2か月に1度、同業者と飲み会を開く。
場所は吉祥寺だ。
しかし、私以外の同業者は、埼玉在住である。
同業者は、私を除いて基本的に5人。
たまに、ゲストが来ることがあるが、ベースになるのは5人だ。
最長老のオオサワさん。
最長老とは言っても、私はオオサワさんの年を知らない。
65以上だと思うが、私には人の年を聞く趣味がないので、詳しい年齢は知らない。
あとは、カマタさん、モチダさん、人類史上最も馬に激似の「お馬さん」、そして一番若いのが30代後半のニシダ君だ。
6人のうち、専門学校出身が4人。
デザインを専攻したのは、最長老のオオサワさんだけ。
写真学校を出たのが、お馬さんとモチダさん。
映像学校を出たのが、カマタさんだ。
ニシダ君と私が大学を出ていた。
ニシダ君は、理工学部。
ただ、数学科の出身のせいかわからないが、コンピュータの操作はできるが、機械の調子が悪くなると、いつもパニックになる。
そのたびに、私にSOSのメールが来る。
私は、法学部出身。
おそらく、デザインから一番遠い分野だと思う。
だから、デザイン能力は、他の方と比べてかなり劣る。
ただ、機械のことは誰にも増して詳しい。
デザイナーとしては、褒められたことではないが。
馴染みの居酒屋で飲んでいると、最長老のオオサワさんが、「Mさんは、社交的ですよね」とおっしゃった。
偏屈な性格のこの俺が、社交的?
ご冗談を。
「みんなの話をよく聞くじゃないですか。聞き上手な人は、社交的だと思いますよ」
それは、大きな勘違いですね。
私は、酒が強い方だ。
他の人の3倍以上の酒を飲んだとしても、酔わない。
私は大量の酒を飲むが、実は、酔っぱらいが嫌いである。
私には大きなトラウマがあった。
大学の飲み会では、私は酔いつぶれたやつを介抱するのが役目だった。
酔いつぶれたら、水を大量に飲ませ、熱いコーヒーを買って飲ませるのが基本。
最終電車に乗せたり、タクシーに乗せたり、あるいは、駅までの帰りに吐くやつがいたら、それを処理したりもした。
心の中では、あれっぽっちの酒で酔いつぶれるなんて、安い体だな、と思ったりしたが、見捨てることはなかった。
大学4年、最後のクラスの飲み会。
15人のうち、危なそうなやつを2人、私は介抱した。
あとは、目や歩き方、喋り方の様子で、安全に帰れるだろう、と判断した。
2人を最終電車に間に合うように、ホームまで連れて行って見送った。
大学は、渋谷にあった。
そして、私の家は渋谷から東横線で2つめの中目黒だった。
電車がなくなっても歩いて帰れる距離だから、終電時間が過ぎても困ることはない。
毎回歩いて帰った。
次の日。
飲み会に参加したクラスメイトが死んだことを知らされた。
彼は、最終電車を逃したため、自宅のある田園調布まで歩いて帰ろうとしたらしいのだ。
当時の東横線は、今のように高架を走っておらず、地面の上を走っていた。
途中で、歩き疲れて眠気に負けた彼は、線路に寝てしまったらしい。
そして、朝一番の電車に轢かれて死んだ。
それを聞いた私は、なぜ彼のことを大丈夫だと判断したのだ、と激しく自分を責めた。
そのとき大丈夫に見えても、あとから効いてくるのが酒だ。
その読みが、甘かった。
ご両親に何度も頭を下げた。
しかし、頭を下げたからといって、生き返るわけではない。
お父さんから、「いまは息子の笑顔しか思い浮かばないんです」と言われた。
消えてなくなりたいと思った。
その悔しさは、酒を飲むたびに、いまでも脳細胞の表面に浮き上がってきて、私をやりきれなくさせる。
だから、私は飲み会では、最大限の注意を払うことにしていた。
参加者の様子をうかがうためには、話を聞くのが一番効果的だ。
そして、どの程度飲んだのかも絶えず監視していた。
言葉がもつれたり、論理的でなくなったときは、酔っているということだ。
すぐ水を飲ませる。
お節介で野暮なやつだと思われても私は構わない。
たとえば、世の中には、こういうバカがたくさんいる。
人に酒を無理やり飲ませようとするバカだ。
人にしつこく酒をすすめるやつがいたとき、私は相手が年上であっても胸ぐらや首根っこを掴んでやめさせた。
そういうときの私は、相当怖い顔をしているらしく、場が凍りついて、まわりをしらけさせるのだが、私は嫌われてもいいと思ってやっていた。
喧嘩になってもいいと思った。
死なれるよりは、ずっといい。
そういう理由で、私は、酔っぱらいが嫌いだ。
そして、同じ過ちを繰り返すのは、もっと耐えられない。
大学陸上部からの付き合いの友人たちは、そんな私を「宴会のコンダクター」と呼んでいた。
彼らに、「マツがいると、安心して飲めるよ」と言われたとき、私はとても幸せな気分になる。
場所は吉祥寺だ。
しかし、私以外の同業者は、埼玉在住である。
同業者は、私を除いて基本的に5人。
たまに、ゲストが来ることがあるが、ベースになるのは5人だ。
最長老のオオサワさん。
最長老とは言っても、私はオオサワさんの年を知らない。
65以上だと思うが、私には人の年を聞く趣味がないので、詳しい年齢は知らない。
あとは、カマタさん、モチダさん、人類史上最も馬に激似の「お馬さん」、そして一番若いのが30代後半のニシダ君だ。
6人のうち、専門学校出身が4人。
デザインを専攻したのは、最長老のオオサワさんだけ。
写真学校を出たのが、お馬さんとモチダさん。
映像学校を出たのが、カマタさんだ。
ニシダ君と私が大学を出ていた。
ニシダ君は、理工学部。
ただ、数学科の出身のせいかわからないが、コンピュータの操作はできるが、機械の調子が悪くなると、いつもパニックになる。
そのたびに、私にSOSのメールが来る。
私は、法学部出身。
おそらく、デザインから一番遠い分野だと思う。
だから、デザイン能力は、他の方と比べてかなり劣る。
ただ、機械のことは誰にも増して詳しい。
デザイナーとしては、褒められたことではないが。
馴染みの居酒屋で飲んでいると、最長老のオオサワさんが、「Mさんは、社交的ですよね」とおっしゃった。
偏屈な性格のこの俺が、社交的?
