世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

沖縄旅行・#6<首里城・1>

2017-01-13 08:37:09 | 沖縄

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三十数年前、初めて沖縄に来たときは守礼門しか遺構はなかったが、現在では整備が進み正殿のみならず、北殿や奥書院まで復元されている。パンフレットの順路に従って紹介したい。

レンタカーをB2駐車場に入れ、パンフレットに従って先ず守礼門である。風雨に晒され色落ちしているようだ。

 

 

歓会門とは首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられたという。
次は漏刻門。漏刻とは時を刻む水時計で、この門の階上に設置されていたので、この名がついた門である。この上の広場の日時計と合わせて時を知らせたと云う。

正殿に入るには下之御庭からアプローチすることになる。それには、写真の広福門を抜けることになる。

その広福門に入る前の広場からは、那覇市街を望むことができる。下の写真はその一コマ。

その広福門を抜けると、眼前の風景は次の写真のようになる。

正殿前の広場を御庭というが、そこに入るには写真の奉神門を潜ることになる。下の写真はその奉神門。

 

 

この奉神門を抜けると、いよいよ正殿前の御庭である。そこからは次回紹介したい。



                                  <続く>


沖縄旅行・#4<熱帯ドリームセンター>

2017-01-12 08:16:37 | 沖縄

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美ら海水族館と同じ海洋博公園内にあるボタニカル・ガーデンである。沖縄では南洋植物園へ数十年前に行った記憶があるが、この熱帯ドリームセンターはオーキッドと果樹に特徴があるようだ。バベルの塔?・・・らしき遠見台もある。

 

寒緋桜が咲いていた。色が濃ゆく、なにか桃の花のようにも見える。

 

 

 

 

 

日本ではゴレンシと云うが、いわゆるスターフルーツで台湾でも見たし、チェンマイにも存在する。

 

 

カカオまで栽培されていた。特に匂いはしなかったが。




                                   <続く>


北タイ陶磁の源流考・#7<インドシナの治乱攻防と窯業・#3>

2017-01-12 07:45:14 | 北タイ陶磁
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3.13世紀後半(ランナー王国成立前夜)

「大越国・陳朝」1225年―1400年・・・キン(ベト)族
前の李朝末期、乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)で民衆の反乱が起こり、各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れる。1208年に乂安の反乱を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こすと、皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐され、李朝は反乱の鎮圧に外戚である陳氏の力を借りることになる。力を得た陳氏一族は曲折の後1225年に、李氏一族を一掃し建国した。この頃、現・ハイズォン省チーリン県フンダオ社のTran Dien窯やVan Yen Xa窯が操業を開始し、施釉陶磁を焼成した。

「チャンパ王国・占城」
占城の前期については前述。
ビジャヤ王朝は13世紀には元のクビライの侵攻を受けた。元寇撃退の過程で陳興道ら大越陳朝の軍勢と連携(白藤江の戦い)したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世は、和平後に陳仁宗の皇女・玄珍公主を娶り、大越・チャンパの蜜月時代を醸成して、域内平和に貢献した。

「ペグー王国(ハンタワディー)」・・・モン族
13世紀後半より、ペグー(バゴー)を首都としてエーヤワディー(イラワジ)川流域の下ビルマを支配した王朝。建国者のワーレルー王は、シャン族であるが、事実上モン族国家である。

「アンコール(クメール)王国」・・・クメール族
前回記述。半世紀ほど早いがジャーバルマン7世(在位:1181-1218年)の時に最大版図を得た。タイ東北部、ラオス、ベトナムのそれぞれの一部も領有し、ミャンマーのマルタバン湾岸にも達した。

「パガン王国」・・・ビルマ族
前回記述。13世紀後半、ペグー王国(ハンタワディー)の台頭とともに衰亡にむかう。

「スコータイ王国」・・・タイ族
タイ族最初の王朝。雲南から南下したタイ族や北ベトナム付近から西南下したタイ族は、13世紀頃まではアンコール王国の支配下にあった。ジャヤーバルマン7世が崩御すると、タイ族の反乱がおこる。2人のタイ族有力土豪が協力して、クメール勢力を追放し、スコータイに建国した。
領域は、タイ北部の南半分を中心としスコータイ、シーサッチャナーライ、ウタラディット、カーンペーンペッ(ト)、ピサヌローク、ナコーンサワン、チャイナートなどが主要なムアンで、中部のスパンブリー等々や南部のナコンシータマラート、さらにはミャンマーのマルタバン湾岸、ラオス北部のルアンプラバーンにまで達していた。
従って下ビルマには、スコータイ朝のタイ族文化の何がしかのものが、及んだと考えられる。
シーサッチャナーライの最下層から出土するモン陶は、13世紀後半からと云われている。シーサッチャナーライ陶磁に先行するものである。

「ハリプンチャイ王国」・・・モン族
前回記述。ランナー王国を建国したメンライ王により、1281年に滅亡した。

「ラヴォー王国」・・・モン族
前回記述。




                                  <続く>






沖縄旅行・#3<美ら海水族館>

2017-01-11 07:45:50 | 沖縄

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沖縄本島北部・本部までは、那覇市内から約2時間。広々とした道を行くことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジンベエザメは大阪・南港でも見られるが、それなりに見応えのある水族館であった。




                                  <続く>


沖縄旅行・#2<摩文仁・平和祈念公園>

2017-01-10 07:57:48 | 沖縄

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ひめゆりの塔の後は平和祈念公園で、摩文仁を望む地に整備されていた。どれだけの面積か知らないが、相当広そうである。十数年前にはなかったと思うが・・・。

 

 

時は1月3日、正月三が日である。ここで沖縄らしい光景を目にした。先祖の氏名が刻まれている碑の前で、その子孫であろう3名の方々が食事をされていた。沖縄では時折みられる光景で、沖縄の墓は福建や台湾同様立派なものである。

 

 

平和祈念公園は不戦の誓いと、自戒の念を想い起こす最適な場所である。しかし、この平和祈念資料館は何であろうか?当日は休館、やたらにでかい躯体。沖縄振興予算がこのような建物に消えるとは・・・・。

国民の血税が、この建物である。何を展示しているのか、休館で見学できなかったが、ひめゆりの塔に在る資料館を凌ぐものか?・・・甚だ疑問である。

植栽は、如何にも南国である。松の隣は南国でみる広葉樹が同居している。空を見上げると凧がふたつたなびいている。気温は24℃暑からず寒からず、絶好の気温であった。




                                  <続く>