リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

なじみすぎた街・郷愁

2018-04-29 05:15:00 | オヤジの日記

金曜日、神田の得意先との打ち合わせを終えた午前11時25分。

ケツに入れたiPhoneが震えた。

 

ディスプレイを見ると、中目黒の同業者からだった。

「Mさん、電源はつくんですけど、モニターが真っ黒です」

この同業者は、機械の具合が悪くなると、いつも私にSOSを出す。

彼のメインマシンは最新のものだが、セカンドマシンは、私のメインマシンと型番が同じである。ということもあって、セカンドマシンの具合が悪くなったとき、彼は私を召使いのように呼び出すのだ。

今回、彼のパソコンの不調に関しては、原因がすぐに想像がついた。私は、神田にほど近い秋葉原の電気街で、ある部品を手に入れ、日比谷線で中目黒に向かった。

目黒警察署から257メートル離れた同業者の仕事場に行った。

 

セカンドマシンの不調ごときで、慌てふためく同業者。

そんな同業者の前で、私は魔法を使った。

とはいっても、モニターケーブルを代えただけですけどね・・・。同業者のセカンドマシンは、それですぐに復活した。

「えー、なんでぇ!」と同業者は叫んだ。しかし、おそらくそれほど機械に詳しくなくても、ほとんどの人が症状を聞けば、原因はすぐに特定できたと思う。

「え? ほんまでっか?」

奈良県生駒市出身の同業者は、間延びした声で、「ほんまでっか」を2回言った。

 

ほんまでんがな。

 

そのあと、「お礼にラーメンを奢りますがな」と言われたが、私は断った。

いつもなら、その申し出を受け入れて、中目黒駅寄りのラーメン屋で中華そばをご馳走になったところだ。しかし、この日、私には行きたい場所があった。

私は、神童と言われた2歳から結婚して家を出るイケメンの28歳まで、中目黒に住んでいた。

同業者と同じように、目黒警察署のそばに住んでいたのである。中目黒、代官山、渋谷、恵比寿は、ほとんど庭と言っていい。

中目黒で寄りたいところがあってね・・・。

「じゃあ、ご一緒しましょう。奢りますから」

いや、悪いけど、今回は一人で歩きたいんだ。

 

中目黒は、大きく変わった。

昔は、下町っぽい雑然とした街並みだったが、テレビドラマから抜け出したような、あか抜けた街になった。

ただ、中目黒は中目黒。

新しいビルがいくつも建ち、オシャレなカフェや食い物屋ができたとしても、道自体は変わらない。道が変わらなければ、それは私の中目黒だ。

あるいは、よく最近の渋谷に関して、「渋谷はカオスだよ」と言う人がいる。それを聞いて、いつも私は首を傾げる。

私は、高校、大学が渋谷だったので、7年間、ほぼ毎日、渋谷の街を歩いた。渋谷も大学時代から比べたら、大きく変わった。だが、道は変わっていない。

道が変わらなければ、ビルが変わったとしても、迷うことはない。

「渋谷駅もカオスだな」と言う人がいるが、地下何階にどの路線が通っているかを把握して、どちらの方向が恵比寿、原宿、中目黒、池尻大橋かを頭に入れておけば、地上を歩くのと何も変わらない。

どう歩いても私の渋谷だ。

ただ、それは、私が渋谷になじみすぎているから言えることかもしれないが・・・。

 

中目黒にも、私はなじみすぎていた。

中目黒駅西口を通って、高架下沿いを祐天寺方向に歩いていった。中目黒駅周辺で、一番変わったのは、この高架下かもしれない。

数年前までは年季の入った古い店ばかりだったが、今はすべてが新しくなった。カフェ、ダイニングなど洒落た店が軒を連ねていた。

「へい、らっしゃい」「まいどー」などという店はあまりない。しわしわのスーツ、薄汚れた革靴で入るのがためらわれるような店ばかりだ。

まあ・・・入りませんけどね。私は自分のみすぼらしさを痛いほど知っているので。

西口を出て5軒目の店。

そこに、昔、板張りの居酒屋があった、店名は忘れた。板が傷んで、無数のツギハギがあったことは、よく覚えていた。外見がイタイ店だった。

 

