リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

宴会のコンダクター

2016-10-30 08:25:00 | オヤジの日記
2か月に1度、同業者と飲み会を開く。

場所は吉祥寺だ。
しかし、私以外の同業者は、埼玉在住である。

同業者は、私を除いて基本的に5人。
たまに、ゲストが来ることがあるが、ベースになるのは5人だ。

最長老のオオサワさん。
最長老とは言っても、私はオオサワさんの年を知らない。
65以上だと思うが、私には人の年を聞く趣味がないので、詳しい年齢は知らない。

あとは、カマタさん、モチダさん、人類史上最も馬に激似の「お馬さん」、そして一番若いのが30代後半のニシダ君だ。

6人のうち、専門学校出身が4人。
デザインを専攻したのは、最長老のオオサワさんだけ。
写真学校を出たのが、お馬さんとモチダさん。
映像学校を出たのが、カマタさんだ。

ニシダ君と私が大学を出ていた。
ニシダ君は、理工学部。
ただ、数学科の出身のせいかわからないが、コンピュータの操作はできるが、機械の調子が悪くなると、いつもパニックになる。
そのたびに、私にSOSのメールが来る。

私は、法学部出身。
おそらく、デザインから一番遠い分野だと思う。
だから、デザイン能力は、他の方と比べてかなり劣る。

ただ、機械のことは誰にも増して詳しい。
デザイナーとしては、褒められたことではないが。


馴染みの居酒屋で飲んでいると、最長老のオオサワさんが、「Mさんは、社交的ですよね」とおっしゃった。

偏屈な性格のこの俺が、社交的?
ご冗談を。

「みんなの話をよく聞くじゃないですか。聞き上手な人は、社交的だと思いますよ」

それは、大きな勘違いですね。


私は、酒が強い方だ。
他の人の3倍以上の酒を飲んだとしても、酔わない。

私は大量の酒を飲むが、実は、酔っぱらいが嫌いである。

私には大きなトラウマがあった。

大学の飲み会では、私は酔いつぶれたやつを介抱するのが役目だった。
酔いつぶれたら、水を大量に飲ませ、熱いコーヒーを買って飲ませるのが基本。
最終電車に乗せたり、タクシーに乗せたり、あるいは、駅までの帰りに吐くやつがいたら、それを処理したりもした。

心の中では、あれっぽっちの酒で酔いつぶれるなんて、安い体だな、と思ったりしたが、見捨てることはなかった。

大学4年、最後のクラスの飲み会。
15人のうち、危なそうなやつを2人、私は介抱した。

あとは、目や歩き方、喋り方の様子で、安全に帰れるだろう、と判断した。
2人を最終電車に間に合うように、ホームまで連れて行って見送った。

大学は、渋谷にあった。
そして、私の家は渋谷から東横線で2つめの中目黒だった。

電車がなくなっても歩いて帰れる距離だから、終電時間が過ぎても困ることはない。
毎回歩いて帰った。

次の日。
飲み会に参加したクラスメイトが死んだことを知らされた。

彼は、最終電車を逃したため、自宅のある田園調布まで歩いて帰ろうとしたらしいのだ。
当時の東横線は、今のように高架を走っておらず、地面の上を走っていた。
途中で、歩き疲れて眠気に負けた彼は、線路に寝てしまったらしい。
そして、朝一番の電車に轢かれて死んだ。

それを聞いた私は、なぜ彼のことを大丈夫だと判断したのだ、と激しく自分を責めた。
そのとき大丈夫に見えても、あとから効いてくるのが酒だ。
その読みが、甘かった。

ご両親に何度も頭を下げた。
しかし、頭を下げたからといって、生き返るわけではない。

お父さんから、「いまは息子の笑顔しか思い浮かばないんです」と言われた。
消えてなくなりたいと思った。

その悔しさは、酒を飲むたびに、いまでも脳細胞の表面に浮き上がってきて、私をやりきれなくさせる。

だから、私は飲み会では、最大限の注意を払うことにしていた。
参加者の様子をうかがうためには、話を聞くのが一番効果的だ。

そして、どの程度飲んだのかも絶えず監視していた。
言葉がもつれたり、論理的でなくなったときは、酔っているということだ。
すぐ水を飲ませる。
お節介で野暮なやつだと思われても私は構わない。

たとえば、世の中には、こういうバカがたくさんいる。
人に酒を無理やり飲ませようとするバカだ。
人にしつこく酒をすすめるやつがいたとき、私は相手が年上であっても胸ぐらや首根っこを掴んでやめさせた。

