リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ホイットニー

2012-02-28 10:59:14 | オヤジの日記
ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ
ジム・モリスン、エルビス・プレスリー、カレン・カーペンター
マーク・ボラン、ジョン・レノン、ボブ・マーリー、カート・コバーン
フレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソン
ホイットニー・ヒューストン・・・・・。

みな若くして不慮の死を遂げた人たちばかりだ。

それもビッグ・ネームのアーティストたち。

人よりはるかに才能に恵まれたために、神経が必要以上に研ぎ澄まされ、それがゆえに消耗してしまったのかもしれない。

まさしく命を削って、聴く側に喜びを与えてくれた、と言っていい人たち。

栄光を勝ち取り、人々に喜びや勇気を与え、ひとつの時代を築いた芸術家は、その役目を終えたら、人生の舞台から去るのが宿命と言ったら、亡くなった方を冒涜することになるだろうか。

しかし、その残した軌跡のあまりの見事さは、時代が移っても決して色褪せることはない。


ただ、ホイットニー・ヒューストンさんは、私の印象では、爆発的に売れた時期があって代表作と言えるものもあったが、傑作と呼べる作品のない歌手だったと思う。

その点では、マライア・キャリーに似ている。

それほど良質の作品を出していないのに、効果的なプロデュースが、その時代に見事にはまって「売れてしまった歌手」。


そして、マライア・キャリーは、まだこれから傑作を世に送り出すチャンスが残されているが、ホイットニーさんには、もう永遠にそのチャンスは巡ってこない。


それは、とても残酷で、とても残念なことだ。



男前モッチー

2012-02-25 13:44:26 | オヤジの日記
ここで何度か書いているが、感情過多のバラード歌いが好きではない。

たとえば、MISIAのように歌手としての才能をすべて備えている人が、ここぞというときに魂を込めて声を張り上げるのは、説得力があるからいい。

しかし、ただ声量があるだけの歌手が、おのれの声量を誇示したいがために、やたらと声を張り上げる歌唱には、疑問を持つ。

「魂を込めて歌う」ことと、「ただ声を張り上げる」ことは、まったく違う。
声を張り上げて歌っている人は気持ちがいいかもしれないが、少なくとも私には、音魂がまったく伝わってこない。

だから、バラードの押し売りは、好まない。


ただ、Every Little Thingの持田香織さんの歌うバラードは、好きだ。

彼女の歌うバラードは、決して感情過多にはならない。

平坦な導入部から始まって、盛り上がるサビの部分でも、必要以上に力を入れることなく、重要な歌詞を噛み締めるように歌い上げる。
そのテクニックは、際立っていると思う。

それは、きっと持田さんの声の性質と彼女の性格が、そうさせるのではないかと私は勝手に思っている。

物事に必要以上にこだわる人ではないのだろう、と私は持田さんの性格を想像している。

きっと、男前の性格なのではないか、と。

そうでなければ、あそこまでサラッと恋愛をテーマにした曲は歌えないのではないだろうか。

恋愛ソングを思い入れたっぷりに歌われるのが好き、という人は女性に多いようだ。

バラードの性質として、その方が感情移入しやすいというのはわかるが、私はその方式が歌手のテクニックとしては、あまりにも安易なのではないかと思う男である。

悲しい歌を激情に任せるままに歌うのは、表現方法としては、稚拙である。
泣かんばかりの表情で声を振り絞って歌うのは、一種のごまかしと言っていい。

プロである以上、その種の安易な手段を使わずに、歌詞の世界を表現すべきだと思う。

そういった意味で、持田ネエさんの表現手法は大変優れている、と私は思っているのだ。

伝えるべき情景を最小限の感情表現で伝えるというのは、実はかなり高度なテクニックと言っていいのではないだろうか。


近年、声帯を痛めたせいか、高音が出づらくなった持田ネエさんだが、優秀なボイストレーナーに出会えば、また美声を取り戻すこともできるのではないか、と私は楽観的である。


そして、これからもずっと男前の歌声を聴かせてもらいたい、と思っている。


カエラMAGIC

2012-02-21 13:14:18 | オヤジの日記
元気で明るい声。
ただ歌うだけで、人間が本来持っているポジティブな部分を浮き立たせてくれるような声。

それが、木村カエラの最大の魅力だ。

ただ、木村カエラが歌う歌詞の内容に関しては、よくわからない。
女性目線の歌詞が多いこともあるし、「応援ソング」的な意味合いが強いように感じるので、その部分は私が最も苦手とするものだからだ。

