最近の社会は、「不寛容」になっていないだろうか。
たとえば、1度の過ちだけで、やり直しを許さない社会。
ドラッグや不倫、罪などを犯した人に、世間の目は今とても厳しい。
昔は、ドラッグで逮捕され、世間から批判されたとしてもカムバックできた。
その中には、いま確固たる地位を築いているアーティストの方も何人かおられる。
それは、なぜか、と考えたら、昔は事件を起こしても、それを伝える媒体は週刊誌かテレビのワイドショーしかなかった。
人は受動的な状態で、それらの情報を与えられたから、憤りは長く続かなかった。
しかし、今はネット社会だ。
SNSという能動的なアイテムを人は手にした。
「能動的」ということは、相手を攻撃できる、ということだ。
つまり、憤りが、長く続く。
ネチネチネチネチネチネチ・・・・・・と。
だから、1度過ちを犯すと、セカンド・チャンスあるいはセカンド・チャレンジを許さないシステムに変わった。
昨年だったと思うが、インターネットに関する大規模な調査が行われた。
統計学的には、2千人程度のサンプルがあれば、人の傾向はつかめるらしい。
しかし、この時の調査は4万人規模のものだった。
つまり、精度が高いということだ。
いくつかの質問の中で、「この一年間で批判的なコメントをしたことがありますか」というのがあった。
「はい」と答えた人は0.6%だった。
1000人のうち6人だ。
非常に少ない。
ただ、もちろん、その6人の陰には、多くの同じ意見を持った人がいるということも考えられる。
しかし、だとしても、せいぜい数パーセントだろう。
統計学の中では、少数派と言っていい。
だが、この少数派が幅を利かすのが、インターネットという世界だ。
少数の人が、怒りを拡散したら、それがニュースになる。
99%の人が、そう思っていなくても、少数の拡散が市民権を得るという奇妙な現象が起こることがある。
わずか数パーセント程度の人が「けしからん」と言えば、その「けしからん」は、顔のない悪意に変わる。
「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシは、怒りにまかせて、すべてを飲み込んで巨大化した。
しかし、最後は千のおかげで、穏やかさを取り戻した。
それに対して、ネット回線の中のカオナシは、怒りや嘘やデマや無知を飲み込んで、いまも巨大化が止まらない。
たとえ千のような純粋な子が99パーセントいたとしても、残りの1パーセントが怒りや嘘やデマを拡散すれば、カオナシはそれをまた飲み込んで大きくなるだろう。
それは、たった数パーセントの富裕層が、90パーセント以上の庶民を支配する構図と似てなくもない。
富を持つものは、富を人に渡すのを好まず、独占したがる。
つまり、寛容ではない。
ごくわずかな人たちが不寛容なだけで、社会全体が不寛容になる。
(パラノイアのような人が上にいる、どこかの国のように)
インターネットに関しては、インターネット大国である米、露、中、韓あたりが、率先してネット社会から人権を守る「インターネット人権法」のようなものを制定してくれたら、カオナシも少し小さくなるかもしれない。
それは、楽観的すぎる考えだろうか・・・・・。
話は戻るが、過ちを犯した人をネチネチと攻め続ける今のシステムは異常すぎる、と私には思える。
セカンドチャンスを与えられない社会は、牢獄よりも厳しい。
「人は過ちを犯すもの」という蓋然性が入り込む余地が少ない。
息が詰まる。
・・・などと人ごとのように言っている私も、実は寛容ではない。
自民党とジャイアンツと演歌と多数派が、好きではない。
要するに、インターネットの世界に住む少数派のカオナシさんたちと、まったく同じだということになる。
つまり、私も「カオナシ」ということ・・・・・です。
たとえば、1度の過ちだけで、やり直しを許さない社会。
ドラッグや不倫、罪などを犯した人に、世間の目は今とても厳しい。
昔は、ドラッグで逮捕され、世間から批判されたとしてもカムバックできた。
その中には、いま確固たる地位を築いているアーティストの方も何人かおられる。
それは、なぜか、と考えたら、昔は事件を起こしても、それを伝える媒体は週刊誌かテレビのワイドショーしかなかった。
人は受動的な状態で、それらの情報を与えられたから、憤りは長く続かなかった。
しかし、今はネット社会だ。
SNSという能動的なアイテムを人は手にした。
「能動的」ということは、相手を攻撃できる、ということだ。
つまり、憤りが、長く続く。
ネチネチネチネチネチネチ・・・・・・と。
だから、1度過ちを犯すと、セカンド・チャンスあるいはセカンド・チャレンジを許さないシステムに変わった。
昨年だったと思うが、インターネットに関する大規模な調査が行われた。
統計学的には、2千人程度のサンプルがあれば、人の傾向はつかめるらしい。
しかし、この時の調査は4万人規模のものだった。
つまり、精度が高いということだ。
いくつかの質問の中で、「この一年間で批判的なコメントをしたことがありますか」というのがあった。
「はい」と答えた人は0.6%だった。
1000人のうち6人だ。
非常に少ない。
ただ、もちろん、その6人の陰には、多くの同じ意見を持った人がいるということも考えられる。
しかし、だとしても、せいぜい数パーセントだろう。
統計学の中では、少数派と言っていい。
だが、この少数派が幅を利かすのが、インターネットという世界だ。
少数の人が、怒りを拡散したら、それがニュースになる。
99%の人が、そう思っていなくても、少数の拡散が市民権を得るという奇妙な現象が起こることがある。
わずか数パーセント程度の人が「けしからん」と言えば、その「けしからん」は、顔のない悪意に変わる。
「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシは、怒りにまかせて、すべてを飲み込んで巨大化した。
しかし、最後は千のおかげで、穏やかさを取り戻した。
それに対して、ネット回線の中のカオナシは、怒りや嘘やデマや無知を飲み込んで、いまも巨大化が止まらない。
たとえ千のような純粋な子が99パーセントいたとしても、残りの1パーセントが怒りや嘘やデマを拡散すれば、カオナシはそれをまた飲み込んで大きくなるだろう。
それは、たった数パーセントの富裕層が、90パーセント以上の庶民を支配する構図と似てなくもない。
富を持つものは、富を人に渡すのを好まず、独占したがる。
つまり、寛容ではない。
ごくわずかな人たちが不寛容なだけで、社会全体が不寛容になる。
(パラノイアのような人が上にいる、どこかの国のように)
インターネットに関しては、インターネット大国である米、露、中、韓あたりが、率先してネット社会から人権を守る「インターネット人権法」のようなものを制定してくれたら、カオナシも少し小さくなるかもしれない。
それは、楽観的すぎる考えだろうか・・・・・。
話は戻るが、過ちを犯した人をネチネチと攻め続ける今のシステムは異常すぎる、と私には思える。
セカンドチャンスを与えられない社会は、牢獄よりも厳しい。
「人は過ちを犯すもの」という蓋然性が入り込む余地が少ない。
息が詰まる。
・・・などと人ごとのように言っている私も、実は寛容ではない。
自民党とジャイアンツと演歌と多数派が、好きではない。
要するに、インターネットの世界に住む少数派のカオナシさんたちと、まったく同じだということになる。
つまり、私も「カオナシ」ということ・・・・・です。