ヨメと結婚して、来月6日で34年になる。
出会ったきっかけは覚えていない。ヨメも忘れたという。そんな2人なのだ。
グループ交際ではない。ナンパでもない。偶然運命的な出会いをしたわけでもない。
きっと知らない間に付き合っていたのだと思う。
私が25歳ヨメが22歳のときだ。
2人とも旅行が好きだったので、国内は色々なところに行った。
北海道、東北、北陸、草津でスキー、箱根、伊豆温泉巡り、寸又峡、飛騨高山、上高地、三重賢島、関西全域、広島、松江、道後温泉、熊本鹿児島、屋久島など。
どこでどうなったか覚えていないが、その過程で、結婚するかという話が出た。
そのとき、ヨメの顔が曇った。
「私はいいんだけど、母が反対すると思う」
ヨメの家は、筋金入りの巨大宗教の信者だった。
ヨメも両親の影響を受けて、物心ついたときから信者になった。自分でそうなったのかどうかは知らない。
義母は、とても頑固な人だった。「説得」というのが通じない人を久しぶりに見た。
何があっても、自分の娘は同じ信者と結婚させたいという考えを曲げなかった。
「それにね、自分の目で見たものしか信じないという罰当たりものの顔なんか見たくない。人間として一番下等だわ」
それは、私も同感する。
そのあと私たちは、東京から神戸に逃げた。
幸いにもヨメが勤める信販会社の支社が神戸にあった。ヨメは早速異動願いを出した。
そして、当時私は法律事務所に勤めていた。その事務所のボスの弟さんが神戸で法律事務所を開業していた。
私はボスに、神戸で武者修行をしたいんです、と無茶なお願いをした。事情を知らなければ納得できないだろうから、正直にすべてを話した。
ボスは納得してくれた。「ただすぐにとはいかないよ。向こうも準備があるからね。環境が整うまで時間をくれ」
95度の感謝のお辞儀。
ヨメの会社も3ヶ月後に許可が出た。
神戸でワンルームを借りた。幸いにも簡単なキッチンとミニ冷蔵庫がついていた。
しかし、その他には何もない。ただ、まわりの人のご好意で、ふとん2組といらなくなった電気ストーブ、やかん、掃除機、二合だきの炊飯ジャーを貸してくれた。
ありがたいことだ。
自分たちが買ったのは、ミニ卓袱台だだけだ。
まだ籍は入れていなかったが、新婚生活がスタートした。
お互い忙しかったので、朝は白米かシリアル、夜は惣菜で済ませた。でも2人とも元気に冬を乗り越えた。
問題は、義母のことだったが、まわりがじわじわと説得してくれた。だが、難攻不落の城はビクともしなかった。
そのうち、ヨメの本社から、帰還命令がきた。本社の命令なら断りきれない。5日で身のまわりを整理して帰った。
ボスの弟さんには不義理をしたのに、最後餞別までいただいた。泣いた。
友だちが紹介してくれた田無のアパートに仮住まい。今度は調度品や布団は自分たちで揃えた。
なんとなく気が楽になった。そのあと、住まいを転々としているうちに、子どもが2人生まれ安定した生活を手に入れた。
まともな家庭ができた。
波乱万丈というほどではないが、波の多い人生だった。これからも波はあるだろう。しかし、乗り越える自信はある。
先日、ヨメが聴いた。「ねえ、今年結婚して何年目かしら」
34年目だよ。
「うわー、私34年も我慢したんだ。感謝状が欲しいくらいだわ」
大丈夫、感謝状はないけど、感謝のしるしは用意した。俺たちに相応わしいものだよ。お楽しみに。
「ふーん、期待しないで待ってるわ。期待は裏切られることが多い。私の教訓よ」
それは、いい教訓だね。俺も教訓にしよう。
今回は、久しぶりにオチのないブログ。
なぜなら、体調が悪いから。
金曜日、医者に行ったら、ヘモグロビンの数値が下がっていると言われた。
ドクターストップ! 安静を言い渡された。
ははー、医者神さま。お言いつけは守りまする。2、3日安静にしていまするのでお許しを。
さて、次回のブログは、どうなることやら。それは誰にもわからぬ。
夕方、ウォーキングの終わりに、私としては珍しいことに、国立駅前のスターバックスに寄った。
