とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

書評『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著)

2016-07-16 13:34:45 | 読書
 養老孟司さんの『バカの壁』は2003年のベストセラーです。私はそれを読み感銘を受けました。私は『バカの壁』を、人は自分で無意識に直感的に感じていることを言葉にして意識化しているだけなので、本質的には理解しあえないというふうにとらえました。なぜ人間関係がうまくいかないのか、なぜ戦争がなくなることがないのかがよくわかります。『バカの壁』を読んでから、私は人間の意識について大きく考え方を変えざるを得ませんでした。養老さんの『バカの壁』で言っていることは、この本で言っていることと基本的には同じことだったのだと思います。

 私たちは意識的に行動し、意識によって自分をコントロールしていると思い込んでいるが、それは逆である。無意識で感じたとことを後追いでつじつま合わせをするのか「意識」である。この本ではそう主張しています。納得できます。そしてどうしても自分の意識について冷たい視線で見つめ直さざるを得なくなります。
 
 最近柄谷行人さんの『憲法と無意識』という本を読みました。徳川時代の戦争のない時代を過ごした日本人は無意識に戦争を好まない方向の志向をとるようになっていた。だからアメリカによってもたらされた憲法でありながら、決して改正しない方向に言論が向かっていくという内容でした。この本における「無意識」のとらえ方もこの本と通ずるものがあります。

 近年心理学や認知心理学を学び始めたこともあり、無意識と意識の関係というのはとても興味深く、刺激的な本です。「意識」に対する、いや「人間」に対するコペルニクス的転換を余儀なくされるような内容です。

 しかし、意識は無意識のつじつま合わせだけではないのではないかと私は思っています。意識が無意識に働きかけることもあるのではないでしょうか。その考えを失ったら人間であることが無意味です。希望を失った人間に未来はありません。私は「希望」を求めてこれからも考え続けていきたいと思います。
 
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現代文の参考書シリーズ こども論3

2016-07-15 18:44:09 | 現代文の参考書
【現状の課題】
1、子どもを甘やかしすぎてはいないか。(「近代」の復讐)
 詰め込み教育の反省から、「ゆとり教育」が誕生しました。この「ゆとり教育」のおかげで子どもが明るく元気になったのは事実だと思います。しかし、この「ゆとり教育」は一方では学力低下を招いたという批判がなされました。どのデータをもとにしてこれを検証すればいいのかわからないのですが、その傾向はあったのだと思います。

 ただし、事実を曲解した議論もあったのも事実です。例えば、当時円周率を3,14ではなく3で教えるということが話題になり、これに対して、大きな声で批判している人がたくさんいました。しかし、ではなぜより正確な3,1416でなく3、14なら許されるのでしょうか。3でだめなら、3,14でもだめなはずで、その理由もわからずにただ回りの空気に流されて批判していた人が多くいました。

 あるいは、大学生の学力低下が叫ばれ、大学生にもなって分数の計算もできないということを問題視する意見も多く聞かれました。しかしこれは学力低下の問題ではなく、大学進学率が急激に上がったためであり、また、文系学部で数学が必要がないという大学入試制度のためであり、「ゆとり教育」の問題ではないのです。

 どうも「ゆとり教育」は日本人の好きな「空気」によって、必要以上に悪者にされたようでした。ただ、「ゆとり教育」が学力低下を招いていたというのは教員をしていて直感的には感じられました。また、学力調査などの数字を見ても、その傾向があったのではないかと感じさせられるものでした。

 さらに、子どもたちは携帯ゲームで遊ぶようになりました。一人で遊ぶことができ、しかも持ち運びが簡単なので、好きな場所で、好きなだけ遊ぶことができます。よくできたゲームであるため飽きることもなく、子どもたちは退屈という言葉を忘れてしまいました。現代っ子の辞書には「退屈」という言葉はないのです。子どもたちのゲームブームなどを見ていると、この子達は将来本当に大丈夫なのだろうかと感じられるようになりました。

 一方では近隣国の躍進が伝えられます。韓国や中国の受験戦争のニュースや、様々な場面での両国の若者の語学力を見て、そして、韓国企業の国際的な躍進とあいまって、このままでは日本は国際競争力を失い、どんどんどんどん、貧しくなっていくのではないかと誰もが心配することとなってしまいました。

 このような状況になって、揺り戻しがはじまりました。確かに子どもを大切にすることは大切であるし、子どもの人権を大切にすることは大切なことです。昔はそれをあまりにも軽視しすぎていたのも事実であろうと思います。しかし、最近の子どもに対する対応はいきすぎなのではないか、子どもたちを甘やかしすぎたのではないか。「ゆとり教育」の見直しがはじまったのです。

 これはつまり、「経済優先主義」の復活であり、ポストモダンから近代への回帰と見ることができます。

 つづきます。
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天皇の生前退位報道の真実

2016-07-14 08:49:12 | 社会
 現在の天皇が生前退位の意向だという。天皇は現代における皇室の在り方を常に考えてきた。その結果たどりついたことが「弱いもの」に寄り添うという在り方だと思う。これは現在の政権とは真逆の立場であったが、国民の支持を得た。天皇制の良し悪し以前に、今の天皇を嫌いな人はいないであろう。だから天皇家と政権の間に微妙な軋轢があるのではないかと心配している。

 現政権のバックにいるのは東電をはじめとする大企業であり、そしてそこと協調しているのは「電通」であるという話を聞いたことがある。そしてその連合体は東京オリンピックでぼろもうけを企んでいるのだ。みんな強いものの見方だ。そういう巨大な力と天皇家が戦ったいるのではないかという邪推をしてしまう。だから、現在の天皇は病気で機能不全になる前には退位しておきたいのではなかろうか。