そのイタイ居酒屋で、34年前、母に当時付き合っていた女性を紹介した(何を間違えたか、その人はいま私の妻になっていた)。

本来なら家に連れていくところだろうが、当時家には引きこもりの姉がいたので、家は選択肢になかった。

母からは、「お寿司屋さんで会いましょうよ。私がご馳走するから」と言われた。だが、私は当時お寿司屋さんに、ある理由から敵意を抱いていたので、その申し出を辞退した。

寿司屋とは明らかにランクが落ちる店構えを見て、将来ヨメになる人は私を睨んだ。だが私は、だって、昼間から酒を飲める場所は、ここしかなかったんだもん! と言って押し切った。

 

母は、ヨメの顔を見るなり、「あら、マイペースさんね」と言った。

初対面で、ヨメの本質を見抜いたようだ。おぬし、できるな。

母は、人のことを根掘り葉掘り聞くことはしない。

どこで知り合ったの? 住まいはどこ? 学校はどこ? ご両親は何をしているの? アラン・ドロンはお嫌い?

そんなことは何も聞かなかった。

話は、中目黒の実家の庭で育てている柿の木やイチジク、カボチャ、トウモロコシ、ナス、トマトなどの話だった。あとは、室内で育てている蘭のことだった。

そして、植物の話が一通り終わったあと、ご対面は終了となった。ただ、困ったことに、対面終了のゴングが聞こえてから、母は、ヨメの手を両手で取り、「お願いしますね。まかせましたよ」と泣き出した。

ヨメもつられて、泣き出した。

 

なんじゃ、それ?

 

苦手な展開になったので、私はトイレに立った。

長めに時間をつぶした。5、6分も時間をおけば、私の苦手な空気はなくなっているだろうと思った。しかし、席に戻っても、まだ二人は手を取り合って泣いていた。

 

なんすか、それ?

 

店の支払いは、いつの間にか、母が済ませていた。

店の外に出たとき、母が背筋を伸ばし、毅然として言った。

「いいですか、ユミコさんを泣かしたら、私が許しませんからね。私はユミコさんの味方ですから」

ははーー(土下座)。

 

私がトイレに行っている間に、母がヨメに言った言葉。

「あの子は、子どもの頃から何でも自分で決めて、自分でやってきました。あの子は、放っておけば手間がかかりません。放っておいてください。そうすれば、あなたを不幸にすることはありませんから」

 

そのツギハギだらけの居酒屋は、今あか抜けたおでん屋さんになっていた。

赤が抜けすぎて、緑と青が可哀想だ。

だから、私は一生入らないだろう。

開店が16時からなので、入ろうとしても入れませんでしたけどね。

 

ひとりで、私の嫌いな郷愁に浸りながら、なじみすぎた街を歩いた。

中目黒は中目黒。

やはり、ここは私の街だ。

私はここに「いくつもの場面」を残した。

そして、その場面の中には、母もいた。

 

 

いま母がいないことに、ヨメも私もまだ、なじんでいない。

おそらく、なじむのは、もっとずっと先のことだ。

(2月以来、ヨメの涙を何度見ただろうか?)

 


アーちゃんとセキトリ

2018-04-22 05:36:00 | オヤジの日記

 我が家に、1年前、はなはだしいほどブス顔の猫が、やってきた。

 

私は7年以上前から、そのノラ猫とお友だちだったが、彼が家猫6段に昇段したのは1年前の2月21日からだった。

名前を「セキトリ」と言った。

セキトリは、堂々とした体格とおっとりした性格を持っていた。

セキトリは怒らない。猫パンチもしない。噛まない。爪も立てない。穏やかな顔で毛づくろいをするのをライフワークにしている平和な猫ちゃんだ。

だから、顔がブサイクのくせに、セキトリはいま家族全員の愛情をたっぷり受けて暮らしていた(いま我が家に居候中の娘のお友だちミーちゃんにも溺愛されていた)。

ノラ猫だった頃、セキトリは、「ニャー」とか「ニャゥ」と鳴いていた。

しかし、いまセキトリの鳴き声は「アワ」か「オワン」に変わった。

セキトリに何があったのだろう。

そもそも、猫が「アワ」「オワン」と鳴くことを神は許してくださるだろうか。

 

おまえ・・・本当に猫か?