国立に越してから、スターバックスに入るのは3回目だ。国立に限らず、今はスターバックスなどのカフェに入ることは、滅多にない。
オジサンは恥ずかしいのですよ。あきらかに浮いているような気がして。オジサンは、365日お洒落な格好をしないので、気が引けます。
スターバックスのテラスは、空いていた。私は、壁側の4人席に席を取った。
飲むのは、ホットコーヒーだ。アイスコーヒーは飲まない。
昔、祖母から言われた言葉を私は忠実に守っていた。
「暑いときは、冷たいものを飲んだり食べたりしてはいけません。暑いときは、温かいものを食べなさい。人間は、本来冷たいものを摂り入れるようにはできていないんです。内臓を守りましょう」
だから私は、スイカや生のキュウリなどを食ったことがなかった。キュウリやトマト、レタスなどは、必ず熱を通したものを食わせられた。それが当たり前だと思っていた。
冷たいものは、内臓に悪い。その教えが染みついていた。
ただ、私は家族や人様にその考えを強いるつもりはない。スイカを食ってもいいし、かき氷もオーケーだ。
食い物にストイックになる必要はない。それは、私だけでいい。
テラスを見渡すと、殆どの人が、スマートフォンかノートパソコンに夢中だった。
私のスマートフォンには、メールソフトとLINE、ツィーター、ウェザーニュース、乗り換えナビ、JR東日本運行情報しか入っていない。ゲームはいれていない。暇のつぶしようがない。
だから、たたただボーッとしていた。
そんなとき、「相席いいですか」という声が上の方から聞こえた。見上げると体格のいい50歳くらいの男が立っていた。
いや、相席といっても他にいくらでも席は空いてますけど。
「久しぶりにお会いしたので、話がしたいと思いまして」
久しぶりに会った? 人違いではないですか。私の記憶では、あなたが抜け落ちています。人違いとしか思えないんですけど。
「お話しているうちに思い出すと思います」と言って、男は強引に私の向かいの席に座った。手にはアイスコーヒーを持っていた。
それを男は、一気に飲み干した。「暑がりなんで、夏は水分がないと。ちょっとすみません。もう一杯買ってきます」
後ろ姿もでかいな。身長は185センチ、体重は85キロと見た。もし男が本当に私の知り合いなら、知り合いの中では1番背が高いかもしれない。
男は、アイスコーヒーを持って戻ってきた。意外と動きが俊敏だった。スポーツ経験があるのかもしれない。
「今年の暑さはこたえますね、本当につらいです」と言って、またアイスコーヒーを一気に飲んだ。
本当に暑さに弱いようだ。額には大粒の汗。首筋にも汗がしたたっていた。
着ているものは、上が白黒のボーダーTシャツ、下は白黒のブチ柄の短パンだった。そのTシャツが汗でビショビショだった。滅多にいない大汗かきだ。
その男が、「4ヶ月前まで、よくお会いしていました」と言った。
4ヶ月前?最近のことだな。懸命に記憶をたどってみた。よくお会いしてました、と言ったな。そんな親しい関係の人を思い出せないわけがない。
頭が混乱した。
男は、自信満々だ。私の記憶が歪んだのだろうか。それともやはり人違いか。
男は、私の心を見透かしたように断定的に言った。
「人違いではありません。お世話になった人を僕は、絶対に忘れません。ここでお姿を見たときは泣きそうなほど感動しました。会えた、会えたと思って神に感謝しましたよ」
悪いけど、ヒントをもらえるかな。
「あなたの名前は、ホニャララ。仕事はデザイン。料理とランニングが好きですよね。好きな女優は、柴咲コウ」
当たっているがな。ますますわけがわからなくなってきた。
混乱の極みのとき、男が突然言った。
「お母さん、お兄さん、お姉さんは元気ですか。皆さんにもお会いしたかったです。でも、もうあまり時間がないので」
それを聞いて、私の頭に閃いたものがあった。頭に稲妻が走った。
だが、突拍子もない話だ。この話を他人が聞いたら、おまえ狂ったかと言われかねない。