そういうときの私は、相当怖い顔をしているらしく、場が凍りついて、まわりをしらけさせるのだが、私は嫌われてもいいと思ってやっていた。
喧嘩になってもいいと思った。

死なれるよりは、ずっといい。


そういう理由で、私は、酔っぱらいが嫌いだ。
そして、同じ過ちを繰り返すのは、もっと耐えられない。


大学陸上部からの付き合いの友人たちは、そんな私を「宴会のコンダクター」と呼んでいた。


彼らに、「マツがいると、安心して飲めるよ」と言われたとき、私はとても幸せな気分になる。



あれ? の毎日

2016-10-23 08:28:00 | オヤジの日記
早いもので、ヨメさんと結婚してから、30年以上が経つ。

私とヨメの根底に流れるテーマは、ヨメが私を信用していないところだろうか。

先日、ヨメから電話があった。
「自転車がパンクしたの」
「三鷹駅から1キロくらいのところなんだけど、近くに自転車屋さんあるか調べて」

ヨメから位置を聞いて、検索してみたら、三鷹駅の近くに自転車さんがあるということがわかった。
ヨメがいるところから1キロ以内のところだ。
だから、それをヨメに伝えた。

それに対して、ヨメは信じられないことを言ったのだ。
「ああ、私もさっき調べたけど、吉祥寺駅よりのところに自転車屋さんがあるの。ここから1キロくらいだから、そっちに行く」

あれ?
じゃあ、何で俺に聞いたの?


これは、20年以上前からのことだが、ヨメが私の話を聞かなくなったという楽しいテーマもある。

私が話しだすと、「ああ、床が汚れてるぅ!」とか「大変、天井にシミがある!」「やあだあ! 靴下に穴があいているじゃない! 履き替えないと」「あっ、エノキが歯にはさまっている。ツマヨウジー!」などと言って、私が話しはじめてから5秒以内に、私の話の腰を折るようになった。

それ以来、私は重要事項でさえ、ヨメに話すことを諦めた。


ただ、ヨメは、自分の話だけは、長く語るのである。
先日も、私が仕事部屋で仕事をしていたときのことだ。

私は仕事部屋では、いつも音楽DVDを流すことにしていた。
ハードオフで買ったジャンク品の16インチ液晶テレビに、ジャンク品のDVDプレーヤーを繋げて、音楽DVDを流しながら仕事をするのだ。

仕事中は映像を見ていないが、音楽だけ聞いていても仕事ははかどる(気がする)。
ディスクを変えるのが面倒なので、毎回リピートだ。

その日は、木村カエラさんのライブDVDだった。
聞きながら仕事をし、疲れたら脱力しながら、ライブ映像を見るのが習慣だ。

そのとき、ヨメが仕事部屋に入ってきた。
そして、週に4回午前中だけ働いている花屋での出来事を話しはじめたのだ。

ヨメは、話し始めると全部話さないと気が済まないタチだ。
これは、私がミステリーを読んでいても、テレビで映画を見ていても、まったくお構いなく繰り広げられる現象だ。
私が何をしていても、出来事のすべてを話さないと終わらない。

この日も起承転結のない話を延々と30分話し続けた。
そして、話し終わったあと、こう言い捨てるのもいつものことだ。

「ねえ、仕事しないの? ヒマなの?
ちゃんと働こうよ」

あれ?


さらに、今年の7月だったと思うが、借金取りが来た。

16年前に、ヨメが契約した息子の学力アップのための教材キットの契約書を携えて、クソ暑いのに、ダブルのスーツ、オールバックでキメた借金取りさんだった。

息子は、社会科はずば抜けて成績が良かったが、それ以外は普通だった。
私は、それで充分だと思っていた。

息子は、真面目だ。
そして、人に優しい。

それは、大人になってから大きな武器になると私は思っていたから、そのままでいいと思った。
しかし、ヨメの考えは違った。

「男は、高学歴が武器よ」

ということで、手数料込みで総額百万円近い教材を購入し、36回の割賦契約をしてしまったのである。
もちろん、私に相談なく。
(その教材キットの効果は、ほとんどなかった)

しかし、その会社が36回を支払う前に倒産してしまった結果、3回分だけ支払いが残った。
その債権が、いまゾンビのように蘇ったのだ。

払ってください、とオールバックの男が言ったが、私は「裁判所でお会いしましょう」と突っぱねた。

だが、その会話を聞いていたヨメは、男が帰ったあとで、「裁判はイヤ!」と駄々をこねた。
「裁判はイヤ、絶対にイヤ!」とリピートした。

でもね、法人の場合は、5年間債権を主張しないと時効が成立するんだよ。
俺はフリーランスだから、他からの請求書はすべてファイルして保存してある。
こいつらの請求書を俺は見たことがない。
だから、これは時効だ。
払う必要はない。

