世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ名刹巡礼#10:ワット・チェディーリアム

2016-07-13 08:43:14 | 北タイの寺院
<WatChedei Riam:ワット・チェディーリアム>

この寺院は、チェンマイの南2kmほどのWiangKum Kam(ウィアンクムカーム)という地名にある。1984年、偶然この地にあるワット・チェンカームの境内1.5mの地中から、古陶磁や仏像等が発掘され、これらがハリプンチャイ様式のものであったことから、タイ芸術局が本格的な発掘調査を開始した。その結果、当時のウィアンクムカームは長さ850m、幅600mの城壁とピン川から引いた掘割に囲まれていたことが判明し、ここに21箇所に及ぶ寺院遺跡があったとされている。
ワット・チェディーリアムは、ウイアンクムカームの西側でピン川に近い一角にあり、1289年頃の創建と考えられている。ここではモン族による、ハリプンチャイ様式の仏塔を見ることができる。この四角錐の塔はランプーンのワット・ククットの仏塔を写したと云われるが、これは五層の塔で、各面に三つずつの仏龕があり、その中には各層で少しずつ印相の違う仏像が祀られている。この塔は20世紀初頭にビルマ人の手によって、修復されたことから、ビルマ文化の影響もみられると云われている。

現地に立つと、青空を背景に聳える姿は美しい。過去、氾濫によって幾度も川筋を変えたピン川、そこかしこに点在する煉瓦積みの遺跡、木漏れ日のなか、突然姿を現わす次の遺跡、悠久を感じずにはおれない。


北タイ名刹巡礼#9:ワット・ククット

2016-07-12 07:18:20 | 北タイの寺院
<WatKukut:ワット・ククット>

正式にはワット・チャーマティーウィと呼び、ランプーン市街の西に位置し、その起源はハリプンチャイ王国時代の8-9世紀まで遡ると云われている。尚、チャーマティーウィとは、仏塔を建立したとされる、ハリプンチャイ王国の女王の名前で、仏塔の台座には彼女の遺骨が納められていると云われる。
この仏塔は八角形の基壇の上に、五層の四角錐の塔が載っている。高さは21mで基底は約15m強である。各層には各面毎に3箇所の仏龕を穿ち、合計60体の仏像が安置された。この仏塔はスワンチャンコート(Suwan chang kot)と呼ばれ、創建当時は金色で覆われていたとのことであるが、長年の風雨により漆喰も剥落し、煉瓦が剥きだしになっている。また、塔の頂上には『クー』と呼ばれる飾りがあったとのことだが、今は失われてしまっている。

この塔に似た塔が、スリランカ中部の古都ポロンナルワのサトマハル・プラサーダ(12世紀)だと云う。確か1999年にポロンナルワの仏教遺跡を訪れた。この時見ているとは思うが、そのような視点で見ていないので、その記憶はない。12世紀、タイやビルマとの間で僧侶の往来が盛んで、このポロンナルワの仏塔はタイの職人が普請したとのことで、確かに似ている。(下写真は、サトマハル・プラサーダである。グーグルアースから借用した)
礼拝堂の脇に建つ八角形の小仏塔をラッタナー・チェディーと呼ぶ。直径4.4m、高さ11.5mで八角形各面の龕には、仏立像が安置されている。ハリプンチャイ国王、パヤー・サンパシットが12世紀に建立したものと伝えられている。
現地に立つと、あと100年も経れば、崩壊するのではないかと思うほど老朽化している。ユネスコなり日本は、このような優れた文化遺産の保護に対し、技術的な援助をすべきであろうと強く思った次第である。






北タイ名刹巡礼#8:ワット・プラタット・ハリプンチャイ

2016-07-11 08:25:59 | 北タイの寺院
<Wat Phra That Hariphunchai:ワット・プラタット・ハリプンチャイ>

チェンマイから30km南のランプーンにあり、ハリプンチャイ王国時代はその中心に位置していた。11世紀中頃にハリプンチャイ国王・パヤーアーティットヤラートが、仏舎利を納めた仏塔を建立したのが始まりだと云う。
正面から見ると白い山門と、その手前の一対のノラシンガ像(獅子)が目に入る。これは1447-1448年にランナー朝第9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)が、この寺院を改修した際に置かれたものである。その山門は小さな尖塔を持ち、全体的には宮殿のようであるが、これらはモン族のタワラワディー様式という。このノラシンガ像も山門も、1956年に改修を受けている。
ウィハーン・ルアン(ルアン礼拝堂)はランナー様式で、堂内には大中小の金色の仏像が安置されているが、中央左手の小さなガラスケースの中の仏像プラ・ケーオカーオ(白い水晶仏)は、チャーマティーウィ女王がロッブリーからやって来た時に持参したものだと云われている。しかし、13世紀末、ランプーンを占領したメンライ王がチェンマイに持ち帰り、現在はワット・チェンマンに祀られている。従って現在目にするのは、スイス産の水晶で作った仏像である。
仏舎利が祀られている黄金の仏塔は1418年建立で、20m四方の台座に建つ高さ46mを誇る、ランナー様式の仏塔である。その後1511-1512年にランナー朝の11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)が改修した歴史を持つ。この仏塔は酉年生まれを守護するということで、いたるところに鶏の置物が置かれている。