姿形は猫であるが、実は未確認生物(UMA)だという可能性もある。

いつか「パンク町田先生」に聞いてみたいと思う。

セキトリとは週に1回、娘と3人で散歩をする習慣があった。

ノラ猫生活が長かったから、家にばかりいたらストレスがたまる。セキトリを家猫にするとき、たまには外に出すからさ、と私はセキトリと約束をした。約束は守らなければいけない。

ペット用のカート(ベビーカーの小型版)に入れて、マンションから徒歩8分程度の都営住宅の公園まで散歩する。

この公園は、いつも空いているので、怪しいUMAが侵入しても誰にも見つからない。

UMAセキトリには、好都合だ。

最初のうちは、ハーネスとリードで行動を制御していたが、セキトリは私から27.5フィート以上離れることがないので、今はリードなしで自由に行動させている。

 

そんなUMAとガイコツ、娘の散歩に、最近新たな登場人物として、カラスがエントリーしてきた。

ひと月ほど前の桜満開のころに、カラスが突然、我々に近づいてきたのだ。

ただ、相手も警戒心が強いので、2フィート以上は近づかない。2フィートが、彼のパーソナルスペースのようだ(彼か彼女かはわからないけど)。

セキトリも最初は警戒していたが、カラスが、それ以上近づこうとしないので、すぐに緊張を解いた。

セキトリは、鳴きもしないし威嚇もしない。カラスも鳴かない。ふたり、うまい具合に距離感を保って、お見合いをしていた。

そして、3分もするとカラスは飽きたのか、飛び立って行った。

 

それ以来、UMAとガイコツ、娘が公園散歩をしていると、毎回そのカラスらしい生物がセキトリに近づくようになった。

距離は2フィート。

カラスの顔は皆なぜか真っ黒で、判別しにくいものだが、距離感が同じなので、きっと同じカラスだと思う。

先週の散歩のとき、私は、セキトリにおやつの乾しカマをあげていた。

そのときに、またカラスが近づいてきた。

私は、イタズラ心を出して、余った乾しカマを手のひらにのせながら、カラスに近づいた。

娘からは、「おい! それは、やめようぜ」と言われたが、お茶目な私は構わず近づいた。

カラスは逃げはしなかったが、少し戸惑った様子で頭を左右に傾げ、私の顔を見上げて「アー」と鳴いた。

そのカラスが鳴くのを初めて聞いた。

「カー」じゃなくて「アー」と鳴くんだね、キミは。

しかし、無理だよね。野生のカラスがガイコツの差し出す食べ物なんか食うわけないよね。

そう思っていたら、カラスがまた「アー」と小さく鳴いて、私の手の上にあった乾しカマをクチバシでつついて地面に落とした。

そして、それを咥え、またたく間に空に向かって飛んでいった。

きっと人に見られないところで、食うつもりだろう。それがカラスの本能なのかもしれない。

 

アーちゃん、飛んでっちゃったな。

私が、そう言うと娘が「相変わらず、痛々しいな、おまえ」と尊敬するように言った。

 

木曜日の朝、得意先に行こうと国立駅までの道を歩いていた。

そのときは、たまたま娘の出勤時間と同じだったので、同じ時間に出た。

国立駅前、旭通りの歩道は狭い。

その狭い通りで、突然カラスが我々の前に降り立った。

まさか「アーちゃん」じゃないよな。

しかし、距離感2フィートでカラスは止まったのだ。そして、控えめに「アー」。

そうでちゅか。アーちゃんでちゅか(なぜ赤ちゃんコトバ?)。

そのとき、偶然にも、私のバッグには、小腹が空いたときに食おうと思った魚肉ソーセージが存在していた。

咄嗟に私は、その魚肉ソーセージを半分に折って、アーちゃんに手を差し出した。

アーちゃんは、それをつついて地面に落とした。

アーちゃんは、「ありがとう」と言うように、小さく頭を下げて、半分の魚肉ソーセージを咥え、飛び立って行った。

 

カラスに餌をあげるなんて非常識だ、という批難に対して、私は、あれは私によく似た他人です。声も似ていますが違います。だから、あれは私ではございません。セクハラなんかしていません、と答えることにする。

 