しかし、意を決して聞いてみた。喉がゴクリと鳴った。
私は声をかすらせて聞いた。馬鹿げた話だが、いいだろうか。突拍子のない質問だ。
男は、余裕を顔に見せてうなずいた。
君はセキトリなのか。4ヶ月前まで我が家にいた愛猫セキトリなのか。
「やっと思い出してくれましたね。そうです、セキトリです。やっと会えました。本当は、新盆に帰ってくるつもりでしたが、あのときは猛暑で体がいうことをきかなくて、さっき戻ってきました」
もう一度よく男の顔を見てみた。体がでかいわりに小顔だった。髪の毛はフサフサ。だが、所々にセキトリのような模様の白髪が分散していた。
そうか、セキトリ、帰ってきてくれんだね。
しかし、猫ではなく人間の姿だね。そんなことってできるのかい。
「どんな姿にでもなれます。お父さんに会うなら、この格好がいいかなと思って」
そのあと名残惜しそうな顔で、セキトリが言った。
「あーっ、時間がありません。もう行かないと」
セキトリが立ち上った。
「最後に、これだけは言わせてください。お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん。大好きです。今も」
「また会いにきます。さようなら」
セキトリの体が、徐々に薄くなっていった。そして、すぐに消えた。
暗くなった空を見上げると、ハチワレの白黒ブチが空を飛んでいた。セキトリの体が、瞬く間に雲の中に見えなくなった。
セキトリ、会いにきてくれて、ありがとう。
また会いにきますと言ってくれたな。
いつでも待っているよ、セキトリ。
君の顔は覚えた。もう忘れないよ。
椅子を見ると、彼の座った跡に、猫の毛がまとまって残っていた。
私は、セキトリの残したその毛とコーヒーカップを持ち帰った。宝物が、また増えた。
夢のような時間だった。
実際に、これは夢だった。今朝見た夏の夜の夢だった。
安倍晋三先生、お疲れさまでした。
お辛かったでしょう。これからは、難病の治療に専念してください。
昨日の土曜日は、色々なことがあった。
昨日の敵は今日も敵。
午後4時半、ウォーキングに出かけた。
せいぜい5キロから6キロだから、歩数にして7千歩か8千歩だ。
国立の大学通り。10日ほど前、そこを歩いていたら、フレンチブルドッグ3匹を散歩させている女性がいた。マスクをしているから年齢はわかりづらい。25歳から36歳くらいだろうか。
ブチャイクな顔が可愛いね。フレンチ君は、フガフガ言いながら、私の足にまとわりついてきた。可愛いね、ブッチャイクだね。
ヨシヨシとボディを撫でようとしたら、3匹のうち1匹が、意外な行動に出た。私の足の横で右足を上げると、足に向かってシャー。
そんなことって、アルゼンチン?
愛用のスポーツサンダルが、オシッコまみれですよ。マーキングされちまった。俺は君の縄張りか。
飼い主さんが慌ててタオルで拭いてくれたが、生温かい感触は、右足にずっと残っていた。
その3日後くらいだろうか。同じ時間にウォーキングをした。すると、またフレンチブルドッグ3匹と出くわした。
フガフガ言いながら、嬉しそうに近づいてきた。そして、その中の1匹に即座に、マーキングされた。
そうか、俺は、君の縄張りだったんだな。
飼い主さんに聞いてみた。散歩は、いつもこのコース、この時間ですか。
「そうですね。ほぼ毎日」
そうか、では、私が時間とコースを変えれば、マーキングから逃れられるということだな。
ということで、土曜日はいつもより15分早くウォーキングを始めた。幸いにもフレンチ3人組には遭遇しなかった。
ほっとした私は、大学通りの木のベンチに座って、コンビニで買ったクリアアサヒを飲みはじめた。
至福の時間。暑かったが、体から力が抜けますな。オシッコの匂いもしないし。
というのは甘い考えだった。
クリアアサヒを飲んでいたら、前からフレンチ3人組がフガフガ言いながら、嬉しそうに近づいて来るではないか。俺をロックオンしたな。
