世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

NHKスペシャル・御柱を見て・その5

2016-07-05 08:09:22 | 古代と中世
<続き>

今回は、番組を見ての感想である。考古学者でも文献史学でも民俗学者、ましてや民族学者でもないので、好き勝手な論調をお許し願いたい。
縄文期の青森・三内丸山の巨木遺跡を代表として、縄文期文化の一つの特徴として巨木文化が挙げられる。
諏訪大社の「御柱」の祭祀が、歴史上どこまで遡れるか明らかではない。その諏訪の地の巨木文化に関連し、能登・真脇遺跡の環状木柱列遺跡が紹介されていた。番組では触れていなかったが、その遺跡の向きは東向きである。東とは太陽の昇る方角であり、弥生稲作民の日輪信仰に他ならない。
勝手な推測であるが、縄文後期と弥生前期の間には、少なくとも300-400年の過渡期があったのではないか?卑弥呼の時代になって漸く長い戦乱の世、つまり弥生人と縄文人の騒乱が終息に向かったと思われる。そのような真脇遺跡の存在であろう。
過日、当該ブログにも記したが、北タイ・チェンダオの少数民族村・パローン族村の広場に建つ、ファンチャイバーン(心御柱)と呼ぶ村の祖柱を見た。
先端は鉛筆の芯のように尖っている。この心の御柱は日本では、記紀に登場する伊邪那岐・伊邪那美両神が、天の沼矛をかき回して淤能碁呂島を作り、その島に天の御柱を見立てたという、国生み説話と符合する。ク二の祖、中心ということになる。
これと同じかどうか疑義が無いわけではないが、過日吉野ヶ里で見た柱と関連を感じなくもない。それは、北墳丘墓で見ることができる。その墳丘墓にアプローチするのが墓道で、その右手に写真の立柱がある。キャップションによると祖霊が宿ると説明されている。やはり先端は尖っている。

時代はやや下る。「講談社・日本の歴史」には、スケッチ付きで古墳時代の祭りが紹介されている。広場の中央にカミを招く「依代」が建てられて、祭りが行われた。この依代は1本の大木で広場の中心に建てられていた。
このスケッチは、古墳時代の遺跡の発掘調査結果を踏まえた想像図である。カミを招く依代とあるが、祖霊が宿る御柱であると考えられる。これも縄文期以来の巨木文化に繋がることを思わせる。それは出雲大社本殿にも繋がる流れであろう。
写真は、鳥取県米子市・稲吉角田遺跡出土土器に刻まれた絵画で、高殿が描かれている。4本柱と梯子ないしは階段が描かれ、その高さは常軌を逸している。土器の時代は弥生。ここにも縄文の巨木構築物が連綿と弥生に繋がっていることを思わせる。しかし、弥生の時代にこのような高殿が存在したのであろうか?
それを解く鍵が存在していた。平安時代の古書「口遊(くちずさみ)」に記される、雲太和二京三である。当時(10世紀)の出雲大社本殿は16丈(48.48m)で、上古には32丈もあったという。
平成12年ー13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が 約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。中央は、棟をささえる柱 すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものが出土したのである。これにより、巨大本殿が存在していたこと、すなわち下写真の大林組の復元模型にある本殿が、立証されたのである。
これは縄文から受け継がれてきた巨木文化に他ならず、これをもって土器に刻まれた高殿が存在していたことにはならないが、可能性は非常に高い。
このような巨木、巨木柱と言い換えても良いと思われるが、このような巨木柱は、島国・日本のみならず汎世界的な現象というか、構造物ではなかろうかとの思いが浮かぶ。人類みな兄弟の上古であったであろう?
東アジアがどうなのかは朝鮮半島、中国の古代について知らないので、ここは割愛する。
印度大陸にはアショカ王柱が存在している。古代エジプトにはオベリスクが存在し、多くがヨーロッパ諸国に持ち去られ、多くの都市の広場に鎮座する。
古代エジプト・新王国時代(前1500年~前1200年頃)に製作され、神殿などに建てられた。ほとんどは四角形で、上方に向かって徐々に狭まった、高く長い直立の石柱である。先端は四角錐になっており、創建当時は金板や銅板で装飾され、太陽神のシンボルとして、光を反射していたとされる。う~ん。エジプトも太陽神のシンボルであったのか。
一方、ヨーロッパでは先史時代に建てられた、メンヒルと呼ぶ巨石柱がフランス・ブルターニュに残っているほか、ヨーロッパ各地でみられると云う。写真はフランス・ブルターニュのそれで、紀元前3000年代後期の頃であろうとのことである。
話しが大きく飛んだが、縄文人か新石器時代人かはべつにして、上古には当然ながら国境は存在せず、往来は自由であった。木製か石製かは別にして、大きな柱を建てる文化は汎世界的ではなかったのか?
東南アジアや日本は木を選んだ、入手しやすい、加工しやすい点の他に、蘇りを期待したと思われる。木は時間の経過とともに朽ちる。新しい木に取り換えることにより若返る。伊勢神宮の式年遷宮や諏訪大社の7年に1度の御柱祭りと同じ理屈である。
このようにみると、個人的には倭族はどこから?・・・などは、ちっぽけな話で、まさに人類みな兄弟の世界感を感じた次第である。