私は、そう主張した。

しかし、ヨメは「見落としたってこともあるでしょ!」と譲らない。
要するに、私の言うことを信じていない。

厄介な話になってきた。
だが、偏屈な性格で友だちの少ない私にも、奇跡的に弁護士の知り合いがいた。

大学の2年後輩の男だった。
その男に、忙しいのに悪いね、と前置きをして電話をした。

いまの出来事を3分以内に簡潔に説明した。
すると、弁護士先生様は、「ああ、それ数打ちゃ当たるの取り立て屋ですよ。取り立てできれば儲けものっていうやつですね。相手するのもバカバカしいから、放っておいてください」と答えた。

そして、「もし、最悪裁判になっても、俺が何とかしますから、ご安心を」と力強いことを言ってくれた。

安心させるために、ヨメにも同じことを説明してもらった。

電話を切ったあとで、ヨメが言った。

「ほうらね。言った通りだったじゃない」
ヨメは、スキップしながら仕事部屋を出ていった。


あれ?
あれ?
あれ?



そんな楽しい思いを重ねながら、日々やせ細っていく自分を、私は愛おしく思っている。



尊敬できる社長さん

2016-10-16 08:20:00 | オヤジの日記
ブログネタが尽きたので、恥も外聞もなく、前回の続きを。

休日の5日目。

前日と同じように、家族の朝メシと息子の弁当を作って、5時前に家を出た。

「隠れ家」という名の倉庫に入って、またすぐに寝た。
起きたのは、10時前だ。
昨日より、さらに体調が回復した気がした。

地面も天井も回っていない。
それは、嬉しいことだった。

冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。
朝メシ代わりに、魚肉ソーセージをかじった。

気分が良くなったので、ギターを手に取った。
ギターは弾けるが、譜面なしで弾けるのは2曲しかない。

エリック・クラプトンの「Tears in heaven」とザ・ビートルズの「Across the universe」だ。

この2曲だけは、人様の前で披露しても恥をかかない自信がある。
(披露したことはないが)

同じ曲を何度も弾いた。
ときに「Tears in heaven」のコード進行で、即興で歌詞を変え、メロディーを変えて歌ったが、お粗末なものにしかならなかった。
才能がないのは知っているので、落ち込みはしない。

ギターと戯れているとき、ドアをドンドンされた。
また娘かと思ったが、まだ昼の12時にもなっていない。
学校が終わるのは、3時過ぎだ。
娘ではないだろう。

そう思っていたら、ドアが開いて、「Mさん、いる?」という声がした。
おそらく、ここの倉庫の主、中古OA販売会社の社長だ。

立ち上がって、出迎えた。

世間話も何もなしに、社長がいきなり「僕に、カップラーメン奢ってくれませんか。チャーシューは持って来たから」と言った。

断る理由がないので、ふたりでカップラーメンを食った。
社長は「激メン・ワンタンメン」、私は「出前一丁」だ。
おかずは、社長持参のチャーシュー。

このチャーシューは、事業に失敗した社長の弟さんが作ったものだ。
弟さんは、その当時、上尾駅近くで、屋台のラーメン屋を転がしていた。

何度か食いに行ったが、スープが脂っこくて、私の好みではなかった。
ただ、チャーシューは絶品だった。

むかし私がそう言ったのを覚えていて、社長が持って来てくれたのかもしれない。

社長は、気配りの人だった。
私が知っている中小企業の社長のほとんどは、クセが強かった。
「私以外私じゃないの」というゲスの極み乙女的な人が多かった。

しかし、この社長は、社員を皆「さん」付けで呼んで、分け隔てのない関係を築いていた。
たとえば、ボーナスなども、なぜ多いのかなぜ少ないのかを個別に説明する誠意を見せた。

そのことが、いい経営者の条件かどうかはわからないが、私はそんな社長を尊敬していた。

その尊敬する社長が、私の目を覗き込むようにして言った。

「Mさん、今日は少しまともだけど、僕が見るMさんは、いつも疲れきった顔をしていますよ。
勝手なことを言わせてもらいますが、怒らないでくださいね。
Mさんは、すべてを一人でやろうとし過ぎているのではないですか。
愚痴とか人に言ったことがありますか? 全部溜め込んでいるんゃないですか。
そこが、心配なんですよね、僕は」