飼い主さんは必死に押さえていたが、フレンチ3人組の馬力には勝てない。1匹が私の足めがけてやって来た。
マーキング態勢だ。しかし、私も馬鹿ではない。咄嗟に両足を上げて、攻撃を防いだ。
空振りだね、フレンチ君。君の負けだ。
フレンチ君は、恨めしそうな顔で私を見上げ、腰をフリフリ去っていった。
昨日の敵は、今日も敵。
次はいつこの敵に遭遇するだろうか。
そのあと、ケツに入れたiPhoneが震えた。ディスプレイを見ると、立川の同業者サノさんだった。
普段は、すぐに出ることはしないのだが、少しいい気分だったので出た。
「ああ、Mさん、ちょっと相談したいことがあるんですけど、いいですか。いま用事があって国立まで来てるんですよ。申し訳ないですが、出てこられますか」
いいけど、俺、家族の晩メシを作らないといけないので、6時20分までがリミットですよ。
「いいです、十分です。僕はいまロイヤルホストにいるんですよ」
奇遇ですな。私はいまロイヤルホストの下の街路樹にあるベンチで休んでいるんですよ。
国立のロイヤルホストは、2階にあった。見上げると窓際の席に座っていたサノさんが、手を振っていた。私も手を振った。
恋人同士か。
中に入ると、サノさんがメシを食っていた。
サノさんのはす向かいの席に座った。マスクはつけていた。マスク警察が怖いので。
「お先にいただいてます」サノさんは、すでにロースカツらしきものを食っていた。
「Mさんは食べないんですよね。でも、何か軽くつまんでください。僕が払います」
ありがとうございます。キリンラガーと生ハムを頼んだ。
それで、ご相談というのは・・・。
「実は、山梨で本格的に在宅ワークを始めようと思っているんですよ」
サノさんには、とても美人の彼女がいた。モデルのSHIHOさんに似ているので、私は彼女をSHIHO人形さん、と密かに呼んでいた。
彼女は、ご両親と一緒に山梨で農家をしていた。ご両親は野菜農家、奥さんは、トマトの栽培専門。色々なトマトを作って、数カ所のイタリアンレストランに卸し、道の駅に陳列しているという。
サノさんは、山梨で在宅ワークをするにあたって、すでに取引先の了解を得ていた。いいではないか。順調ではないか。
それのどこに問題が?
「実は僕には、彼女との間に子どもがいるんです。もうすぐ6歳になります。来年小学校に上がるので、ここはケジメをつけるべきだと思いまして、入籍と同居を決意しました」
いいですね。いい決断です。子どもさんがいるのには、ビックリしたけど。
ただ、困ったことに、娘さんがサノさんに懐かないのだという。月に1回、彼女が娘さんを連れて事務所にやって来るのだが、抱っこしようとしても完全拒否。レストランに食事に行って大好きなオムライスが目の前にあっても、まったく手をつけない。
帰り際にバイバイをしても、横をプイッと向く。父親だと認めてくれないのだという。
「どうしたら、いいんでしょう」
それは、子どもとしては仕方ないでしょう。いつも家にいない人間に「お父さんだよ」と言われても子どもの理解を超えています。
一緒に生活して、毎日顔を合わせて、サノさんが奥さんやご両親と仲良くしている姿を見せたら、ああ、この人は特別な人なんだって、徐々にわかってきますよ。
最初は、ママをとられた、と嫉妬するかもしれませんが、それは仲良くなる過程だと思ってください。サノさんが、奥さんを大事にし、ご両親を大事にしている姿を毎日見たら、きっと気持ちがほぐれてきます。
ただ、焦らないことです。僕は君のパパだよ、お父さんだよというのは、やめた方がいです。娘さんの頭に徐々にサノさんの存在が浸透していくのを待ったらどうですか。
サノさんは、奥さん、ご両親と仲良くしている姿を見せるだけでいいんです。
大事なのは、娘さんの気持ち。その気持ちを乱さないようにしてください。
サノさんが、テーブルに手をついて、深く頭を下げた。
キリンラガーを飲むのは、久しぶりだったが、やっぱり美味いね。生ハムも適度に熟成していて美味かった。
