どうでもいいことだが、気がつけば、28年間ケーキなどの甘いものを食っていなかった。
甘いものを欲しない体に、いつの間にかなっていた。
28年前、最初の子どもが生まれたとき、当時住んでいた横浜日吉本町のご近所の知り合いに報告にいった。
昨日、男の子が生まれました。
「Mさん、嬉しそうだね。とっさのことで今は何もあげるものがないけど、これ食べなよ」
ミスタードーナツのナントカ言うドーナッツをくれた。
おれ、甘いものはダメなんですよ、と断るほど私は人格ができてはいない。同時に出されたインスタントコーヒーを飲みながら、ドーナツを食った。
その味は、今でも鮮明に覚えていた。フニャフニャして甘くて真ん中に穴が開いていた。真ん中に穴が開いていたから、きっとゼロキロカロリーに違いない。
それ以来、甘いものは食っていない。
ただ、甘いものが異常に好きな男を私は知っていた。
私の息子だ。
朝メシを食ったあとでも、彼はケーキが食えるのだ。晩メシを食ったあとでもケーキが食える。日曜日などは、ケーキのホールを買ってきて、オヤツに一人でかぶりつくのが最高の幸せだと彼は言う。
ちょっと何言ってるかわからない。
息子は優しい。穏やかだ。嘘をつかないし、人の悪口は絶対に言わない。信じられないくらいの人格者だ。
だが、彼の親父はダメだ。ダメダメ親父だ。
このダメ親父は、息子が21歳になるまで、彼が発達障害だということに気づかなかった。
ときどきトンチンカンなことを言ったが、それは彼の個性だと思っていた。
俺なんか、毎日トンチンカンなこと言ってるし。
ある日、ダメ親父は息子の通う大学のゼミの先生から召喚を受けた。
なんで、ゼミの先生がダメ親父を呼ぶのだ? まさか説教?
行ったら、説教に近いことを言われた。
「あなたの息子さんは、私の息子と言動や態度が似てるんですよね」
41歳から46歳に見える大学教授は、神経質そうに髪を右手でいじりながら、身を乗り出して言った。
「僕の息子は発達障害なんです」
はったつしょーがい?
ダメ親父は、そのときまで、発達障害という言葉を知らなかった。
教授は、紙を取り出して、自閉スペクトラムやADHDやらナンヤラを図に書いて丸で囲んだ。
そして、得意げに言ったのだ。
「この丸の中に入る人が発達障害です」
「マッちゃんは、うちの子どもと違って笑顔が多いですが、その他は同じように見えます。一度診断を受けた方がいいと思います」
それって、日本語で「余計なお世話」って言うんじゃないですかね。
ダメ親父は気乗りしない態度で、あー、そうですかぁ。よくわかりませんけど、と首を傾げた。
「いや、息子さんのことですよ、もっと真剣になってください!」
怒られました。
ご親切な忠告を首を傾げながら聞いて、ダメ親父は大学をあとにした。
ダメ親父には、とてもよくできた娘がいた。当時、高校1年生だった。
彼女は福祉に興味を持って、真剣に勉強していた。
ダメ親父は、娘に聞いた。
はったつしょーがいって知ってる?
「知ってるぞい。最近は、大人になってから、それが発覚する例も多いらしいぞ。おまえも、そうなんじゃないか」
バ、バレていたのか。でも、そもそも発達障害って何?
娘は、まるで大学教授のように紙に図を書いて説明してくれた。
大変、わかりやすかった。合点がいった。
娘の方が説明がうまいじゃないか。
そのあと、息子を中野のメンタルクリニックに連れて行った。4回、面談やらテストを受けた。
5回目。47歳から51歳に見える医師に結果を聞かされた。
「難しかったです。ボーダーラインです。経験の浅い医師なら正常だと言うかもしれません。ですが、おたくのお子さんは、一定のことにこだわりが強いです。そして、何回かに1回、こちらの意図とズレた答えを返します。知能はいたって普通ですが、僕は発達障害の診断を下しました。これから社会に出るに当たって、障害者ということを意識して、障害者手帳を得て障害者枠で就職した方が息子さんにメリットがあると考えたからです」
頭の中、真っ白。
そのとき、すでに髪の毛は真っ白だったが、まさか頭の中まで真っ白になるとは思わなかった。
息子の手前、ダメ親父は平静を装ったが、心の中はトイレでボロ泣きしたい気分だった。
なんてダメな親父なんだ。人に指摘されて初めて気づくなんて。家族の健康には絶えず気を使っていたのに、こんな大事なことに気づかなかったなんて。
だが、ダメ親父と違って、息子は強かった。
「俺は構わないよ。障害者でもいいよ。障害者でも社会の役にたつよね。俺は、パパとママを安心させたかったけど・・・・・ごめん、本当にごめん」
息子に、頭を下げられた。
謝らなければいけないのは、俺の方なのに。
そのあと、幸いにも息子はお菓子メーカーの研究所に就職することができた。
もう6年が経つ。
1年に1回。息子の上司に挨拶に伺う。
上司が言う。
「真面目で穏やかで優しくて、みんなマッちゃんのことが好きですよ。そして、彼の抜群の記憶力にみんな頼りきっています。彼のいない現場は考えられません。ご心配なさらないでください」
お世辞で言われていることはわかっていても、毎回ダメ親父は涙を流す。
余談だが、息子の記憶力はすさまじい。息子は、名探偵コナンが大好きだ。単行本は、1巻からすべて揃えていた。たとえば、テレビのアニメでコナンを放映していたとすると、その話は第何巻の第何話かを即座に言い当てることができた。
世界史の年表も完璧に頭に入っていた。小さなことで言えば、米国大統領のニクソン氏がいつ就任し、いつ辞任したかも言い当てることができるのだ。すごくないですか。
親バカですか?
毎年、12月の誕生日には、バースデーケーキを2つ用意した。
そのケーキを息子はいつも一人で平らげるのである。
その幸せそうな笑顔を見るのが、ダメ親父の最高の喜びだ。
そして、ダメ親父は、いま君に言うぞ。
生まれてきてくれて ありがとう。
君は、私の誇りだ。