とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

記事Jリーグの試合日程を日曜の昼か土曜の夜に

2016-07-21 08:47:46 | スポーツ
 Jリーグがインターネット配信の大型放送契約を結んだというニュースが出ていました。これまでのスカパーとの契約はなくなるのかどうかはわかりませんが、金額が大きいのでインターネット配信が中心になると考えるべきなのではないかと推測します。

 これまではスカパーの都合で試合の時間が決められていたのですが、これからはそのしばりがなくなることが期待されます。

 わたしの応援しているモンテディオ山形は、地方の小都市のチームです。地方の小都市ではまだ週休2日制なんて普及していません。土曜日の普通のように仕事をしている人が多くいます。だから土曜の午後に試合が組まれても行くことができません。しかも雪国です。J1に上がったときなんか、まだ春先なのに夜に試合が組まれ寒くて寒くてたまらなかったという経験があります。これらは主に生中継をするというスカパー側の都合によって生じたものだと思います。地方密着と言いながら、テレビ局の思惑によって試合日程が組まれていたのです。

 Jリーグが地域との結びつきを考えるならばこの機会に必ず試合日程の見直しをお願いしたい。もちろんそれを考えての変更だと信じていますが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代文の参考書シリーズ こども論5

2016-07-20 09:11:38 | 現代文の参考書
3.時代の変化についてけない

 子どもに対する対応が大きく変化したように、様々な分野で時代は大きく変化しています。世の中が変化するのは当たり前です。しかし近年はその変化があまりに大きく、急激です。するとどうなるのか、大人は自分が子ども時代に一生懸命努力して見につけてきた価値観が、大人になって時代遅れとなってしまって、とまどってしまうようになります。誰もが自分の価値観を信じられなくなり、自己分裂を起こすことになってしまいます。

 体罰の問題もそうです。

 体罰が大きな問題になることがよくあります。体罰によって肉体に後に残るようなダメージを負ったり、自殺に追い込まれたり、このようなことがおこる以上、体罰はあってはならないとのは当然です。しかし、以前は体罰もある程度容認されてきたことも事実です 私が子どものときは体罰は当たり前のように行われていました。「当たり前のように」というと実は少しおおげさなのですが、しかし、体罰がなされたからと言って、大きな問題になるわけではありませんでした。親の中には、子どもに体罰をする教師を熱心な教師ととらえている人もいました。特に運動部の指導においては、親のほうから、「言うこと聞かなかったら殴ってやってください。」
ということがありました。

 今はそんなことはありません。ここ2,30年の間で流れはまったく変わってしまいました。

 昔の教育を受けて、それを信じていた親や教師は、ある程度子どもは厳しく育てるものだと考えています。特に最近のわがままなことを平気でする子ども、人の迷惑を顧みず非常識な行動をとる子どもなどを見ていると、さすがにもっと厳しくしつけるべきではないかと思って当然だと思います。だから、行き過ぎはよくないのは当然として、ある程度の体罰を認めるべきだという考え方もよく理解できます。そして、そのような考え方は過去は否定されなかったわけです。

 子どもたちの中にも厳しい指導のもと実績を上げてきた人は多く、行き過ぎは悪いが、厳しい指導はあってもいいと考えている生徒は多いのです。

 体罰による自殺があり、あるいは度が過ぎる体罰があったりして、世の中の雰囲気は体罰は絶対にダメという風潮になりました。それと同時に厳しい指導はダメというような風潮も生じてきました。もちろんこの背景にはポストモダン的な子ども観があるのは明らかです。

 そしてそれに異を唱えることは「空気」が許さなくなってしまいました。

(この「空気支配」はいつか人類を滅亡に導くような気がします。)

 この結果、体罰はだめとしても、子どもには厳しく指導すべきだと信じ続けてきた大人や、厳しい指導のおかげで成長していると考えている子どもは、自分の信条を否定せざるを得なくなり、いったい自分は何を信じていいのかわからなくなってしまうという事態に直面してしまっています。

 この大きな混乱は徐々に日本社会を苦しめる結果となってしまうのではないかと心配されます。

 つづきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評『日本会議―戦前回帰への情念』(山崎雅弘著)

2016-07-19 08:23:47 | 読書
 安倍晋三首相のようにいわゆる「国粋主義」的な政治家が増えてきたという実感があります。憲法改正、集団的自衛権、道徳教育、靖国参拝など、以前ではタブーとされてきたことも堂々と話し始められています。それはもちろんいいことです。言論の自由は保障されていますし、自分の主義主張をはっきりすることが悪いことであるはずがありません。しかし、急激な右傾化傾向は大いに気にかかります。「日本会議」という組織がその右傾化傾向の中核を担う団体であり、その成り立ちから思想までを批判的に紹介したのがこの本です。

 日本会議が主張していることのいくつかは納得します。日本の伝統である家族主義を大切にして、みんなで助け合う精神を美徳とする、確かにいいことだと思います。また、日本が戦争においてすべてが悪かったという風評も事実ではない。多くの日本人はよかれと思って戦争に参加したわけだし、全否定するような戦後の一部のとらえ方に対して反感したい気持ちはわからなくもない。