驚いた。
前日、娘に言われたことと同じことを社長に言われたからだ。

立て続けに二人に言われたということは、多くの人が、私のことをそう見ているということだろう。

つまり「無理をしている」と。

「何かたまっていることがあったら、僕に言ってよ。
役には立たないかもしれませんけど、ひとに言うのと言わないのとでは、違いますからね」


そんな社長さんは、先月、動脈瘤破裂で63歳の生涯を閉じた。

葬儀では、多くの社員さんたちが、くずおれるように泣いていた。
もらい泣きした。

それを見て、やはり社員さんに慕われていたのだな、と思った。

そして、社長さんも、ご無理をなさっていたんだな・・・と。


一度だけでもいいから、お互い愚痴を言い合ったらよかったですよね、社長さん。
それが、残念です。


合掌。


隠れ家に隠れる

2016-10-09 08:30:00 | オヤジの日記
ブログネタが尽きたので、安易に前回の続きを。

前回、10年前のことを書いた。
仕事のない日が6日続いて、ヨメの機嫌が悪かったという話だ。

そして、3日目には居たたまれなくなって、プチ家出をした。
そのとき、友人のコピーライターの前で醜態をさらした。

人様に迷惑をかけたのだから、もう迷惑をかけるのはよそう。
普通の人だったら、きっとそう考える。

しかし、甘ちゃんの私は、また人様に甘えてしまったのだ。

その当時の私は、埼玉の中古OA販売会社の社長と懇意にさせていただいていた。
年に2回、その会社ではセールを打つのだが、そのチラシを毎回頼まれていた。

さらに、そればかりではなく、その会社のバーベキューの集いに参加させていただくこともあった。
他にも、動物好きな私のために、上尾のご自宅から、わざわざ私の暮らすさいたま市のメガ団地まで、社長自ら車でハスキー犬を連れて来てくださった。
犬の散歩をさせてくれたのだ。

社長の会社とご自宅は埼玉上尾市。
しかし、会社の倉庫は、都合のいいことに、我が家族が住むメガ団地から1キロ程度のところにあった。

あるとき、倉庫を見学させていただいた。
大きな倉庫ではないが、100平米以上はあったと思う。

そこに、中古のコピー機、業務用ファックス、机、椅子、キャビネット、パソコン、プリンター、モニターなどがギュウギュウに詰まっていた。

そして、倉庫の隅には衝立てで区切られた小さな事務所もあった。
その中に、机と椅子がワンセット。
横長のソファが一つ。
あとは電話付きファックスとエアコンだ。

それを見て、私はヨダレが出た。

なんていい物件なのだろう!

そこで、図々しいことに、私は社長に、おねだりをしたのだ。

もし、この倉庫を使わないときは、私にこの事務所を貸していただけないでしょうか。

無理をお願いするのだから、私は正直に、自分の立場を説明した。
仕事がないとき、家で私が休んでいると、家内の機嫌が悪いということを。

すると、社長はアッサリと合鍵を渡してくれた。
(そのとき、自分が一瞬、社長の愛人になった気がした)

利用するときは、あらかじめ社長にお伺いを立てることを約束した。

今回も前日の夜に、メールでお伺いを立てていた。
「今週は使う予定がないから存分に」というありがたいお返事をいただいた。

仕事のない日の4日目。
前日と同じように、朝4時に起きて、家族の朝メシと息子の弁当を作った。
そして、ヨメが起きる5時前に家を出た。

倉庫までは、自転車で7、8分の距離だ。
私は、ここを「隠れ家」と呼んでいた。

使い初めの頃、HARD OFFでCDラジカセと毛布、ギターと電熱器、ヤカン、鍋を買いそろえ、それらを持ち運んで生活感を出した。
さらに、社長が気を利かせてくれて、ミニ冷蔵庫を設置してくれたものだから、冷蔵庫にはビールが詰まっていた。