サノさんは気分を良くしたのか、粗挽きソーセージのグリルを追加で頼んだ。
私は、そこでバイバイした。
家に帰ると、キッチンからいい匂いが漂ってきた。
覗くと娘が、オムライスを作っている最中だった。
「おお、今日の晩ごはんは、ボクが作る。おまえは、パソコンの前で屁でもしていろ。昨日、あまり寝ていないのをボクは知っているぞ。少し休め」
ブフォッ。
サノさんの娘さんが、こんないい子に育つことを私は祈る。
結局、最後は娘自慢。
まずは、面白くもない昔話から。
夏といえば、私にとって、野沢温泉での陸上部の合宿だ。高校1年から大学3年まで毎年参加した。
大抵は、6泊7日だ。30人以上が参加した。部屋は大部屋2つ。襖を取り払うと40畳くらいあったから、広い部屋の中で、夜はみんなではしゃぎ回った。
高原にあったから、朝昼晩涼しかった。ただ、グラウンドは、照り返しがあって、太陽が元気なときは暑かった。バテるやつもたくさんいた。
私は昔からひねくれていたので、横並びの体育会系体質に馴染めなかった。みんな体力が違うのに、なぜこのクソ暑い中、横並びで同じメニューをやらせるのだろう。怪我の元だろうに。
私は、陸上部に正式に入る前に、顧問と会った。そのとき、僕は別メニューでやりますから、それでもいいですか、と聞いた。
顧問は完全拒否だった。「そんなことできるわけないだろうが。一人だけ特別扱いはできない。チームワークが乱れる」。
そのチームワークが鬱陶しいので、私は中学でも陸上部を選んだんですけどね。
では・・・チームワークのいらない2番目の選択肢ボクシングを見てみますかね、と呟いたら、顧問がやや前のめりになって聞いてきた。
「おまえのベストタイムは、いくつだ」
私がベストタイムを言うと顧問の鼻の穴が広がった。「それは本当か、本当なのか」
疑うのなら、これから目の前で走ってみますけど。
「やってみろ」
誰もいないグラウンドで、入念な準備運動ののち、100メートルを2本走った。
手動のストップウォッチだから正確性は乏しいが、2回とも11秒1以内で走った。
ストップウォッチの数字を見て、顧問は「うちで1番早い3年のヨコミゾといい勝負だな」と唸った。
そして、顧問は「明日まで考えるから、ちょっと待ってくれないか」と言った。
私はその後、1ヶ月間の体験入部を許可された。体験入部だから、別メニューでも許されるだろうという顧問の配慮だった。
体験入部では、私は半分以上をストレッチに費やした(その当時は、ストレッチという言葉はなかったが)。
みんなは、100メートル5本。50メートル10本、30メートル20本、インターバルトレーニングなど、与えられたメニューを黙々とこなしていた。
黙々とメニューをこなすのは、才能の一部だが、俺には無理だな、と諦めていた。だって、練習は俺だけのものであって、人と共有するものではない。
俺の1番の関心事は、怪我をしない体を作ることだ。
可愛げのないガキだった。
体験入部の最終日。レースをすることになった。有望な1年生4人と競ったのだ。
その結果を見て、顧問が部員に聞いた。「彼を正式な部員にする。ただ、彼はみんなと同じメニューは走らないと言っている。それでもいいか」
4、5人の3年生が反対したが、1年生全員が賛成したので、入部が許されることになった。
きっと、3年生には、私が和を乱す異端者に見えたのだろう。3年生の1部とは、彼らが卒業するまで疎遠だった。
大学でも陸上部に所属した。
このときは、高校と大学が繋がっていたというメリットもあって、まわりが私のことを知っていてくれたので、やりやすかった。
マイペースで、やらせてもらった。
とにかく怪我をしない体、疲れにくい体を作ることに専念した。
だから、私は怪我をしなかった。不慮の怪我であっても怪我は怪我、本人が悪い。記録を向上させる練習は大事だろうが、怪我をしない体を作るのも本人の努力だ。
・・・・_と偉そうに言っていた私が初めて怪我をした。大学3年の11月だった。