 しかし、戦争の責任は当時の日本の中枢を担っていた人たちにあるはずだし、A級戦犯を祀った靖国神社を国の要人が参拝することは大きな問題があるのは明らかです。それを否定しては戦後に育った私たちは自国を信じられなくなります。もちろん日本と戦った国も日本を信用しなくなります。そもそも日本は敗戦を受け止めそれを反省することによって平和主義、反戦思想を育ててきました。日本会議はそれを否定しているように思います。

 また、日本会議の影響が色濃く反映されたと思われる自民党の憲法改正案によると、天皇の位置づけが象徴という立場から一歩進んで、「日本の元首」という言葉が加えられています。自民党は大きな違いはないというでしょうが、これは大きな違いです。いざというときに政治の天皇利用が可能になります。天皇家の人たちは長い歴史の中で何度も政治に利用されてきました。だからこそ政治的に独立しながら国民の象徴としての現在の在り方の中での在り方を必死に考え実践し、今、とてもいい在り方になっていると思います。それなのにそれをなぜ変えなければいけないのでしょう。

 この本は日本会議による現状の日本の危機をわかりやすく伝えてくれます。

 ただし、不満もあります。一番不思議なのは、日本会議がなでここまで大きくなったのかです。そもそもそこになにがあるのか、この本ではそこまでふれられていません。ぜひそこが知りたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画評『疑惑のチャンピオン』

2016-07-18 11:18:56 | 映画
 自転車競技選手ランス・アームストロングはツールドフランスで7連勝した。ガンを克服し復活しての活躍であった。彼は自転車レースのスーパースターであった。しかしそれは薬物によるものであった。事実をもとにした映画である。

 アームストロングの不正は現役時代から疑惑になっていた。しかし証拠がない。だから疑惑はずっと疑惑のままであった。ドーピングの証拠をつかむことがこんなに困難なのか。チーム内での隠ぺいでさえもこんなに長い期間だまし続けられるのだ。もし組織ぐるみ、国ぐるみでの隠ぺいがなされれば、隠し通すことは容易であろう。

 スポーツ界にどれだけの不正がはびこっているのか。最近明らかになったロシアの陸上競技の不正も気になるし、オリンピックやワールドカップにかかわる不正もあり、もはやわれわれはスポーツ界の健全さを信じていない。

 このような不正が社会全体にはびこっているのではないかという気もする。よく話題になる原発にかかわる利権の問題、沖縄に基地を押し付ける圧力の問題、世の中にどれだけの不正がはびこっているのか。もはや自分が生きている場所さえも信じられない状況の中で私たちは生かされている。

 正義をつらぬくこと。決して権力に屈することなく、自分をごまかさないこと。

 自分と戦わなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代文の参考書シリーズ こども論4

2016-07-17 08:37:32 | 現代文の参考書
(【現状の課題】)
2.自立できない子ども、子離れできない親

 最近の子どもは反抗期がなくなってしまいました。それはなぜなのでしょう。

 「ガンコ親父」という言葉がありますが、昔の父親は怖いのが当たり前でした。学校にも名物先生がいてたいてい怖い先生でした。大人が怖いのが当たり前で、それに鍛えられていたわけです。

 なぜ、怖い大人が多かったのかというと、昔は大人は、子どもによりよい大人になってもらいたくて厳しく接していたからです。小学生時代ならその親の言葉に従っているだけでよかったわけですが、中学生、高校生になるにしたがって、大人たちからどんどん大人の価値観を押し付けられるようになります。これは大人たちが単に自分の価値観を押し付けたかったからではありません。社会に出て早く一人前の社会人としてみとめてもらえるようにという親心からだったのです。

 しかし子どもにしてみれば子どもとしての価値観を否定されることになるので、おもしろくありません。「コンチクショウと」と思うようになり、大人が敵となってしまっていたわけです。だから、反抗期というのは、だれが悪いというようなものではなく、子どもが大人になるための通過儀礼であったのです。

 ところが近年、子どもたちは大切に育てられるようになりました。大人たちは子どもの言う事をよく聞き、子どもをできるだけ認め、子どもを応援するようになりました。

 例えば昔は部活動の応援に熱心な親なんてあまりいませんでした。しかし、最近では大会や試合のたびに応援に来る親も珍しくありません、高校でもそうなのです。もちろん、これは悪いことではありません。こんなに家族に応援してもらってうらやましいくらいですし、家族の絆が深まり、子どもの成長にとっていいことです。しかし、これは反面弊害がでてきます。子どもが親離れできなくなるということです。さらに親もなかなか子離れできなくなってしまいます。

 その結果子どもはいつまでたっても子どものままになってしまい、モラトリアム状態、つまり、いつまでたっても就職しない子どもや、いつまでたっても結婚しない子どもが増えてきます。経済的にも、生活面でも親がずっと面倒をみてくれるのだから、それに甘えてしまう子どもが増えてしまうのです。
私たちはここにポストモダンの問題点を見ることになります。

 つまり、子どもの人権を認めようとし、子どもの人格を認めようとした結果、逆に子どもの自立が遅れ、ある意味では親も自立できなくなってしまったのです。

 代の制度を新たなものに改革しようとしたら、逆に前近代的な状態になってしまったというような皮肉な結果になったような気もするのです。

 つづきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする