世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ陶磁の源流考・#14<インドシナ各地の窯構造・#4>

2017-01-25 06:50:30 | 北タイ陶磁
<続く>

3.カンボジアの窯構造

3-1.タニ窯
タニ窯については未訪問である。従って情報を得るのは、文献やインターネット検索となる。インターネット検索すると、奈良文化財研究所公開資料(www.nabunken.go.jp/research/cambodia/past.html)と「文化遺産国際協力コンソーシアム」のHPにタニA6号窯の発掘写真が掲載されている。
(出典:文化遺産国際協力コンソーシアムHP)
以下、出典は調査報告書「アンコール遺跡群タニ窯址群A6号窯の調査:杉山洋」に依る。
●所在地
 カンボジア王国シェムリアップ州
●窯名称
 タニ窯址群A6号窯
●平面プラン
 長楕円形
●窯諸元
 全長:6.5m
 全幅:2.8m
  燃焼室長:1.7m
  焼成室長:記載なし
 全高:記載なし
 昇焔壁高:1.4m
●開窯時期
 10世紀中葉
●出土陶磁
 無釉陶:鉢、甕、四耳壺、広口壺、注口壺
 施釉陶:灰釉丸形合子、灰釉筒形合子、灰釉小型盤口瓶
●特記事項
 ●窯体には天井を支える支柱が数カ所に存在、この特徴はブリラムでも確認されている。
 ●昇焔壁高さは、ベトナム諸窯に比較し異常と思えるほど高い。

3-2.ソサイ窯
正式な発掘調査は未だ実施されていない様子で、長さ10m前後であろうと云う以外詳細不明である。

<参考文献>
 ●奈良文化財研究所公開資料
 ●HP・「文化遺産国際協力コンソーシアム」
 ●調査報告書:アンコール遺跡群タニ窯址群A6号窯の調査・杉山洋
 ●論文:アンコール王朝における窯業技術の成立と展開・田畑幸嗣
 ●調査報告書:アンコール遺跡タニ窯址群第2次調査報告・青柳洋治他

今後は、いよいよタイの窯址の概要を紹介する予定である。




                                  <続く>


北タイ陶磁の源流考・#13<インドシナ各地の窯構造・#3>

2017-01-23 08:12:03 | 北タイ陶磁
<続き>

2.ベトナムの窯構造

今回は前回の北ベトナム諸窯の紹介に続き、中部ベトナムの窯について概観する。残念ながら現地を訪れた経験はない。従って文献や資料を検索し情報収集することになるが、適切な窯址写真は入手できていない。

2-3.チャンパ・ゴーサイン窯
以下、窯址挿図や情報の出典は、上智アジア学第11号所収の論文「ベトナム陶磁の編年的研究とチャンパ古窯の発掘調査:長谷部楽爾他」に依る。
●所在地
 中部ベトナム ビンディン省アン二ョン県二ョンホア社
●平面プラン
 長方形 (論文では平窯単房式と記す)
●窯諸元
 全長:14m
  燃焼室長:3m
  焼成室長:10m
 全幅:2.8m
 全高:記載なし
 昇焔壁高:0.5m
 斜度:15度
●開窯時期
 推定14世紀
●出土陶磁
 無釉陶磁:壺、鉢
 施釉陶磁:青磁碗、青自鉢、青磁盤、褐釉壺、黄茶釉壺、灰緑釉縦耳壺、
      暗緑釉壺、瓦類
●轆轤回転方向
 右回転
●特記事項
 ●匣鉢を用いる
 ●煉瓦も用いるが匣鉢を積み重ねて窯体を構築しいている。
 ●青磁鉢類の重ね焼きは、2通り存在する。見込みの蛇の目釉剥ぎと、5点目跡である。
 ●耳付壺は肩に縦耳が付く大型壺で四耳、六耳の例がある。
 ●耳の形状は特徴的で、上部先端を巻き込み、下部の先端は外部側へ折り曲げる。この
 ような事例は、13世紀・福建の六耳壺に認められると云う。
(褐釉花卉刻花文六耳壺・ハノイ女性博物館にて当該ブロガー撮影)

2-4.チャンパ・チュオンクー窯
写真・情報等の出典は、VIEJO・ベトジューベトナムニュース:2016年10月12日版に依る。情報が少なく詳細不明である。

●所在地
 中部ベトナム  ビンディン省アンニョン県二ョンロック社
●平面プラン
 未記載、ゴーサイン窯とは近距離、従って似ていると(写真では似ているようだ)すれ
 ば、平窯単房式窯となる。尚、写真をみるとゴーサイン窯と同様に匣鉢で窯体が構築さ
 れているように見える。
●窯諸元
 未記載
●開窯時期
 13世紀
●出土陶磁
 施釉陶磁:高坏、碗、皿、瓶、甕
(出土陶磁:出典・ベトジョーベトナムニュース2016.10.12版)
チャンパはインド文化の影響を受けているが、出土陶磁を見るかぎり福建・華南の影響を受けているように思われる。
同じベトナムでも、北ベトナムのドゥオンサー窯とは、やや窯形状が異なるようである。単室窯で昇焔壁をもち横焔を用いる点は共通しているが、平面プランがやや異なっている。




                                    <続く>


北タイ陶磁の源流考・#12<インドシナ各地の窯構造・#2>

2017-01-21 09:08:39 | 北タイ陶磁
<続き>

2.ベトナムの窯構造

2-1.ドゥオンサー窯
ドゥオンサー窯は、バク二ン省バンアン社に存在する。故西村昌也氏が中心になり、第一次発掘調査を1999年12月、第二次発掘調査が2000年3-4月に行われた。その結果合計9基の窯址が確認され、いずれも穴窯(地下式横焔単室窯)であった。その一部は西村氏が中心に設立された、ドゥオンサー博物館に移設保管されている。
以下、その1号窯を中心に紹介する。写真は当該ブロガーが現地にて撮影したものであり、転載希望の方はご自由に使用されたい。

以下、出典は「東南アジア埋蔵文化財通信 第6号」2002年7月発行 発行人・西村昌也氏より。
●1号窯平面プラン
 楕円形
●1号窯諸元
 全長:4.85m
  燃焼室長:1.95m
  焼成室長:2.90m
 全幅:2.60m
 全高:1.40m
 昇焔壁高さ:25cm
 煙道:2箇所
●開窯時期
 9-10世紀
●出土陶磁
 無釉陶
  四耳壺、六耳壺、深鉢、浅鉢、薬研、碗、灯明皿
 施釉陶
  灰釉四耳壺、青磁碗、灰釉碗
●轆轤回転方向
 広東系星形釉掻き碗:左回転
 上記以外の陶磁:右回転
●特記事項
 ●出土する青磁碗の器形は、越州窯系の器形を示す。
 ●広東系星形釉掻き灰釉碗・・・見込みに5カ所釉薬を掻きとり、そこに団子状の土をの 
 せ、重ね焼きの支持具としている。この技法は広東省で見られる様式である。
 ●見込み3箇所に貝殻をのせて重ね焼きした碗も存在する。これらは量が多く器形は、越
 州窯系である。
 ●出土する広東系星形釉掻き灰釉碗は中国式の左回転轆轤であるが、それ以外は右回転で
 あると云う。ベトナム化していく過程であろうと思われる。
以上がドゥオンサー窯の諸元と焼成遺物である。焼成遺物からは広東と越州窯の何がしかが影響を与えていると考えられるが、ベトナム国境に近い雷州半島の付け根に「簾江窯」「南海窯」が在る、これらとの関連を調査する必要があろうと思われる。時代から云えば当然であろうが、磁州窯の磁の字も出てこないことに留意しておきたい。

2-2.チューダウ窯
開窯は15-16世紀、青花陶磁を中心に焼造した。場所は窯址群が散在するハイズオン省で、過去に出かけてみたが資料館は見学できたものの、窯址には辿り着けなかった。そこで前出「東南アジア埋蔵文化財通信 第6号」掲載の窯址写真を転載しておく。尚、窯形式などの諸元は未記載である。
地下式の窯であるようだが、これではどのような形式であったか?・・・である。この他に、ハノイ郊外キムラン社の紅河河畔に窯址が存在するとのことで、出かけてみたが紅河の濁流に洗われ、現認できなかった。

以上、僅かではあるが北ベトナムの窯構造を確認してきた。北ベトナム陶磁に関する文献は多い。しかし窯址を示す日本語文献に出会えておらず、これ以上の知識は得られていない。従って以下想定である。初期の窯であるドゥオンサー窯の構造を踏襲しているようであれば、横焔式単室窯が北ベトナムの地で用いられていたであろう。




                                  <続く>





古代出雲の謎・2題

2017-01-20 08:46:06 | 古代と中世
従来から喧伝される古事記・日本書紀・出雲国風土記を読み解いた噺ではない。人畜無害ではあるが、多少眉唾の感じがしないでもない。
先ず、Yahoo JPNのTOPページから地図をクリックし、島根県の地図を画面に出していただきたい。旧国名「出雲」に画面を拡大すると、出雲の神奈備四山が表示される。
神奈備四山とは、出雲国風土記(出雲国風土記では神名火山と記す)で云う意宇(おう)郡の茶臼山(地図では松江市の南東)、秋鹿(あいか)郡の朝日山(松江市の北西)、楯縫(たてぬい)郡の大船山(出雲市の北東)、出雲郡の仏教山(出雲市の東)である。
この神奈備四山の位置が分かったら、それぞれの神奈備山を線でつないでいただきたい。そうすると下の写真のようになる。
上辺が下辺よりやや狭い台形ができる。対角の神奈備山を線で結び、その延長をたどると三瓶山へその反対側の延長上には高志の能登半島は珠洲へ繋がる。もう一方の対角は大山と新羅の迎日湾につながる。これは何だ!!
八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島、つまり出雲国であるという。
志羅紀(新羅)の三埼を引いた綱は薗の長浜(稲佐の浜)に杭は三瓶山に、都都の埼を引いた綱は夜見の嶋(弓浜半島)に杭は大山になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
これらの比定地として高志を北陸地方(越前・越中・越後)、都都を能登半島の北端珠洲岬に充てる説が有力である。
まさに国引き神話の配置そのものである。出雲風土記は大国主命が高志の沼河比売(出雲国風土記では奴奈宜波比売命)に求婚する説話も登場する程、高志は縁深い。
新羅は記紀によれば、五十猛の命が朝鮮半島から渡来した土地である。事実として出雲市川跡町・山持遺跡から弥生後期ー古墳時代前期の新羅製土器が出土する。 う~ん!!。偶然の一致か?・・・それにしても噺ができすぎている。もう一度上の写真を見て頂きたい。この図は四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)そのものである。この墳丘墓は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。
(島根県隠岐の島町の大城墳丘墓、四隅が写真のように突出している:ウキペディアより転載)
この墳丘墓は高志にも存在する。とすれば朝鮮半島にも存在するであろうとの妄想が湧く。実は妄想ではなく事実で、残念ながら新羅そのものではないが、高句麗の鴨緑江のほとり雲坪里に四隅突出型墳丘墓に似た墳墓が存在する。”う~ん、弥生の古代人は方位が読めるのか?”

2つ目の噺である。またまた地図を出していただき、伊勢神宮と出雲大社を直線で線を引いていただくと、下の写真のようになる。

その直線はなんと平城京、しかも平城宮跡の真上を通過する。またまたこれは何だ。偶然の一致か?。出雲大社の先を延長線上に従って伸ばすと新羅に至る。
以下、ゲスの勘繰りである。これはたまたまの一致ではない。奈良時代に至っても大和朝廷の最大の癌は、出雲の勢力であった。伊勢神宮の調伏力をたのみ、その線上の下に平城宮を建てたのである。さらにその延長上に新羅が存在する。
大和・奈良の朝廷は、天智天皇2年・白村江の記憶は強烈であった。白村江その新羅に対し伊勢もっと言えば天照大神の御加護を求め、その線上の下に平城宮を建立した。妄想であろうが、その宮殿には天照大神を祀る社殿とともに、出雲と新羅を調伏させる何がしかが存在したであろう。
古代の説話や歴史を証明するような方位軸の存在は、たまたまであろうか?それとも何らかの意識が働き、それを実現する科学が存在したであろうか。何か後者のように思われる。