たとえば、ZARDは好きだが、「負けないで」は、あまり共感できない。
ドリカムは好きだが「何度でも」を繰り返されると、「なんだかなぁ~」と思う。
長渕剛の「乾杯」などを結婚式やカラオケで歌っているのを聴くと、歌っている相手を蹴飛ばしたくなる。

岡本真夜の「TOMORROW」も避けて通ってきた。
かなり古いが、岡村孝子の「夢をあきらめないで」を聴くと耳を塞ぎたくなる。
大事マンナントカの「それが大事」や槇原敬之の「どんなときも」なども苦手だ。

だから、応援歌的な意味合いの歌を歌うことが多い木村カエラも、歌詞には共感できない部分が多い。


だが、木村カエラのアーティストとしての立ち位置を、私はとても好ましく思っている。


何といっても、声がいい。
よく通るクッキリとした輪郭の声。
デビュー当時から変わらない一貫した音楽へのアプローチ。

そして、一点の曇りもない「木村カエラ」という個性。

この「一点の曇りもない」というのが、木村カエラの音楽を明確に表現した言葉でないかと思う。


どんなときでも、「木村カエラ」は「木村カエラ」。


その存在の鮮明さは、どんな楽曲を歌っても、まったく変わらない。

木村カエラの音楽が、ジャンルとしての「木村カエラ」であると、私が強く印象づけられたのは、「おどるポンポコリン」を聴いたときだ。

あれほどヒットして、BBクイーンの印象が焼き付けられた音楽なのに、木村カエラが歌うと、完全に「木村カエラの歌」になっていたのである。

どんな歌でも自分のものにしてしまう木村カエラの際立った個性は、貴重である。

結婚してもお母さんになっても、木村カエラは、「木村カエラ」という個性を発散し続けている。


そのことだけで、私は木村カエラをリスペクトしてしまうのだ。



はっぴーえんど

2012-02-15 06:05:20 | オヤジの日記
知り合いに、日独混血の48歳の男がいる。

彼は、YMOとPerfumeの音楽を車の中でよく流している。

しかし、だからと言ってテクノサウンドが特別好きというわけでもないという。
普段家で聴いたり、iPodで聴いたりする音楽は、EnigmaやDeep Forestなどのヒーリング系の音楽だと言っている。

YMOやPerfumeの音楽は、絶えず目の前の景色が変わる車の中で聴くときにこそ、その音楽的価値があるというのである。

両方とも真面目に聴いたことがない私には、あまりピンとこない主張だが、好みは人それぞれなので、それを否定するつもりはない。

ただYMOの音楽に関しては、音が薄っぺらいな、と昔から思っていた。

その薄っぺらい音は、意図的に作ったものなのか、結果的にそうなってしまったのか、私としては、いつも判断しかねる部分だ。

テクノというのが、人工音だから、厚みを表現しにくいものである、という考え方もできる。
しかし、上記のEnigumaなどは、電子音やサンプリングを多用しても、厚みのあるサウンドを作っているし、日本での電子音楽の草分け的存在の冨田勲氏の音楽にも、重厚なものは感じられる。

ということは、YMOの薄さは、ポップなイメージを出すために意図的に作られたものかもしれない、とも想像できる。

ただ、それが意図的なものであれ、そうでないとしても、私には上質の音楽とは思えなかった。

だから、YMOは避けて通ってきた。

そして、そのはるか昔に、YMOのメンバーである細野晴臣氏が所属していた伝説のロックバンド「はっぴーえんど」の音楽も避けて通ってきた私だった。

しかし、先日、この日独ハーフの友人の家で、はっぴーえんどのCDを見つけた私は、避けて通ってきたアルバムを初めて聴くことになった。

そのアルバムは、その名も「はっぴーえんど」。

伝説的バンドのデビュー・アルバムである。

そのCDに手を伸ばして、すぐに聴いてみた。

どこがロックなのだろうか、というくらいスッキリしたサウンドが30数分間続いて、あっという間に最終曲まで聴き終えた。
私には、歌詞もメロディもフォーク(古い?)の延長としか思えないのだが、全体的なバランスを考えると、若干ロックの要素がかっているかもしれないなとも思った。