そして、カップラーメンと袋ラーメンが、それぞれ10個以上。
それが、私の朝メシ、昼メシだ。

その倉庫は、太陽光が直接入ってくることはなかった。
そんなところも落ち着いた雰囲気で良かった。
少し埃っぽいが、そんなことで文句を言ったら罰が当たる。

隠れ家としては、最高の物件と言っていい。


隠れ家に5時過ぎに着いて、すぐに寝た。
起きたのは11時前。
ビールを飲んで、ラーメンを食い、また寝た。
次に起きたのは、夕方5時過ぎだった。

昨日より体調が良くなった自覚があった。
7割くらいの回復と見ていいだろう。

嬉しくなって、J-WAVEを聞きながら、ノンビリとビールを飲み、魚肉ソーセージをかじった。
そのとき、倉庫のドアがドンドンと叩かれた。

なんじゃ、と思って出てみると、当時小学5年生の娘が立っていた。
「迎えにきたぞい!」

心配すると思ったので、娘にだけは、場所を教えておいたのだ。
そして、7時前には帰るとも伝えておいた。

しかし、娘は直接自転車で迎えに来たのだった。
それは、想定外のできごとだった。

娘は興味津々の様子で倉庫内をまわり歩き、「悪くないな」と頷いた。
ふたりで、魚肉ソーセージをかじった。

娘と一緒に、6時半過ぎに倉庫を出た。
団地と倉庫の途中に、小さな公園があった。
「ちょっと寄ろうぜ」と娘が言うので寄った。

ベンチに並んで座った。
座ってすぐ、娘が言った。
「おまえ、何でも自分ひとりでやるのは間違いだぞ。少しは人に頼れよ。ときどきは泣きごとを言ってもいいんだぞ」

驚いた。
まるで親に言われるようなことを10歳の娘に言われたからだ。

ハハハ、と笑うしかなかった。
しかしな、泣きごとを言うファザーは嫌いだろ?

「毎日だったら嫌だけど、一度だけだったら聞いてやってもいい」

そうか、じゃあ、溜めて溜めて、いつか一気に泣きごとを言おうか。
覚悟はできてるか?

「あたりまえだろ。
オレをなめるなよ!」
(娘は、小学校、中学校、高校のときは、家では自分のことを『オレ』と言っていた。
大学生になってからは『ボク』だ。なぜそう言うのかは聞いていない)

いつか・・・・いつか・・・言ってみるか。

「そんなことをいっても、言わないんだろうな、おまえは。
そんな可愛いやつじゃないものな。
まあ、とにかく、おまえのことはオレが見張っているから、安心しろ」

そして、私の顔を覗き込んで、娘は続けた。
「今日の顔色を見ると、回復度7割だな」


驚いた。
確かに、よく見張っていると思った。

私も自分で7割だと思っていたからだ。


きっと明日は10割に回復だ、と私が言うと、娘が「まだあと二日ある。急ぐなよ」と私の膝を叩いた。


それを聞いて、どっちが大人かわからないな・・・と思った。



幻想でないもの

2016-10-02 08:26:00 | オヤジの日記
私がフリーランスを生業にしているから、かもしれないが、同じ夢を何度も見る。

仕事がまったく入ってこなくなって、蓄えが底をつき、家賃も払えなくなり、家族一同、路頭に迷うという夢だ。

甚だしいときは、二日連続で同じ夢を見るときがある。
全身が、寝汗でビッショリ。
たいへん寝覚めが悪い。

これは、当たり前の推測だが、仕事が入ってこなくなる恐怖心が、こんな夢を見させるのだと思う。


昔、6日間、まったく仕事がなかったことがあった。
手持ちの仕事はすべて終わって、翌週はじめに入ってくる2つのレギュラーの仕事まで、まったくないという状態。

どうせ仕事は入ってくるのだし、休むいい機会だと思って、初日は、図書館で一日調べ物をした。
そして、次の日は、キッチンでノンビリと一週間分の晩メシ朝メシの下ごしらえをしていた。

しかし、「ねえ、仕事しないの」というトゲを含んだ声が聞こえた。

来週の月曜まで、仕事は入ってこないから、今のうちに下ごしらえをね・・・。

すると、「え? 仕事ないの!」「どうすんのよ! どうすんのよ!」と足で床をドンドンされたのだ。

仕事は、必ず来週入ってくる。
しかし、それを言っても無駄だということはわかっていた。

私が独立するとき、強く反対したのがヨメだった。
「できるの?」
「無理だと思うよ」

確かに、独立しても稼ぎは悪いし、生活が不安定だったのは事実だったので、私は反論しなかった。
反論すると自分が惨めになるので、私は随分前から反論することを諦めていた。

安息の地だと思っていた家が、実は「安息の地」ではなかったという現実。
稼ぎの多かった月は当たり前のように受け入れ、稼ぎの少なかった月だけ空気が澱む日々の繰り返し。