                                   <了>

NHKスペシャル・御柱を見て・その4

2016-07-04 07:50:46 | 古代と中世
<続き>


番組は以下のように続く。
守矢家が守り続けてきたカミがいる。それは御左口神(ミシャグジ)である。12月の晦日、ミシャグジの前で平和を祈る。年が明けた元旦、ミシャグジの前で春祭りの当番を決める。
出雲から来た農耕のカミのもとで、世の太平を祈る諏訪の大地の精霊。縄文と弥生が争うのではなく、融和していく。神々が共存する諏訪で巨木の祭りが、絶えることなく受け継がれてきた。征服する征服される、そういう関係ではなく縄文的な祭り、縄文的な生活文化をしっかり残しながら、そこに米作りが部分的に入ってきて、山の縄文と低い土地の水田のカミ、それが共存しながらうまくきた。
諏訪大社で建御名方を祀り、土地のカミ(モレヤ)がそのカミ(建御名方)を祀っていくという構造は、融和の象徴ではないかと思われる。

社本宮から舟の形をした神輿が現れる。載っているのは諏訪明神となった建御名方。社を出て山のカミが宿る御柱を迎える。この儀式は縄文と弥生が融和した諏訪の歴史を伝えているであろう。人々は2つのカミの出会いを祝福し、暮らしの無事を願う・・・とのエンディングで番組は終了した。
この番組を見ていると、弥生と縄文は300-400年の幅をもって錯綜しているように思われる。縄文人と弥生人の戦乱と共存を垣間見ることができた。能登・真脇遺跡の環状木柱列は縄文の巨木文化のようにみえて、その祭祀址が意識する方角は東の日輪である。日輪は農耕民族つまり弥生人の祈りの対象である。
聖なる領域を囲む四角の御柱は、結界にほかならず聖と俗、或いは在所者と余所者の在処を区別する目印であったと思われ、今日の東南アジアの山岳少数民族の風俗につながるものがありそうだ。
吉野ケ里の墳丘墓へ向かう墓道脇の1本の柱。これと結界を示す四囲の御柱。巨木の文化は縄文のものであろうが、その巨木が弥生にも顔をだす。巨木は縄文特有のものではなく、汎世界的な現象であろうとの、印象を抱かせる・・・これらの印象や感想は次回にしたい。




                                <続く>



NHKスペシャル・御柱を見て・その3

2016-07-02 08:46:58 | 古代と中世
<続き>

番組は以下のように続く・・・。守矢家の敷地に建つ御頭御左口神総社。祭壇には地元の人々が供えた鹿の骨や栗等の縄文人が暮らしの糧としていた山の幸が並ぶ。
神の名は御左口神(ミシャグジ)と云う。巨木や石に降りてくる土地の精霊と信じられている。守矢家は御左口神を人間の世界に降すことができる唯一の家と信じられてきた。