 また、今回の情報が出たタイミングも、都知事選の鳥越ブームをつぶす絶妙なタイミングであった。これは情報操作のようにも感じられる。なんかよくできた小説を読んでいるような展開でスリリングである。

 まあ、私の勝手な邪推であろうとは思うが・・・。
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現代文の参考書シリーズ こども論2

2016-07-13 12:25:38 | 現代文の参考書
【経済主義と子どもの関係】
 「巨人の星」と「タッチ」のような子どもに対する認識の変化はどうして起こってきたのでしょう。

 近代の大きな特徴は経済主義です。お金のあることが正しくお金がないことが間違っています。間違っていると言うとしっくりこない人もいるかもしれませんが、いい年をした大人が働かずぐだぐだしていれば、世間から白い目で見られると思います。お金もうけばかり考えている人は強欲であまりよく見られないという傾向はありますが、それは日本人独特の横並び意識というもうひとつの価値観のためで、現代人のだれもがお金を必要としているのは明らかです。

 お金を座標軸として見ますから、労働力にならないものは「一人前」として扱われません。

 子どもは大人になる前の段階ですので労働力として計算できません。「働かざるもの食うべからず」という表現がありますが、子どもはまだお金を生み出していませんので、一人前の人間になる前の存在としてとらえられてきました。労働力として計算できるようになると一人の人間としての権利が得られる、そう社会は(無意識のうちに)見ていたのです。その意味で、近代に子どもに「人権」はなかったのです。
だから、子どもはよりよい大人になるために、「教育」されました。ここでいう「教育」は大人になるためのしつけという意味も強くあったと思われます。だから体罰もある程度は容認されてきたといっていいでしょう。

 しかし、「ポストモダン」になり、経済的な豊かさに対する疑念が生まれてきました。
経済的にいくら豊かになっても、朝から晩まで働きづめで幸せと言えるのか。もっと家族との時間を大切にすべきではないか、と家族のために一生懸命がんばってきたお父さんは非難の対象となってしまいました。

 子どもは子どもで、いい大学に入ればいい就職があり、そうすれば経済的に安定すると教えられ、詰め込み教育が行われ、常軌を逸した受験勉強を強いられました。

 このような近代に対するアンチテーゼとして、「心の豊かさ」が叫ばれ、家族の大切さが繰り返しドラマで描かれました。子どもたちには「ゆとり」が与えられ、そして少子化という事情もあいまって、子ども一人ひとりを大切にし、さらに子ども一人ひとりにお金をかけるようになりました。

 こうして子どもは本当に「宝」となってのです。

 これはいいことだと思います。昔の子どもたちに比べて今の子どもたちは素直で明るくあんりました。物怖じせず、自分の意見をしっかり言います。しかし、いくつかの点で気になることがあります。

 つづきます。
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現代文の参考書シリーズ こども論1

2016-07-12 17:15:02 | 現代文の参考書
【子ども論】
 「子ども論」という分野があります。それについて解説します。

 この分野は、誰もが自分の体験として感じることができるものなので、わりと理解しやすいものではないでしょうか。
 
【「巨人の星」と「タッチ」】
 子ども論を考える上で、象徴的な例が「巨人の星」と「タッチ」です。アニメにもなったマンガで、知っている人も多いのではないでしょうか。野球を題材にした漫画で、大ブームになりました。

 「巨人の星」は梶原一騎、川崎のぼるという人の作品で、星飛雄馬という主人公が、父親である星一徹に小さいころからスパルタ教育を受けて、巨人軍のエースに成長していくというお話です。父親は息子を当然のように殴ります。それに時には反発しながらも飛雄馬はそれに耐え、逆にそれをバネとして成長していきます。

 わたしは小学生のころそのアニメを見ていました。当時、「アタックNO.1」「サインはV」「エースをねらえ」など、そういういわゆる「スポ根」ものが多くありました。私の世代に人は成功のためには努力と根性が必要である(?)と教えられたわけです。そしてそれを実践していた人もかなりいたのではないでしょうか。私世代の根っこには、スポ根精神が存在しているのです。

 「タッチ」は、私が大学生のころ連載が始まったと記憶しています。あだち充という人の作品で、上杉達也という主人公が、双子の兄の死を乗り越え甲子園で活躍する姿を描いています。

 ただし、同じ野球を題材といていながら、こっちはぜんぜん雰囲気が違います。高校野球を題材にしながら、恋愛や友情をテーマとしていて、根性なんて無縁の世界です。もちろんスポーツですから時にはがんばるわけですが、それもほどほどと言ったところで終わってしまいます。それよりも主人公の達也と幼馴染の南との恋愛のほうが物語全体の主軸になっていたと思います。マンガもアニメも大ヒットしました。

 さて、「巨人の星」では子どもである星飛雄馬君は、半人前であるからこそ、親が一人前の大人にしようと厳しく接しました。子どもを大人になる前の未成熟な存在として教育していたわけです。

 一方、「タッチ」では上杉達也も、その周りの高校生たちも、ひとりの立派な人格として描かれています。時には高校生らしい無邪気さもあるのですが、それはそれでひとりの人間の個性として認められているのです。大人たちは時にはアドバイスらしきことを言うこともあるのですが、押し付けになりません。相手を高校生という半人前の存在としてではなく、あくまで一人の人間として接しています。

 つまり、「巨人の星」は近代の作品で、子どもは、大人になる前の未成熟な、半人前の存在として描かれていますが、「タッチ」は子どもも大人と同じように一人前の人間として描かれているのです。
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