半分残った魚肉ソーセージは、国立の美観の邪魔になるので、ティッシュにくるんでバッグに入れた。

打ち合わせを終えて、昼過ぎに家に帰った。

バッグの中に半分魚肉ソーセージがあったのを思い出した私は、魚肉ソーセージを一度湯がいたのち氷水に入れて冷まし、塩分を落としてから細かくちぎって、セキトリにあげた。

セキトリは、いい食いつきで食ってくれた。

 

セキトリ、君は、アーちゃんと友だちになったな。よかったな。

 

そのことを仕事から帰ってきた娘に、クリアアサヒを飲みながら話したら、「おまえ、最近、脳が崩壊してきたな、お酒、いい加減やめた方がいいぞ」と褒められた。

 

 

いえいえ、脳alcohol  脳life ですから。

  

セキトリの今の姿。顔はお見せできません。刺激が強すぎるので。

 

今度、アーちゃんとセキトリのツーショットに挑戦してみようかと・・・。


つないだ手

2018-04-15 05:21:00 | オヤジの日記

娘が社会人になった日。

入社式を終えて帰ってきた娘が、仕事をしている私のそばにやってきて言った。

「なあ、手をつないでもいいか」

もちろん。

娘の手を握った。

幼い頃から知っている、大きさは変わったが、感触は変わらない娘の手だ。

20秒くらい、手をつないだ。

娘は目をつぶっていた。

 

最初は、緊張が感じられた娘の顔が、最後はいつもの穏やかな顔に戻った。

「いただきましたぁ! よし、明日からも頑張るぞぉーい!」と叫んで、娘は自分の部屋に入っていった。

 

私は子どもたちと濃密に関わってきた。

 

子どもたちの学校行事には、どんなに忙しくても必ず参加した。

入園式、運動会、お遊戯会、遠足、餅つき大会、うどん作り、カレー作り、卒園式、入学式、運動会、学芸会、マラソン大会、二分の一成人式、授業参観、卒業式、入学式、運動会、文化祭、合唱祭、吹奏楽部演奏会、卓球大会、授業参観、三者面談、卒業式、入学式、運動会、文化祭、発表会、卓球大会、吹奏楽部演奏会、授業参観、三者面談、卒業式、入学式、学園祭、成人式、卒業式。

仕事は大事だが、自分の子どもの成長と健康に勝るとは思っていない。

息子とは、中学2年まで一緒に風呂に入った。

娘とは中学1年まで、風呂に入った。

「ボクは今でも平気だけどな」と娘は言う。

嬉しいことだ。しかし、俺が照れるから、やめている。

息子とは、中学2年まで手をつないで歩いた。

27歳になった今でも「眠れないから」と言われて、たまに手をつなぐことがある。

娘とは、いまも手をつないで歩くことがある。

父親として、無上の喜びだ。

 

手と手。

 

それが触れ合うだけで、人は、密度の高いエネルギーを得る。

私も娘と息子の手から、いつもエネルギーをもらっている。

それは、私の気持ちを確実に高揚させてくれる。

 

 

いま子育て中のパパさん、ママさん。

あなたのお子さんの手には、人知を超えたエネルギーがあります。

それは、無限のエネルギーと言っていいでしょう。

 

いつまでも、いくつになっても握ってあげてください。

 

手をつなげば、強くつながるのが親子。

 

親子ではなくても、手をつなげば、人は強くつながります。

 

 

手は 心とつながっているんです。

 

 


カオナシの恩返し

2018-04-08 06:30:00 | オヤジの日記

日帰りのバス旅。

思っていた通り、バスの中では長年の友人の尾崎との会話はなかった。

往きは、二人とも車内で爆睡。ほとんど車窓の景色は見ていない。

昼メシは、一時間のカニ食い放題。カニを食っているときは、誰もが無口になる。だから会話はない。

バスで移動中も無言。二人とも車内でスマートフォンをいじる習慣がないので、何もせずに、ただただ無言。音楽も聴かない。

カニを食って、30分後にはイチゴ狩りだった。30分間の食い放題。

二人ともイチゴを食うような愛らしいキャラではないので、やめようか、と提案しようとしたが、尾崎が躊躇なく入っていったので、慌てて私もついていった。

すると尾崎は、係の人から手渡された練乳入りのコップを手にして、いきなり章姫さんをもぎ始めたではないか。

成熟した章姫さんも、まさかこんな無粋で無愛想な男に掴まるとは思わなかったに違いない。

同情しますよ、章姫さん。

イチゴを食う習慣がない私は、4つが限界だった(カニで腹一杯だし)。しかし、尾崎は、無表情ながらも10個以上の章姫さんを強奪した。

ときどき、食いながらうなずいていたから、満足していたと思われる。

 