左膝側側靭帯損傷。
担当の医師からは、「ギプスをして少し良くなったら、テーピングをして膝を固定すれば、2ヶ月もかからないで普通に歩けるようになります」と言われた。
走れますか。
「とりあえず、歩くことを優先しましょう」
つまり、走れるようになるまで、さらに時間がかかるということだ。
4年生になって、走れるようになっても意味はない。なので、退部届を出した。
ギプスが取れて何日かたったあと、キャンパスで同級生の長谷川と出くわした。隣には1学年下の妹邦子がいた。
「マツ、陸上部やめたんだってな。残念だよ」と言ったのは邦子の方だった。
「マツのことだから、諦めないですぐに復活すると思っていたよ」
俺は、地道なリハビリが嫌いなんだよ。次に早く進みたいんだ。
その会話を聞いていた長谷川が言った。
「妹が、こんな言い方をするのは、マツ相手だけだよ。他の先輩には、敬語を使うのにな」
どういう意味だよ。
「そういう意味だよ」
油断していたとき、邦子のパンチが、腹に飛んできた。
痛さに悶えているうちに、2人とも消えていた。
長谷川は、他の会社で10年以上武者修行したのち、親父が経営していた中堅商社に勤めた。
あとを追うようにして、邦子も武者修行を経て、卒業から3年後に親父の会社に入った。
邦子が30歳のとき、仙台支社ができた。邦子は、志願して支社長の座に就いた。
仙台は、流通が中心だった。10年足らずで、邦子は1つだった倉庫を3つに増やした。順調だった。
しかし、東日本大震災が起きた。
倉庫は、壊滅的とは言わないまでも、かなりのダメージをうけた。流通を元の軌道に乗せるため、邦子は不眠不休で働いた。
その結果、震災から3ヶ月後に呆気なく死んだ。心臓発作だった。
人は死ぬときは死ぬ。だが、これはあきらかに防げた死だった。なぜ人は、自分の命より会社を選ぶのだろう。
そんな責任感なんか、いらないよ。
月曜日に、邦子の墓参りに行った。多磨霊園だ。一緒に行ったのは、邦子の養女・七恵だった。
結婚しなかった邦子は、遠い親戚から7人兄妹の末っ子七恵を養女に迎えた。
七恵は、自分の義母が、全身全霊をこめて働く姿を見て育った。揺るぎない尊敬の念を持っていた。だから七恵も志願して、仙台支社に異動することにした。
「ねえ,マッチん」と七恵が私に語りかけた。ふざけたことに、この小娘は、数年前から私のことをマッチんと呼ぶようになった。絶対に俺を尊敬してないよな。
「私も今年30歳になるんだよね。お母さんが支社長になった年齢と同じだよ。私はまだ管理部の課長にすぎないけど、はやくお母さんに追いつきたいと思っているんだ」
焦るなよ。お母さんの死を教訓にしなければ駄目だ。俺は、長谷川と一緒に、生意気な君をずっと見ていたい。
七恵は、先週の金曜日に来て、世田谷羽根木の長谷川の自宅に泊まり、火曜日に仙台へ帰った。いつもは東北新幹線を利用したが、今回は車で来た。安全面を考えてのことだという。
「ねえ、マッチん、帰りに食べるから、またお弁当よろしくね」
それは毎年のことだ。いつも七恵の好きな鳥そぼろ弁当を持たせた。今回はそれに加えて、最近急に好きになったという漬物をつけた。キュウリ、ナス、ミョウガ、セロリだ。
国立の大学通り脇に車を止めた七恵に、お弁当を渡した。
「ありがとう」と言い終わらないうちに、ボディにパンチが飛んできた。
なんでー!!?
「昨日、私のことを『生意気な娘』って言ったよね。そのお仕置きだ」
これで6年連続のボディパンチだ。以前よりは手加減してくれているようだが、痛いは痛い。
「今年の10月には、全体会議があるからまた来るね。そのときまでに鍛えておいてね」
ごめんだね。そのときは、会わないもんね。
「そんなことが許されると思うの。長谷川のおじさんに、無理やり連れてきてもらうから、無駄な抵抗はやめた方がいいよ」
七恵の車が、遠ざかっていった。
年々怖くなってくるな。
この分だと支社長になるのは、意外と早いかもしれない。