漢文の授業で韓非子の「買履忘度」を教材にした。内容は次の通り。
ある人が靴を買うために自分の足を測った。市に行き靴を物色したが、自分の足のサイズを書いた寸法書きを家に忘れてきたことに気づいた。そこで家に戻って寸法書きを取り、市に戻ると、すでに市は終わっていた。自分の足で実際に履いてみるよりも寸法書きを信じたのである。
この話、単なる「お話」ではない。5月5日の朝日新聞の「折々のことば」で関連したことばを紹介していたので紹介する。
「自分で塗りたくった顔をこわがる子供たち。彼らは子供である。」(パスカル)
鷲田さんのことば
たとえば。物を何でもお金で換算しているうち、自分の家、自分の能力、それどころか自分の存在ですら、お金に直して考えるようになる。最後は自分の葬儀の設(しつら)えのランクまで。人はみずから編みだした制度に、あるいは思考の性癖に仕返しされる。人は幾つになっても子供と同じ過ちをくり返すものらしい。17世紀フランスの思想家の『パンセ』(前田陽一・由木康訳)から。(鷲田清一)
「買履忘度」の寸法書きが、お金と似ていると言うと、生徒たちは反応してくれた。
われわれは自分たちが作り上げた虚像を見て生きているのだ。それを認識して生きていくのか、知らずに生きていくのか、そして知って生きていくのが幸せなのか、知らずに虚像の中に安住して生きていくのが幸せなのか、むずかしい問題である。
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