ハゲが、国立にやってきた。
大学時代の陸上部同期だ。
ハゲとは、大学時代、一番仲が良かったかもしれない。学部やクラスは違ったが、よく飲みに行ったり、夏の合宿では夜遅くまで語り合った。
ハゲは、最初からハゲていたわけではないので、そのときは「シバエモン」と読んでいた。苗字がシバタだったので。
ただ、大学4年から、急に髪が薄くなり始めたので、ハゲと呼ぶ回数が増えた。
人格者のハゲは、そう呼ばれても怒らなかった。私だったら「草刈正雄」と呼ばれたら、絶対に怒るのに。
ハゲがなぜ横浜三ツ沢から県をまたいで国立まで来たのか。こんな危険な時期に。
国立のバーミヤンで会った。
ハゲは40前になったら、髪を剃って潔く完全まるハゲにした。よく剃りきったな、と私が聞くと「だって、この方がマツも俺のことハゲって呼びやすいだろ」とツルツル頭をなでながら笑った。
それは、とてもいい笑顔だった。
ハゲは大学時代から真面目だった。将来まで見越して人生設計をたてていた。彼はみずから自分で敷いたレールを設計通りに歩こうとしていた。
嫌らしい話だが、成績は私の方がハゲよりもよかった。しかし、志はハゲが100点、私は1点だった。
志が高い人は強い。目に見えない何かが、その人にパワーを与える。
ハゲは、大学卒業後、大手の会社に就職した。モーレツ社員ではなかったが、仕事を手際よくこなし、昇級も設計図通りに果たした。
順調な人生だと思われた。
しかし、50歳を過ぎたとき、ハゲに悪魔が忍び寄ってきた。咽頭がんに罹ったのだ。
もちろんハゲの設計図に、そんなものはなかった。愕然とした。
「マツ、俺はこんなものは受け入れられないぞ」とツルツル頭を掻きむしった。
ハゲは大学時代、記録会での成績が悪いと、いつもひどく落ち込んだ。完璧主義ではなかったが、自分の目標が達せられなかったとき、自分を強く責めた。
私などは、目標を持っていなかったから、成績が悪くても、よし、明日から本気出す、俺はまだ実力の半分も出してないぜ、というヘッチャラー星人だった。
落ち込みきったハゲをハゲましながら、手術室に送り出した。幸い手術は成功して今8年がたつ。
ただ、それ以来、ハゲの人生観が変わった。自分で自分を縛ることをやめた。それで、気が楽になったという。自分で自分をハゲますことをやめた。
そして、会社を辞めた。真面目なハゲは、絶対に停年まで勤め上げるものだと思っていた。設計図を捨てたのか。
「新しい設計図を描いたら、こうなったのさ。設計図は何度でも描き直せるだろ」
そのあと、ハゲは横浜三ツ沢の自宅で行瀬書士事務所を開業して今に至る。順調らしい。
大学の同じ時期、私も行政書士の資格をとった。しかし、志が100点の男と1点の男の差の現実がこれだ。
でも、俺はまだ実力の半分も出していない。明日から本気出す!
で、なんでおまえ、わざわざ国立までやってきたんだ。相変わらずダブル餃子はうまいな。生ビールに最高にあうな。
「先週、初めてのお客さんに相談を受けたんだよ」
離婚の話だという。熟年離婚。60歳過ぎた夫婦が2人で来て「離婚したいんです」と言ったのだ。
と言われても、ハゲは離婚の専門家ではない。ただのハゲた行政書士だ。話を聞いて、ハゲしく困惑した。
「なぜ私のところへ?」と聞いた。「ご近所にあったものですから」とご夫婦は答えた。
弁護士ではなく、ハゲた行瀬書士事務所に来る説明にはなっていないと思うが。ハゲまされたかったのだろうか。
離婚したい理由は、個人情報なので書けない。ただ、離婚とは言っても、同居はし続けたいと言うのだ。ようするに、離婚して財産を真っ二つに分け、お互いの生活費はそれぞれ2人別々に負担する。食事は、お互いが好きな時間に好きなものを食べる。お互いのことは、絶対に干渉しない。
そして、遺言書を取り交わす。どちらかが先に死んだときにゴタゴタしないためだ。
しかし、それって絶対に弁護士に相談すべき案件だよな。なんで、おまえに相談なんだ。
「ご近所だからな。相談しやすかったらしい」
ハゲが、油淋鶏を食いながら、不気味に照れた。昔から赤面症のハゲの顔が少し赤くなった。タコ坊主。