またもバス車内では無言。他の人からは「おひとりさま」に見えたかもしれない。

現に伊香保温泉の町並みを二人並んで歩いているとき、同じツアーの人から、「あら、もうお知り合いになったんですか」とにこやかな顔で話しかけられた。

はい、そうです、と答えておいた。

桜は咲いていたが、標高が高いせいか、満開というわけにはいかなかった。5分咲きくらいだろうか。

満開が似合わない男2人が来たのだ。満開になるわけがない。

それでも、桜は美しかったが・・・。

伊香保は、心落ち着く温泉街だった。人の導線を考えた町づくりをしていると思った。見ていて、邪魔なものが、ほとんどない。歩きやすい。そして、歴史を感じた。口元が緩んでいくのが、自分でもわかった。

尾崎の顔は見ていないが、尾崎の体からは、いつもの緊張が抜けているように感じられた。

いい気持ちだ。

普通だったら、おい、写真でも撮ろうか、などといった友だちごっこをするものだろうが、お互い照れくさいから、そんなことは言えない。

 

温泉街を歩き、300段以上ある石段を歩いた。途中、足湯にも寄った。

足湯で、ふたり初めて話した。

尾崎が足湯は初めてと言うから、足湯歴4回の私が、入り方を指南した。

いいか、足湯には、靴下を脱いでから入るのだ。しかし、服を脱いではダメだ。捕まる可能性がある。そして、混浴はOKだ。さらに、これが一番大事なのだが、足湯に入ったら、足の指でグーチョキパーをするのだ。俺が、見本を見せてやろう(私には、両足の指でグーチョキパーをする何の役にもたたない特技があった)。

ほら、グーチョキパー! あ! 右足の勝ちぃ~。

それを見た尾崎が冷静に言った。

「俺は、お前のことを自由でのんきな男だと思っていたが、間違っていた。ただの馬鹿だな」

 

は、恥ずかしい。

 

つぎに、赤い橋を見た。

これは、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の湯屋前の橋のモデルになったと言われている橋だ。「河鹿橋」というらしい。

想像以上に、こじんまりとした橋だった。

カオナシが通った橋。

私は、尾崎に言った。

なあ、この橋をゆっくりと渡ってみてくれないか。

すると尾崎は、この旅で初めて笑った。

「あの映画が流行っていた頃、中野の商店街を歩くと、見ず知らずのガキが、俺の顔を見て『あ、カオナシだ!』って指さすんだよ。おまえも、そのレベルか」

渡らないかと思ったが、珍しいことに、尾崎は、カオナシのように、ぬーっと歩いてくれた。

拍手をした。

戻ってきた尾崎は、鈍色(にびいろ)をした流れる川を見つめながら言った。

「俺は24歳までカオナシのように、邪悪なものを飲み込むことで、自分を偉いと勘違いして生きてきたんだ。そのときの俺はカオナシと同じく毒を貯め込んでいた。だが、カオナシは、たった一人の純粋な子に目を覚まされた」

「その純粋な子が、俺にとっては、おまえの母さんだった。安っぽい言い方になるが『愛』ってやつだよな」

「いま、はっきり言うが、俺を変えてくれたのは、母さんだ。なあ、答えてくれないか。俺は、母さんに恩を返したのか」

今日初めて、尾崎と目が合った。悲しい目ではない。ただ、必死だった。答えをすぐに知りたいという切羽詰まった目だった。

その必死な目を見ながら私は言った。

 

母さんは、おまえを次男だと認めていたんだ。つまり、おまえは、母さんにとって特別な人間だった。

母さんも間違いなくおまえに恩を感じていたということだ。知らないうちに恩を返したり返されたりの関係。

それって、家族ってことだよな。

 

「ああ」と言いながら、尾崎が空を見上げた。まるで、涙をこぼすことを嫌うように。

 