ご冗談を。
「みんなの話をよく聞くじゃないですか。聞き上手な人は、社交的だと思いますよ」
それは、大きな勘違いですね。
私は、酒が強い方だ。
他の人の3倍以上の酒を飲んだとしても、酔わない。
私は大量の酒を飲むが、実は、酔っぱらいが嫌いである。
私には大きなトラウマがあった。
大学の飲み会では、私は酔いつぶれたやつを介抱するのが役目だった。
酔いつぶれたら、水を大量に飲ませ、熱いコーヒーを買って飲ませるのが基本。
最終電車に乗せたり、タクシーに乗せたり、あるいは、駅までの帰りに吐くやつがいたら、それを処理したりもした。
心の中では、あれっぽっちの酒で酔いつぶれるなんて、安い体だな、と思ったりしたが、見捨てることはなかった。
大学4年、最後のクラスの飲み会。
15人のうち、危なそうなやつを2人、私は介抱した。
あとは、目や歩き方、喋り方の様子で、安全に帰れるだろう、と判断した。
2人を最終電車に間に合うように、ホームまで連れて行って見送った。
大学は、渋谷にあった。
そして、私の家は渋谷から東横線で2つめの中目黒だった。
電車がなくなっても歩いて帰れる距離だから、終電時間が過ぎても困ることはない。
毎回歩いて帰った。
次の日。
飲み会に参加したクラスメイトが死んだことを知らされた。
彼は、最終電車を逃したため、自宅のある田園調布まで歩いて帰ろうとしたらしいのだ。
当時の東横線は、今のように高架を走っておらず、地面の上を走っていた。
途中で、歩き疲れて眠気に負けた彼は、線路に寝てしまったらしい。
そして、朝一番の電車に轢かれて死んだ。
それを聞いた私は、なぜ彼のことを大丈夫だと判断したのだ、と激しく自分を責めた。
そのとき大丈夫に見えても、あとから効いてくるのが酒だ。
その読みが、甘かった。
ご両親に何度も頭を下げた。
しかし、頭を下げたからといって、生き返るわけではない。
お父さんから、「いまは息子の笑顔しか思い浮かばないんです」と言われた。
消えてなくなりたいと思った。
その悔しさは、酒を飲むたびに、いまでも脳細胞の表面に浮き上がってきて、私をやりきれなくさせる。
だから、私は飲み会では、最大限の注意を払うことにしていた。
参加者の様子をうかがうためには、話を聞くのが一番効果的だ。
そして、どの程度飲んだのかも絶えず監視していた。
言葉がもつれたり、論理的でなくなったときは、酔っているということだ。
すぐ水を飲ませる。
お節介で野暮なやつだと思われても私は構わない。
たとえば、世の中には、こういうバカがたくさんいる。
人に酒を無理やり飲ませようとするバカだ。
人にしつこく酒をすすめるやつがいたとき、私は相手が年上であっても胸ぐらや首根っこを掴んでやめさせた。
そういうときの私は、相当怖い顔をしているらしく、場が凍りついて、まわりをしらけさせるのだが、私は嫌われてもいいと思ってやっていた。
喧嘩になってもいいと思った。
死なれるよりは、ずっといい。
そういう理由で、私は、酔っぱらいが嫌いだ。
そして、同じ過ちを繰り返すのは、もっと耐えられない。
大学陸上部からの付き合いの友人たちは、そんな私を「宴会のコンダクター」と呼んでいた。
彼らに、「マツがいると、安心して飲めるよ」と言われたとき、私はとても幸せな気分になる。