北タイ陶磁の源流考・#11<インドシナ各地の窯構造・#1>

2017-01-19 08:42:21 | 北タイ陶磁
<続き>

1.中国の窯構造

今回から暫く、インドシナ各地の中世を中心とした窯址、窯構造について概観してみたい。その前に、インドシナ各地に直接的あるいは、間接的に影響を与えたであろう、中国の窯構造について概要を確認しておく。
福建には、北タイに多い横焔式単室窯が存在すると、何かの書籍で読んだ覚えがあるが、記憶が曖昧で詳細が思いだせない。
中国の中世・華北では、平面プランが馬蹄形をした饅頭窯と呼ばれる単室窯であった。また華中・華南の窯は、龍窯で最大長80mもの窯が存在したという。この龍窯は日本で登り窯と呼んでいる・・・これらのことは、北タイの横焔式単室窯に繋がる何がしも思い浮かばない。
(中国・現地で龍窯を見た経験はない。写真は長崎県・波佐見の焼物公園に築窯されている龍窯である。)
何時のことであったろうか(写真の日付は2016年4月3日となっている)? 過去に見た、NHKスペシャル「故宮」か「美の壺」であったと思うが、汝窯青磁いわゆる雨過天青磁を紹介する番組であった。河南省宝豊県清凉寺で窯址が発見・発掘された。その窯址は汝窯と認定されたと云う。あの北宋の時代に焼成された雨過天青磁の窯址である。
父親の時代とは、北宋6代・神宗(在位1067年ー1085年)の時代で、写真を見ると平面プランは馬蹄形であるが、8代・徽宗の時代(在位1100年ー1126年)は小形の楕円形窯であった。みると昇焔壁もみることができる。これは横焔式単室窯であるか半倒焔式単室窯であるか判然としないが、平面プランとしての楕円形窯であることは、疑いの余地はないものと思われる。
北ベトナムや北タイは、元寇の南下圧力で磁州窯の陶工が南下し、その影響を受けたとの論説もあるが、磁州・観台窯を発掘した結果、半倒焔式馬蹄形饅頭窯であり、北タイの窯様式とは異なっている。
先の汝窯・清凉寺古窯址の平面プランは、北タイと似ているが、窯の所在は内陸の河南省である。沿海部の浙江、福建、広東はどうであったろうか? 
平凡社版・中国の陶磁8所収の「景徳鎮の青花窯・関口広次」によると、元時代の初期鎮式窯なる半倒焔式窯が挿図入りで紹介されている。それが明時代に入ると、長さ8.4mで、窯の中央部を細く絞って前室と後室に分けている挿図(葫蘆形窯)が紹介されている。幅は3.7m-1.8mで斜度は4-10度とのことで、匣鉢を用いるとのことである。
天井部分が崩落しているので高さが不明であるが、半倒焔式とあるからには2mはあったであろうと想定される。2mであれば、北タイの窯より背が高い。しかし平面プランは北タイの窯に似ている。
景徳鎮といえば、先の汝窯に比較し随分と沿海部に近づいた。しかし、ここから先が情報がなく、北ベトナムや北タイとの関連性が読み取れないでいる。想像をたくましくすれば、すべてに影響を与えた景徳鎮。その景徳鎮の葫蘆形窯に似た窯が、福建沿海部の窯で採用されていたと想像しても、大きく乖離はしていないであろうと思われる。
下の挿図は、関口広次氏によれば、鎮式窯であると云う。背が多少高いようだが、北タイの窯構造に似ている(時代は異なるが・・・)。
これらの窯が、北ベトナムや北タイにどのような影響を与えたか判然としないが、直接的でないにしても、間接的に何がしかの影響を与えたであろう。尚、雲南は玉渓窯にしても建水窯にしても龍窯である。従来雲南の影響を考えていたが、窯形式の面からは、雲南の影響は認められない。




                                  <続く>