縄文時代、他の地域にもあったはずであろうこの祭りが、なぜ諏訪だけにのこされたのであろうか。
前3世紀、諏訪の地も弥生の波にのみこまれ、当地でもコメ作りが始まった。押し寄せた農耕文化は、ある外来のカミに重ねて伝えられてきた。カミの名は建御名方命。鹿や鷹を捕獲して農地を広げ、田畑を耕してクニを開いたという。 ー1部略ー
諏訪の地で農耕を広めた建御名方は、諏訪大社のカミ諏訪明神として君臨することになった。
弥生の流れを汲むカミを頂点に戴くことになった諏訪、其の中で何故、巨木を神聖視する縄文のカミが生き延びたであろうか。諏訪に伝わる文書によれば、建御名方に抵抗するために立ち上がったカミがいた。それは元々諏訪を治めていたモレヤ(洩矢神)というカミ。狩猟にたけ大地の精霊の声を聞く、縄文人を思わせるカミだ。モレヤは建御名方の侵入を阻もうとした。長い戦いの末、モレヤは敗れた。しかし意外なことに建御名方はモレヤを滅ぼそうとはしなかった。
縄文以来の諏訪の祈りを守る守矢家。じつはその先祖は、モレヤのカミと伝えられている。建御名方が入って来たとき、それに仕える選択をしたと考えられている。以降、諏訪大社の神事を司ってきた。
・・・今回の紹介はここまでとしたい。
現在の守矢家当主は78代目と紹介があった。これには多少なりとも驚いた。古代以来連綿と家系が続くのは天皇家、今上天皇は125代で、天照大神ー天忍穂耳尊ー瓊瓊杵尊ー略2代ー初代・神武天皇 以降の125代である。
天照大神ー初代・天穂日命から始まる出雲国造家。現当主は84代目にあたる。これと同じように系図がはっきりしている、京都・宮津 元伊勢・籠神社社家の現当主は82代目である。
これらに対し、守矢家は、やや新しいと思わなくもないが、古代から連綿と繋がる家であろう。
卑弥呼が親魏倭王の金印を魏帝から賜るのは、西暦238年(239年説も存在する)とされている。もはや縄文時代は終焉を告げ、弥生時代の話しである。卑弥呼を天照大神にあてるのが一般的とすれば、建御名方と戦ったモレヤは、果たして縄文のカミ有得たるであろうか?
前回指摘した、能登・真脇の環状木柱列遺跡。これも縄文というより、弥生の日輪祭祀の匂いがする。今日、縄文と弥生を区別したがっているように思えなくもないが、相互に錯綜した時代が300-400年続いたのではないか?それが卑弥呼の時代まで続いた戦乱の時代であったであろうと妄想している。




                                 <続く>



NHKスペシャル・御柱を見て・その2

2016-07-01 10:04:33 | 古代と中世
<続き>

1万5千年前~1万年前にかけて、カミが宿る巨木信仰が栄えていた。そして諏訪がその最後の縄文王国であった・・・として、以下のように番組は続く。
水田耕作が九州北部に伝播するのは、前10世紀後半からで、それが400年かけて東漸した。ところが諏訪を含む中部高地を前に、その勢いは急速に衰える。そして中部高地を迂回するように青森へ、そこから東北各地へ南下。残ったのが中部高地と関東平野である。
諏訪の縄文人が最後まで水田耕作を拒んだ。コメではなく、森の恵みと共に生きる道を選んだ諏訪の縄文人。その暮らしを巨木に宿るカミが見守っていた。縄文時代に起源をもつと考えられる巨木の祭り。
八ヶ岳の麓で見つかった中ツ原遺跡。柱を建てた跡が見つかり復元されている。調査の結果、この辺りがどのような場所であったか明らかになった。四角形に並んだ
柱の穴。周辺の土を分析したところ、人体に含まれるリン酸が高い濃度で検出された。ここは縄文人の墓だったのだ
。(当該ブロガー注:人骨が出土したかどうかについては、番組では触れていない)
巨木の祭りに新たな光として、番組は以下のように続く。
富山湾を望む石川・能登町・真脇遺跡、柱の一部が発見され復元された。環状木柱列と呼ばれ、直径7mの円を描く、祭祀址と考えられている。
環状木柱列には門扉と呼ばれている入口と思われる施設が作られている。中心線が後ろの山に向かっていることが分かった。後ろの山と関係のある祭祀の場所と考えられる。


巨木を建てるという意味そのものに目を向けてみた。そのきっかけは、ここで発掘された200頭余りのイルカの骨。真脇の縄文人が食料として長きに渡り捕獲したものだ。富山湾には春から秋にかけイルカの群れがやってくる。イルカを捕獲するには多くの舟と人手を要す。一つの集落では人手が足りず、多くの集落から人手が集まったことを示している。
このように見ると、巨木の祭りには、縄文人が他の集落との絆を深める意味があったと考えられる。周辺の村から沢山の人がやってきて、共同でイルカ漁をやる。環状木柱列をこれから建てるというときにも、その人たちが一緒に参加して、柱を建てたりする行為自体が祭りだと思うので、そういうところは、今の御柱祭と共通するものがあると思われる。

今回の番組内容の紹介はここまでとしたい。番組の中で触れられていなかった点が気になる。それは番組で放映されていた次の画像である。
この画像については、番組で何も触れていない。つまり門扉からの中心線の背後の山は東向きであった。グーグルアースをみると、その中心線は真東を指していることが分かる。番組では後ろの山との祭祀関係を指摘しているが、これは縄文ではなく弥生の祭祀の匂いがする。弥生人は農耕民である。農耕に水と太陽は欠かせない。そう弥生人は日輪を崇拝したのである。この真脇遺跡は、また弥生人の祈りの場であったであろうか・・・?

                                 <続く>