最後は、酒蔵に寄った。

日本酒の試飲ができるというので、飲んだ。

お一人様、各銘柄一杯限りというルールだったらしいが、美味かったのでおかわり、と言ったら、快くおかわりさせてくれた。

尾崎と二人、結局4杯飲んだ。

もちろん、タダ酒は失礼だと思ったので、酒を買った。

そのあと、車中爆睡。

酒の匂いを振りまきながら、新宿駅に着いた。

それから、新宿から中央線に乗った。

尾崎は、中野駅で降りる。

 

また無言。

 

降りるとき、尾崎が、無表情に両手で私の肩を軽く叩いた。

 

何の迷いもなく、ふたり初めて軽くハグをした。

しかし、お互い目は合わせなかった。

 

 

母さんを感じた、とてもいい旅だった。

 

 


突然バス旅に行くってよ

2018-04-01 06:54:00 | オヤジの日記

2週間近く前のことを、今さら書くことにした。

 

長年の友人の尾崎の妻・恵実とデートをした。不倫? いえいえ、カフェで忍び逢っただけでございます。

惠実は、長年かわらない長いストレートヘアーと質素なアイボリーのワンピースに身を包んでいた。決して美人ではないが、瞳に意志をたたえた表情は、明確に自己を主張していた。

結婚する前、尾崎との同棲生活は8年間続いていた。二人は、よく喧嘩をした。喧嘩をする度に、二人はいつもどちらかが家を出た。

家出は2日の時もあったし、半年の時もあった。

さすがに、半年間の家出は常識的に考えて危機的な状況だろう。だから、私は、そのとき惠実が逃げ込んだ京都府の乙訓郡の実家まで会いにいった。

尾崎に頼まれたわけではない。自分の意思で勝手に行ったのだ。丁度、京都の紅葉が始まった頃だった。要するに、紅葉を見たさに行ったということ。

鮮やかな紅葉が間近に見える飲み屋で、惠実と酒を飲んだ。不倫? いえいえ、飲み屋で忍び逢っただけでございます。

そのとき、喧嘩の原因が何なのか、私は知らなかった。そんなことに興味はない。ただ、尾崎のそばに惠実がいないことが不自然だと思っただけだ。

私の前にいる惠実は、いつもの惠実だった。少なくとも心を乱してはいなかった。

その惠実に、私は聞いた。

君が、いま尾崎を必要としているかを聞きたい。

すると、惠実は、即座に「必要です」と答えた。

では、帰ろうか。尾崎も君を必要としている。君のいない尾崎は、ただのアウトローだ。尾崎をアウトローの世界から連れ出してくれるのは君しかいない。

惠実は、うなずいてくれた。

 

その後、惠実が尾崎の元に返ってからひと月ほど経ったとき、私は尾崎に言った。

いつまでも、このままでいいと思うのか。

「このままとは?」

恵実さんとの暮らしだ。入籍しろよ、時機を逃し過ぎだ。

「わかった、今日入籍してくる」

尾崎は、その日、本当に入籍した。

尾崎とは、そういう男だ。

その後、二人は、三人の子どもを授かった。

子どもが出来たあとも、衝突して、懲りずに何度か家出をしていたが、大きなヤケドはおっていない。

要するに、似た者夫婦なのだ。

 

惠実は、尾崎のことに絶えず気を配っていた。

惠実が言うには、私の母の死後、尾崎は表面上は家族とも普通に接して、何も変わらないように見えたが、たまに心が飛んでいるように見えたという。

10年近く前、尾崎と南青山のバーで飲んでいたとき、尾崎が突然言い出した。

「俺は、おまえと母ちゃん先生がいなくなったら、壊れるだろうな」

それほど尾崎は、私の母に心酔していた。

30数年前、尾崎と知り合って一年が過ぎた頃、私は当時住んでいた東京中目黒の実家に尾崎を連れていった。

どこから見ても、危険な匂いしかしない尾崎を見て、かつて教育者だった私の母は「尾崎くんは私好みの子ね」と何の不自然さもない表情で笑った。

尾崎にとって、それは驚愕の出来事だったようだ。

「俺を認めてくれる大人に初めて出会った」と思ったという。

 

