でも変わりがない。このつらさを逃れることは人間にとっての必然であり、だから宗教が必要になったのだ。
近代になり、宗教の力が相対的に低くなり、人間の欲望が相対的に高くなっている。この近代化の波は人間を狂わせ始めている。人間の欲望を抑制するために宗教に頼ることができないのであれば、どうすればいいのか。「言葉」との格闘の中でそれが見つけられるのか、むずかしい局面にさしかかっているように感じられる。
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