3日目。
朝4時に起きて、家族全員の朝メシと息子の弁当を作った。
それから、花屋のパートに出るためにヨメが起きる5時前に、私は家を出た。
埼玉のメガ団地から、自転車に乗って、最寄りの駅に行き5時台の始発に乗った。

そして、当時、神奈川横須賀でコピーライターをしていた友人を朝イチで訪ねたのである。
駅前のカフェで時間をつぶして、9時に電話した。

家出してきた。
だから、事務所で暇をつぶさせろ。

友人は何も聞かずに、事務所に招き入れてくれた。

眠いから寝かせろ。
この無茶な要求にも友人は文句を言わずに、ソファを指さし、横になった私に毛布をかけてくれた。

眠りから覚めたのは、午前11時半を過ぎた頃だった。

目が覚めたとき、友人の奥さんが目の前にいた。
「よく眠っていましたね。
さあ、ピクニックに行きましょうか」

え? ピクニック?

「三笠公園で、昼メシを食おうって話だ」

友人の運転するエスティマに乗って、途中で食い物と飲み物を仕入れ、三笠公園に向かった。

レジャーシートを敷いて、ビールを飲みながら、総菜を食った。
友人は、酒が飲めないので、右の小指を立てて、午後の紅茶を飲んでいた。
友人の奥さんは、酒豪なのでビールだ。

実は、私には貧血と不整脈の持病があった。
不整脈は季節を選ばないが、貧血はなぜか5月、6月に症状が出ることが多かった。

このとき、6月初旬の私は、貧血に悩まされていた。

2杯目の缶ビールを飲んだら、地球が回った。

「どうしました!」

友人の奥さんは、元ナースだった。
冷静に脈を測り、目ん玉と下まぶたを覗き込まれた。

「典型的な貧血ですね」

服のボタンを緩められ、ジーパンのベルトを外された。
足の下にバッグを差し込まれ、足の位置を高くされた。
そのまま、30分放置された。

「一過性ですから、大事には至らないでしょう」
とても安心感のある声と顔で、覗き込まれた。

その顔を見て、荒んだ心の揺らぎが収まった。

友人がエスティマまで担いで運んでくれた。
「埼玉まで送る」

携帯を確認すると、娘から沢山のメールが来ていた。
何も言わずに家を出た私を心配するメールだった。

娘のメールには、いつもすぐに返事を返していたが、このときは返事を返さなかった。
どう説明したらいいか、わからなかったからだ。

横須賀から埼玉のメガ団地まで、私は眠っていた。
目を閉じてすぐ、深い眠りに入ったのだった。

着いたのは午後7時前だった。

友人と奥さんに礼を言った。

「こんな状態で家出なんて、自殺行為だな」と友人に笑われた。
そして、「オレは来週半ばまで、仕事がほとんどないから、体が良くなったら、また遊びに来てもいいぞ。車で埼玉まで迎えに行ってやってもいい」と言われた。

そのあと、奥さんから「市販の鉄剤です。毎日飲んでください」と袋を渡された。
私が寝ている間に、どこかの薬局で買ったものだろう。

ありがとう。
迷惑をかけたな。
悪かった。

深くお辞儀をしている間に、エスティマはいなくなった。

娘に、メールを返した。

いま、郵便局前にいる。
これから帰る。

「腹が減った。
早く晩ご飯を作れ」

団地の号棟の階段まで歩いていった。
一階の階段に、娘が座って待っていた。

迎えにきたのか、と聞いたら、「郵便物を確認に下りてきただけだよ」と娘は言った。

このとき、娘は小学校5年生。

自分の家こそが「安息の地」と思っていたのが、実は幻想だということがわかった日に、階段で娘の笑顔を見た。

あとで、ご近所の人に聞いたら、娘は午後5時前頃から階段に座って、私の帰りを待っていたらしい。

娘が3歳の頃、私が仕事から帰ると、足音を聞き分けて、玄関で私を待っていた。
私の顔を見ると、玄関でピョンピョンとはねて、「お帰り-!」と歓びを表現した娘。
授業参観に行くと、私の顔を認めてから、元気よく先生の質問に答えた小学2年の娘。
一緒に買い物に行ったとき、掴んだ私の手を絶対に離さなかった小学4年の娘。
「早くお風呂に入ろうよ」と私の手を引いた小学6年の娘。

どんな小さなことでも、幼稚園や小学校、中学校、高校、大学で起きたことを報告してくれる娘。


安息の地は「幻想」だったが、娘の存在だけは幻想ではない。



その幻想でないものだけを生き甲斐に、それからの私は生きている。