この仏塔の右奥に、古色で味わい深い仏塔が建つ。ワット・ククットの仏塔に似た、ハリプンチャイ様式のもので、8層の各層に仏龕があり、そこに仏像が納められている。しかし長年の風雨で多くの仏像が失われている。個人的にはランナー様式の黄金の仏塔よりも、この仏塔が気に入っている。












北タイ名刹巡礼#7:ワット・シースパン

2016-07-09 07:46:05 | 北タイの寺院
<Wat Siri Suphan:ワット・シースパン>

1500年、11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)の創建で、1509年の日付のある中世ランナー文字で書かれた碑文が残っている。この寺院は後期ランナー朝の庇護を受け、1806年カーウィラ王(在位:1782-1816年)によって礼拝堂と経蔵が増築された。
この寺院は別名銀の寺と呼ばれ、日本人にとってはワンダーランドの世界であった。写真のように銀色の礼拝堂の前には、ガネーシャ像が建立され花々と灯火が絶えない。中世のランナー朝前期は大乗仏教とヒンズー教が混交した宗教であったとの痕跡が残るが、写真の景色はまさに、それを彷彿させる。
別名銀の寺とは、Ubosot(ウボーソット:本堂/布薩堂)の内外が銀色で現在も普請が継続している(最近落慶したようだ)。銀は酸化し黒ずむので、実際はステンレスやアルミ板を貼りつけてあるが、外眼には太陽を反射し眩しく、堂の中は金箔が貼られた仏坐像の金色が反射し、その内部が金色に見える。まさに金属の特徴を視覚的に遺憾なく発揮している。これは国王在位60周年と国王80歳誕生記念日を祝して建立中で、2004年から普請に着手したもので、300万Bの資金とのことである。それは現在も銀板(実際はステンレスとアルミ)貼りやレリーフの製作が継続している(最近落慶したようだ)。
この寺のあるウワラーイ通りは、昔から銀細工職人が集まっていることで有名で、これとの関わりを無視しては語れない建立と思われる。
ここにタイ人の気質が現れている。古いものには興味がなく、兎に角新しもの好きである。これで当面は観光客や参拝者を集めることが可能かと思われる。









北タイ山岳民族と倭族の履物

2016-07-07 09:12:56 | 東南アジア少数民族

所謂、魏志倭人伝からみていきたい。そこには倭人は「皆徒跣」とある。つまり弥生人は裸足であると、魏志倭人伝は記す。

ほんまかいな?との疑問が無いわけではない。集落内では裸足であったとしても、一歩外の世界へ出るには、踏み分け道程度しかなかったであろうことを考えれば、履物は存在したであろう。
その前に、倭族と云うより弥生人と風俗が似かよっている、雲南南部や北タイ少数民族はどうであろう。北タイ少数民族といえども、近代化の波で裸足の生活など存在しないであろうと考えていたが、モン(Hmong・苗)族の老婆の足元をみると、裸足ではないか・・・う~ん、ひと昔というより20-30年前までは、切り立った切株のない集落内では、裸足は通常の姿であったろうと推測される。

してみれば、魏志倭人伝の「皆徒跣」の記述は、それなりに真実を伝えているとも思われる。
北タイの少数民族も裸足ばかりではなかったであろう。その履物は、どのようなものであったろうか? 現在は鼻緒付きのビーチサンダル(草履)を多くの少数民族が履いている。

ではひと昔前は、どーうであったろうか。ハノイ民族学博物館で黒タイ族の竹下駄を見た覚えがあり、その写真を探すがでてこない。そこでインターネット検索すると、鳥越憲三郎氏のエッセイ「下駄とワラジのルーツ」(そこの”談話室”をクリック)なるHPがヒットした。そこにはアカ族やタイ族、カレン族の下駄が紹介されている。北タイの少数民族は下駄や草鞋を履いていたのである。
そうすると、風俗の似ている我が弥生人も履物を履いていたであろう。登呂遺跡では田下駄が出土しており、この南方系の履物は稲作文化と共に伝来したであろう。また福岡の那珂久平遺跡や吉野ヶ里では、板を浅くえぐった木製の沓が出土している。
沓は別として田下駄は、北タイ少数民族の下駄と同じようなものである。魏志倭人伝を著した陳寿、記述にあたっての情報源は種々あったであろうが、その情報提供者は、実際にどこまでみたのであろうか?との疑念を覚える。
いずれにしても、裸足の生活や履物も、北タイ少数民族と弥生人は似ていたであろうと推測される。