全11曲の中では、冒頭の「春よ来い」が秀逸である。

ロックは感じないにしても、音楽としてのバランスがいいし、流れるようなメロディが耳に心地よいのだ。
「松本隆・作詞/大滝詠一作曲」の楽曲は、どれもが安定感があって、メロディメーカーとしての大きな素質を伺うことができる。
この穏やかなメロディラインは、時を経ても違和感なく聴くことができた。

しかし、細野晴臣氏の作品になると、途端にクォリティが落ちる。
メロディに、活き活きとしたものが感じられなくなるのだ。

これは、かなり大きな差だと感じた。

つまり、バランスが悪くなる。

細野氏が、YMOの中で、どのような位置を占め、日本の音楽シーンの中で、どのような位置を占めているのかは判断しづらいが、少なくとも作曲家としての役割は、あまり大きくないのではないかと、楽曲を聴いて思った。

はっぴーえんどのデビューアルバムは、日本のポップスの歴史の中では、エポック・メーキングなものだとは思うが、私がこれを傑作だと言い切れないのは、楽曲のクォリティのバラツキが目立つからである。


ただアルバム一枚だけで判断するのは乱暴なので、今度は、評判のいい「風街ろまん」も聴いてみようかと思う。


色々と辛口の意見を書いたが、はっぴーえんどが、2枚目を聴いてみたくなるアーティストであることは、間違いがない。


ティーケーとケーポップ

2012-02-09 13:07:12 | オヤジの日記
日本人のコンポザーで、セールス的に一番成功したのは、小室哲哉氏ではないか。

一時代を築いた人、と言っていいと思う。

小室氏といえば、TMNetwork、TRF、Globe、華原朋美、鈴木亜美など、数多くのヒット曲を世に送り出したことは、私も知っている。

しかし、ほとんど聴いたことがない。
ワンコーラスくらいは聴いたことがあるかもしれないが、集中して聴いたことはない。

ただ、小室氏のことは尊敬している。

スーパーモンキーズの頃から注目していた安室奈美恵をメジャーな歌手にしてくれたのが、小室氏である。
その一点だけでも、私には大きな功績に思える。

ただ安室奈美恵が歌う楽曲に関しては、あまり肯定的な評価はしない。
ほとんどの曲が画一的なリズムとメロディで構成されているから、血が通った感じがしないのだ。

その血が通っていない感じが、小室氏の個性だと言われたら何も言えないが、その曲作りは私好みのものではなかった、ということだけははっきり言える。

きっとGlobeや華原朋美の音楽も血が通っていないと感じたから、ワンコーラス以上を聴く気がしなかったのだと思う。

あれほどのヒット曲を連続して世に送り出したのだから、小室氏には時代を読む才能とキャッチーなメロディを作る才能が人並み外れてあったのだと思う。

一時期は、天下をとった人。

ただ安室奈美恵が、小室氏の元を離れてから、彼女の才能が一回り以上大きく花開いたことを思うと、彼はヒットメーカーではあるが、歌手を育てることには不向きだったのではないか、とも思える。

ただ楽曲を提供してセールスを重ねる人、と表現したら。それは極端過ぎるだろうか。


血が通っていない音楽、というと、私は昨今流行りのK-POPを思い浮かべる。

K-POPの半数以上は、誰が歌っても変わらない、というものが多いと私は感じている。

ビーストの曲は、シャイニーが歌ってもいいし、ツーピーエムが歌っても同じではないのか。

カラの曲は、同じ振付で、ティアラが歌ってもいいし、シスターが歌っても問題はないように思える。


同じ言葉、同じようなメロディを繰り返す。
そして、バラードではときに囁くように声を抑え、サビになると一様に音を伸ばし、時に声を張り上げる。

極めて画一的な音作り。

そこには、歌手の個性はなく、ただ誰が歌っても変わらないメロディとリズムだけがある。


もし小室氏がK-POPの歌手たちに曲を提供したら、彼らは無個性の個性を発揮して、さらに無機質な音楽世界を作り上げることだろう。

私はそれを聴きたいとは思わないが、この組み合わせは、絶対に「鉄板」だと断言できる。