東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

昭和、平成を生きる、自分史-3

2013年03月07日 08時48分38秒 | 自伝
満州国新京特別市の小学校は新和在満国民学校といった、勿論鉄筋コンクリートで、一般的な日本の学校より上等であった、日本人街のわれわれは日本と同じ生活いや以上の生活を送っていた、内地では空襲、学童疎開、食糧難、で大変であったのに対し満州では少しの間平和な暮らしである、この平和な暮らしは終戦まで続いた、

そのちょっと前、応召があった、新婚の家庭でも赤紙が来て、その家では奥さんが泣き叫んでどうにもならない、近所の人がみんなで引き剥がしたりした、

終戦の少し前である、ロシアが攻めてくるから疎開をする話になった、明日の朝までにリュックサック一つを持って東新京駅に集合という命令である、女性と子供だけで逃げることになった、うちでは当時交通部(運輸省)の前庭に作った畑のトマトを収穫して食べた、たくさん取れたけどもっていくわけには行かない、列車は2日ほどかけて北朝鮮の定州というところについて、小学校に落ち着いた、体育館である、布団がないのが困った、うちの母は、わらくずを拾ってきてにわか作りの布団を作った、これでどんなに助かったかわからない、この学校には無数の赤とんぼが飛んでいて、きれいな川では女が洗濯をしていた、

終戦の日がきた、翌日すべての家に韓国旗が揚がっているではないか、これにはびっくりした、誰が指示したのだろうか、それからしばらくして、われわれは満州国に帰ることになった、これからは本当に大変なことが起こったのだが、私はあまり感じなかった、父が帰ってきた、男性のほとんどはシベリヤ送りとなった、

疎開の人たちの演芸会が行われた、私はハーモニカで予科練の歌を演奏した、一時の演芸会でみんな結構すばらしい芸を披露したようである、

近所の家では庭に5つの土饅頭ができていた、自決とのことだ、しばらくしてロスケ(ロシア軍)が入ってくるという話を聴いた、うちの姉は髪を切り、男の服を着て押入れに隠れ、どうにか被害を免れたようである、ドアは厳重に板でおおって防御したのだが相手はマンドリン(自動小銃)をもっているのだ、狙われたらおしまいである、彼らに連れて行かれて翌日半狂乱になって帰ってきた婦人が何人にもなった、大人は井戸に飛び込もうとする女性を必死でおさえたのである、

ロスケたちは満州のほとんどの財産をもっていった、たとえば、近所に電話の自動交換機が設置してあったのだが、丸ごと取り出してもって行った、

われわれは長い長い一年間をこういう場所で過ごしたのだが、その間国民軍と八露軍(中共軍)の戦闘があった、家の外で撃ち合っているんだからたまらない、建物に弾痕がいくつもできる始末、家から見える原っぱでは中央に、一人の兵隊が倒れていた、一日目は何とか起き上がっていたのだが、2日目には起きられなかったようである、

ひとついえることは、日本ほか先の大戦でひどい目にあった人たちは、本気で絶対に戦争なんかいやだと思っているのに対して、毛沢東率いる中国は国民政府と戦い、そのずっと後でも文化大革命によって
2000万人の自国民を殺した、今尖閣諸島にちょっかいを出している彼らのやり方を見ると、本当に油断ならない、うまく付き合っていく方法はないだろう、

少し落ち着いてくると、何とかして食料を買わなければならない、満人が売りに来るのに、なけなしの着物を出して卵などと交換した、父はタバコ巻き器を通って売った、タバコは少しあったが、紙巻はない、そこでコンサイス辞書の紙(これがちょうどいい)でタバコを巻くための機械といっては大げさだが、長さ15センチくらいのものだ、桐のたんすを壊してたくさん作り母と姉が売りに行った、のちに東京でもたばこ巻き器を見たが実にコンパクトに進化していたなあ、こういう露天がたくさん出ており、私の友達のM君のところでは漬物を作って売りに行ったとの事だ、

このとき、新京よりさらに北の開拓地から逃げてきた人々は悲惨だった、途中匪賊に2回も、3回も会うのだからたまらない、ほとんど身に着けるものもなく、ぼろくずのような姿で新京に来たのだ、いや、たどり着いた人たちは幸運だった、殺されたり、自決した人も多く、中国人の家庭に預けられた子供は残留孤児となって何十年か後に日本に帰った、

だから国民学校の一年間は学校に行っていない、2年のはじめごろ先生の家に行っての寺子屋が始まったけど、この新和在満国民学校時代の先生、ほんとにお世話になった、誰かネットに出していないかと定期的に調べるのだが勿論発見できない、うちの下の階に住んでいたのは同級生の長谷川寛治君である、名乗り出てくれたらいいのだが、



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4 コメント

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想像を絶する異国での敗戦 (anikobe)
2013-03-07 21:49:52
6年生のとき、満州から引き上げてきて友達になったsちゃんは、満州でのことは何も言わないまま現在に至っていますが、教員をしていたおとうさんが向こうで亡くなり、お母さんと姉妹4人で内地の土を踏んだ過程には、東京老人さんの「自分史」を読んでいるうちに、何も話さなかった彼女のことが、辛い悲しい思い出に繋がるものと、分かるような気がします。彼女のお父さんと私の父がこちらの師範で同級生だったことから、父は同じクラスに入れてくれるように頼んでくれたので、それ以来ずっと友人でいます。

東京老人さんの自分史についてのコメントで泣く友人の満州引き上げについてのことになってしまってすみません。
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anikobeさま (東京老人)
2013-03-07 22:12:17
Sさん姉妹4人でよく日本にかえってこられました、
お父さんがなくなり、 小さい4姉妹を連れての引き上げ、
さぞ大変だったことだとおもいます、
奥地の開拓団員、シベリヤ抑留の軍人、大変だったでしょう、不幸にも殺された人のことはなんといっていいかわかりません、 

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満州 (hirom)
2013-03-08 07:49:42
家内は 終戦時の悲惨なことは幸か不幸か記憶がないようです。終戦直前に死去の父親が満鉄関係だったようですが、すんなりかどうかは別にして、あまり移動はなく引揚げてきています。

77才と75才の姉達は多分いろいろなことを知っているんでしょうね。あまり話さないですが… 4月に佐賀に法事で行きますので聞いてみたいと思います。
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hiromさま (東京老人)
2013-03-08 08:26:08
奥様はどこにお住まいだったのでしょうか、満鉄関係だったら、
きっと新京だとは思いますが、
もしおねえさまからお話が聴けたらうれしいと思います、
もしよかったら、私のブログを見せていただいたら、どこにおられたか聴けると思うのですが、
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