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それはバン・コノーイ集落の一番奥まった処にあった。立派な建物内に保存されている。タイ芸術局はサンカンペーン古窯址もこのように保存すべきである。

この建屋に向かって右側、上の写真の右側の低いマウンドに窯址がある。それが下の写真である。

かなり大型の横焔式単室窯で、手前が燃焼室で奥が焼成室であるが、その焼成室を共用するような形で、右奥に燃焼室が繋がっている。北タイ特にカロンでもこのような複雑な重複を見ることができる。以下、建屋内の窯址を紹介する。




表層から1m下の層も煉瓦構築窯である。61番窯博物館でみた粘土構築窯を、目にすることは無かった。


右上の断面図は地下ないしは半地下式を表しているが、左下の絵は地上式を表している。どれが発掘結果の正しい姿を現しているのか、大きなる疑問であるが、マイペンライ(どーでもいいよ、気にしない)の世界では致し方ないであろう。

窯址から出土した陶片であろう。鉄絵釉下彩青磁の陶片である。従ってこの42番窯は鉄絵陶も焼成していたであろう。


巻貝文様は中国明代(15世紀中頃)の染付文様の時期と、当該42番窯の操業時期が重なると思われるので、中国のそれの影響かと思うが、西方例えば乳海撹拌場面の大マンダラ山の手前をよく見ると、何やら巻貝のオブジェに水が注がれている。これは日本伝来の仏教でいう法螺貝で、シャンク貝というベンガル湾やスリランカに棲息する巻貝らしい。聖貝とされ、更には聖水を注ぐ器とされており、多くの北タイ陶磁に巻貝は登場する。しかもクメール陶の巻貝肖形は著名である。
この鉄絵の巻貝は明代染付磁の影響であろうが、中国のみならず中世のタイでは、ポピュラーなモチーフであった背景は無視できない存在である。


絵付け陶磁のみならず、青磁も焼成されており、その陶片も展示されていた。また窯道具もパネルで説明されている。


特に注目したいのは、筒状の焼台ではなく5点トチンである。しかも窯印入りである。これはシーサッチャナーライのオリジナルか?、それとも何処かの影響であろうか?
今回でもって一連のシリーズを終了する。中世のタイの窯業地で未訪問は、シンブリーのメナム・ノイ窯と北タイのワンヌア窯となった。但しスパンブリーは訪問したが、窯址に辿り着けなかった苦い経験がある。これを含めれば3箇所ということになる。できるだけ早い段階で制覇したいと考えている。シンブリーは所在地が明らかで辿り着くのに問題はないが、ワンヌアとシンブリーは不確かでしかない。十分事前調査をして臨みたい。
<了>