「それで、おまえに相談に来たんだ。元法律事務所で働いていたおまえに知恵を借りにな」
私は、素っ気なく言った。それは弁護士案件だ。おまえが関わることじゃない。横浜に俺の知っている弁護士が1人いる。その人の電話番号を教えるから、この話はそれで終わりにしたほうがいい。行政書士は、プライベートには立ち入らないほうがいい。
ハゲにはハゲの役割があるんだ。できることだけにハゲめ。
でも、おまえ、こんなことのためだけに、わざわざここまできたのか。電話でもよかっただろうに。
「久しぶりにマツの顔を見たかったからな」とハゲはまたタコ坊主になった。
私は2杯目の生ビールを飲みながら言った。おまえの頭は密じゃないからいいよな。それほどみごとにツルツルだったらコロナも素通りだろう。
「密といえば、俺たち、大学の飲み会のあと、冬は必ずおしくらまんじゅうをしたよな。覚えているか」
覚えているさ。8人から9人で密になって、渋谷駅前の交番の横でやっていたな。あれは本当に密だった。今だったら、白い目で見られるだろう。
「いや当時も相当白い目で見られていたぞ。深夜に駅前でおしくらまんじゅうをするやつなんかいないからな」
しかし、そんなくだらないこと考えたやつは誰だったんだ。
「おまえだよ。当時のグループで、くだらないことを考えるのは、おまえしかいない。陸上部の合宿で一番最初に晩ご飯を食い終わったやつが、みんなからデコピンを受けるというルールを作ったのも、おまえだ。おかげで晩ご飯に1時間半くらいかかったからな。最後の方は、デコピン覚悟で早く食って、みんな30分くらいで食い終わっていた」
早食いは、体に悪い。みんなにそれをデコピンで知ってもらいたかったのさ。
「大学のキャンパスですれ違ったとき、挨拶が朝はゆで卵、昼はタンメン、夜はチャーシューってのはなんなんだ」
それだけ食っていれば、人間は生きていけると教えたのさ。野菜とタンパク質、脂質を摂りましょう、それがアスリートの基本だ。ありがたいだろ。
突然、ハゲがだまった。下を向いた。ハゲの肩に力が入っていた。何か言いづらいことを言おうとしているように思えた。
もしかしたら、2年前に私がハゲにプレゼントしたスマートウォッチを壊してしまったとか。あるいは、今さらながら、カツラを着ける決断をしたとか。あるいは、まさか・・・・・。
ハゲが顔を上げた。そして、私の目を見ずに話始めた。
「この間、定期的な精密検査を受けたんだ」
やはり、そっちの方の話か。胃がズンと重くなった。3杯目の生ジョッキをテーブルに置いた。
怖くはあったが、ハゲの言葉を待った。悪いことは考えない。それが私のポリシーだ。手術から9年目。奇跡は続くと私は信じていた。だから、今回も・・・。
ハゲが一度顔を上に向けて、大きく息をした。そして、言った。
「検査の結果は・・・異常なしだ。それが嬉しくてマツにまっ先に報告しようと思ったんだ。9年間も生存できるなんて、当時は思わなかったよ。結果を聞いたときは泣いたな。嬉しかった。ご褒美を貰った気がした。
ありがたかったのは、おまえは絶対に俺に『頑張れ』とは言わなかった。むしろ『頑張るな』というスタンスだった。あれは、俺の中の何かを変えたんだ。今まで頑張ってきた結果、重い病気にかかった。もしこれからも頑張ったら、俺は、そのままじゃないかって思ったんだ。俺は俺の免疫力だけで病気を治すって思ったんだよ。頑張る必要はないんじゃないか。その結果が、これさ。もちろん先のことはわからない。しかし、言えることは、俺はいま幸せだってことだ」
ハゲの声が震えていた。
私のハゲましの言葉はいつも、頑張るな、だ。いま頑張っている人に、これ以上頑張れと声をかけるのは思い上がりだ。人がその人のあるべき姿のまま生きてほしい、というのが私のハゲましだ。私の中に熱い血は流れていない。
とは言っても、嬉しいときは、素直に喜ぶ。
私はハゲの頭を両手で包むように、ハゲしく撫で回した。
ハゲ、ハゲと言いながら、泣きながらテッペンを何度も叩いた。
無防備な頭は、すぐに赤くなった。
しかし、それはハゲが生きている証だ。