高校を2か月足らずで辞めて、それから24歳までをアンダーグラウンドの世界で生きてきた尾崎。

犯罪歴はないが、「まともには生きていないし、まともなやつとも付き合ったことはなかった」と言っていた。

その尾崎を彼の伯母が興信所を使って探し出し、病室に呼びつけた。伯母は末期がんだった。

子どものいない伯母は、尾崎に言った(尾崎には両親がいなかった)。

「あんたが、私の店を継ぐんだよ」

伯母は、雑貨店と化粧品屋を営んでいた。尾崎は伯母の命をかけた迫力に押され、毎日病室に行き、伯母から経営学を学んだという。

3か月も経たないうちに、叔母は亡くなり、尾崎が伯母の店を継いだ。

思いがけず陽の当たる場所に出てきた尾崎だったから、そのとき彼の心はまだアウトローのままだった。

そんなアウトローの心のまま、私と知り合い、私の母に会ったのだ。

 

「俺に初めて会ったやつは、怯むか無関心な振りをする。『おまえなんか、怖くないよ』と虚勢を張るやつもいる。俺は、ウンザリしていたんだ。だが、おまえと母ちゃん先生だけは、自然体で俺を受け入れてくれたんだよ。そんな些細なことでも俺は嬉しかったんだ」

私と私の母だけではない。惠実も尾崎を自然体で受け入れた。だから、二人はいま同じ人生を生きていた。

 

いまの尾崎は、壊れてはいないが、私の母の死で大きな喪失感を味わったのだろうと思う。

「私もそう思います」と惠実。

「あれから、尾崎とはお会いになっていないんですよね」

同じものをなくしたもの同士、会って傷をなめ合っても、何も前に進まない。いまは、時間が必要なときですよ。

「でも、尾崎は本当はMさんに会いたがっています」と、惠実が身を乗り出しながら、強い目線を私に向けた。

たじろぐほどの強い圧力だった。

そして、惠実が言った。

「あれから、尾崎は車に乗りたがらないんですよね」

尾崎は、私の母を乗せるために、車を車椅子が乗せられるように改良していた。そして、その車で、私の母をドライブに誘うことがよくあった。

母は、それをとても喜んでいた。楽しみにしていた。ドライブが終わったとき、母は必ず尾崎の両手を握りしめて、泣きながら頭を何度も下げたという。

その姿を見た尾崎が私に言うのだ。

「俺は、母さんに何もしてない。ただ、俺の都合で連れ回しているだけなのに、母さんは、感謝の気持ちを体全体で表して泣いてくれるんだよな。本気で泣いてくれるんだ。それが今の俺の幸せだ」

 

尾崎、おまえは、間違いなく、いまも俺の母さんの息子だよ。

 

惠実が言った。

「尾崎と会ってください」

「ただ、普通に会うだけでは、尾崎も構えてしまうと思うんです。照れると思うんです」

「だから、僭越とは思いましたが、私が勝手に段取りをつけさせてもらいました。バス旅です」

 

え? バス旅? 唐突すぎるんですけどぉ・・・。

 

「いま、尾崎は車の運転を嫌がっています。でも、自分が運転しないバス旅なら、気が楽だと考えました」

「伊香保温泉の日帰り旅を私がセッティングしました。勝手に決めて申し訳ないですが4月4日のバス旅です。いかがでしょうか」

いかがでしょう、も何も、決められてしまったら、行くしかないっしょ!

惠実らしい強引さだと思った。

私は躊躇なく、わかりもした、と答えた。

惠実は、私に向かって深く頭を下げた。ずっと下げていた。

頭を上げたとき、目が合った。強い意志。

尾崎の妻。

尾崎は、いい人と生涯を分かち合えたのだな、と思った。

二人は、これからも喧嘩をするだろう。家出をするに違いない。

しかし、そんなことは、この夫婦には些細なことなのだ。

 

だって、似た者夫婦だから。

 

私は、これからもきっと友である尾崎と惠実を応援するだろう。

 

 

しかしなあ、バス旅ですかぁ・・・・・。

(尾崎とバス旅をしても、話すこと何もないんですけど)

 

 

キャー、サクラキレイ~! このカニ、超オイシイわ~! なんて、はしゃいじゃったりしてぇ・・・・・(女子か!)