金曜日、神田の得意先との打ち合わせを終えた午前11時25分。
ケツに入れたiPhoneが震えた。
ディスプレイを見ると、中目黒の同業者からだった。
「Mさん、電源はつくんですけど、モニターが真っ黒です」
この同業者は、機械の具合が悪くなると、いつも私にSOSを出す。
彼のメインマシンは最新のものだが、セカンドマシンは、私のメインマシンと型番が同じである。ということもあって、セカンドマシンの具合が悪くなったとき、彼は私を召使いのように呼び出すのだ。
今回、彼のパソコンの不調に関しては、原因がすぐに想像がついた。私は、神田にほど近い秋葉原の電気街で、ある部品を手に入れ、日比谷線で中目黒に向かった。
目黒警察署から257メートル離れた同業者の仕事場に行った。
セカンドマシンの不調ごときで、慌てふためく同業者。
そんな同業者の前で、私は魔法を使った。
とはいっても、モニターケーブルを代えただけですけどね・・・。同業者のセカンドマシンは、それですぐに復活した。
「えー、なんでぇ!」と同業者は叫んだ。しかし、おそらくそれほど機械に詳しくなくても、ほとんどの人が症状を聞けば、原因はすぐに特定できたと思う。
「え? ほんまでっか?」
奈良県生駒市出身の同業者は、間延びした声で、「ほんまでっか」を2回言った。
ほんまでんがな。
そのあと、「お礼にラーメンを奢りますがな」と言われたが、私は断った。
いつもなら、その申し出を受け入れて、中目黒駅寄りのラーメン屋で中華そばをご馳走になったところだ。しかし、この日、私には行きたい場所があった。
私は、神童と言われた2歳から結婚して家を出るイケメンの28歳まで、中目黒に住んでいた。
同業者と同じように、目黒警察署のそばに住んでいたのである。中目黒、代官山、渋谷、恵比寿は、ほとんど庭と言っていい。
中目黒で寄りたいところがあってね・・・。
「じゃあ、ご一緒しましょう。奢りますから」
いや、悪いけど、今回は一人で歩きたいんだ。
中目黒は、大きく変わった。
昔は、下町っぽい雑然とした街並みだったが、テレビドラマから抜け出したような、あか抜けた街になった。
ただ、中目黒は中目黒。
新しいビルがいくつも建ち、オシャレなカフェや食い物屋ができたとしても、道自体は変わらない。道が変わらなければ、それは私の中目黒だ。
あるいは、よく最近の渋谷に関して、「渋谷はカオスだよ」と言う人がいる。それを聞いて、いつも私は首を傾げる。
私は、高校、大学が渋谷だったので、7年間、ほぼ毎日、渋谷の街を歩いた。渋谷も大学時代から比べたら、大きく変わった。だが、道は変わっていない。
道が変わらなければ、ビルが変わったとしても、迷うことはない。
「渋谷駅もカオスだな」と言う人がいるが、地下何階にどの路線が通っているかを把握して、どちらの方向が恵比寿、原宿、中目黒、池尻大橋かを頭に入れておけば、地上を歩くのと何も変わらない。
どう歩いても私の渋谷だ。
ただ、それは、私が渋谷になじみすぎているから言えることかもしれないが・・・。
中目黒にも、私はなじみすぎていた。
中目黒駅西口を通って、高架下沿いを祐天寺方向に歩いていった。中目黒駅周辺で、一番変わったのは、この高架下かもしれない。
数年前までは年季の入った古い店ばかりだったが、今はすべてが新しくなった。カフェ、ダイニングなど洒落た店が軒を連ねていた。
「へい、らっしゃい」「まいどー」などという店はあまりない。しわしわのスーツ、薄汚れた革靴で入るのがためらわれるような店ばかりだ。
まあ・・・入りませんけどね。私は自分のみすぼらしさを痛いほど知っているので。
西口を出て5軒目の店。
そこに、昔、板張りの居酒屋があった、店名は忘れた。板が傷んで、無数のツギハギがあったことは、よく覚えていた。外見がイタイ店だった。
そのイタイ居酒屋で、34年前、母に当時付き合っていた女性を紹介した(何を間違えたか、その人はいま私の妻になっていた)。
本来なら家に連れていくところだろうが、当時家には引きこもりの姉がいたので、家は選択肢になかった。
母からは、「お寿司屋さんで会いましょうよ。私がご馳走するから」と言われた。だが、私は当時お寿司屋さんに、ある理由から敵意を抱いていたので、その申し出を辞退した。
寿司屋とは明らかにランクが落ちる店構えを見て、将来ヨメになる人は私を睨んだ。だが私は、だって、昼間から酒を飲める場所は、ここしかなかったんだもん! と言って押し切った。
母は、ヨメの顔を見るなり、「あら、マイペースさんね」と言った。
初対面で、ヨメの本質を見抜いたようだ。おぬし、できるな。
母は、人のことを根掘り葉掘り聞くことはしない。
どこで知り合ったの? 住まいはどこ? 学校はどこ? ご両親は何をしているの? アラン・ドロンはお嫌い?
そんなことは何も聞かなかった。
話は、中目黒の実家の庭で育てている柿の木やイチジク、カボチャ、トウモロコシ、ナス、トマトなどの話だった。あとは、室内で育てている蘭のことだった。
そして、植物の話が一通り終わったあと、ご対面は終了となった。ただ、困ったことに、対面終了のゴングが聞こえてから、母は、ヨメの手を両手で取り、「お願いしますね。まかせましたよ」と泣き出した。
ヨメもつられて、泣き出した。
なんじゃ、それ?
苦手な展開になったので、私はトイレに立った。
長めに時間をつぶした。5、6分も時間をおけば、私の苦手な空気はなくなっているだろうと思った。しかし、席に戻っても、まだ二人は手を取り合って泣いていた。
なんすか、それ?
店の支払いは、いつの間にか、母が済ませていた。
店の外に出たとき、母が背筋を伸ばし、毅然として言った。
「いいですか、ユミコさんを泣かしたら、私が許しませんからね。私はユミコさんの味方ですから」
ははーー(土下座)。
私がトイレに行っている間に、母がヨメに言った言葉。
「あの子は、子どもの頃から何でも自分で決めて、自分でやってきました。あの子は、放っておけば手間がかかりません。放っておいてください。そうすれば、あなたを不幸にすることはありませんから」
そのツギハギだらけの居酒屋は、今あか抜けたおでん屋さんになっていた。
赤が抜けすぎて、緑と青が可哀想だ。
だから、私は一生入らないだろう。
開店が16時からなので、入ろうとしても入れませんでしたけどね。
ひとりで、私の嫌いな郷愁に浸りながら、なじみすぎた街を歩いた。
中目黒は中目黒。
やはり、ここは私の街だ。
私はここに「いくつもの場面」を残した。
そして、その場面の中には、母もいた。
いま母がいないことに、ヨメも私もまだ、なじんでいない。
おそらく、なじむのは、もっとずっと先のことだ。
(2月以来、ヨメの涙を何度見ただろうか?)