リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

冒険者たち

2019-12-29 05:43:01 | オヤジの日記

年末になると、いつも思う。

今年も私は、何も世の中の役に立たなかった。

私がいなくなって困るのは、きっと我が家のブス猫・セキトリだけだ。

 

年末は、世間では大掃除。

だが、我が家では、大掃除はしない。それぞれの部屋を小掃除、中掃除すればいいということにしていた。

ダイニングキッチンで暮らす私は、ダイニングの床を掃除機をかけたあとでクイックルワイパーで小さな汚れを取った。天井もクイックルワイパーだ。

そのあとキッチンのレンジフードに被せたフィルターを新しいものに替え、ガスレンジとシンクをスチーマーでキレイにした。次に食器乾燥機を分解して細かい汚れを落とした。

ここまで、2時間弱。そのあと仕事場のまわりの細かいホコリを落として、ハンディクリーナーでキレイにした。

最後に、国立に引っ越してから開けずに置いてあった最後のダンボール箱を開けることにした。

大したものではない。パソコンの雑誌とか本、取扱説明書などだ。しかし、大したものではないと言っても必要になるときが来る。だから空いているカラーボックスのスペースに収納しようとしたのだ。

 

整理しているうちに、映画のパンフレットが出てきた。

子どもの頃から映画が好きだった。ガキが見るような怪獣映画ではなく、生意気にも外国映画が好きだった。

観たら、必ずパンフレットを買った。

「ベン・ハー」とか「十戒」とか「風と共に去りぬ」とか「レベッカ」とか。それを小学生のときに観ていた(リアルタイムのロードショーではなかったが)。

そんな映画を見るやつは、同級生には一人もいなかった。でも、それでいいのだ。私は、映画は「ひとりで観る派」だ。ライブも一人で行く。その空間を誰かと共有したいとは思わない。一人で余韻に浸りたいくちだ。

 

その中で、一つのパンフレットを見つけた。

「冒険者たち」

 

当時、あぶらの乗り切った3人のフランス人俳優、アラン・ドロン、リノ・バンチェラ、ジョアンナ・シムカス共演の冒険劇だ(細かいことを言えば、ジョアンナ・シムカスはフランス生まれではないが)。

その映画は、冒険だけではなかった。人生に失敗した男女の身を切るようなせつなさと男の友情が描かれ、3人が、その傷をお互い癒しあう様が、叙情的に描かれていた。

音楽も印象的だった。

小学6年で初めて観たとき、観終わったあとで立ち上がれないほどの感動が襲ってきた。

同級生の誰もが怪獣映画に夢中になっているときに、「冒険者たち」に感動するなんて、あっちこっちから膝カックンをされても仕方ないほどの可愛げのないガキだった。

 

ここで、いきなり話は高校一年に飛ぶ。

同じクラスに、映画好きの女の子がいた。とても美人だった。日韓のハーフだった。「ワタシ、母親が韓国人だから」と最初から公言していた。

当時ハーフといえば、少なからずいじめの対象になった。しかし、不公平なことに、美人であるがゆえにいじめの対象にはならなかった。

世の中は不公平だ、というのを目の当たりにした(そんなことで、いじめる方がクズですけどね)。

山形生まれの美人は、父親の仕事の関係で中学2年で東京に出てきた。そして、東京の私立高校に入った。

そこで、私と出会った。

陸上部とバレーボール部、普通は接点がないはずなのに、映画好きということで接点ができた。

俺、「冒険者たち」が一番のお気に入りなんだよ。

それに対して、彼女ハヤシも、「あー、大好き」と同調した。「冒険者たち」の話題で盛り上がった。意見が合うやつが、初めて現れた。

 

美人というのは、得だ。不公平だ。誰からも注目を浴びた。ハヤシも同級生から上級生にまで注目を浴びていた。今の女優さんでいえば、吉高由里子さんみたいな雰囲気をしていた。

学内の球技大会でハヤシがバレーボールの試合に出るとなると、多くの男が見学に来た。

もちろん、スケベな私も応援しに行きましたけどね。

スケベな私は、体操着姿で躍動するハヤシの姿に興奮したあと、余韻に浸るように校庭にいくつかあった太い木のそばに座っていた。

そのとき、額に汗を浮かべたハヤシがきたのだ。

「応援ありがとう。負けちゃったけど」

これって、俺の嫌いな青春じゃん。

 

その場の勢いにまかせた私は、今度の日曜日、渋谷に遊びに行かないか、と誘ってみた。

玉砕覚悟だったが、ハヤシは「いいよ」と即座に答えた。

学校は渋谷にあったから、渋谷で遊んでも面白くないのだが、勢いだけは止められない。私は浮かれたまま、ハヤシの肩をパンと叩いた。

まぶしいほどの笑顔が、目の前にあった。

 

日曜日、渋谷のパンテオン前で待ち合わせをした。

当時、渋谷の待ち合わせ場所は、ハチ公、東急プラザ前、東急文化会館前(今のヒカリエ)が定番だった。

ハチ公が、8割がた待ち合わせポジションの王座に君臨していたが、私は東急文化会館パンテオン前を選んだ。

初めてのデートの待ち合わせは、パンテオンのでかい映画のイラストの前で、したいと思ったからだ。

そのときのパンテオンは、リバイバルの「風と共に去りぬ」を上映していた。ヴィヴィアン・リーがでっかいぞ。

その日、私がパンテオン前に行くと、ハヤシが母親と思わしい人と並んで待っている姿が目に入った。

なんで、母親同伴?

「私の娘に手を出さないで」

そういうことか。

怖じ気付いた私は、回れ右をして、その場を立ち去った。

ようするに、ドタキャン。

母親が目の前にいたら、ビビりますよ、普通。

 

次の月曜日、ごめんな、腹こわしちまってよ、行けなかったんだ、と言い訳をした。

そのあと、関係がギクシャクしたわけではないが、私はもうハヤシを誘う勇気が出なかった。

その大分あとに、ハヤシはバスケットボール部のキャプテンと交際しているという情報が入ってきた。

しかし、あまりにも「俺様」な態度の彼氏に嫌気がさして1ヶ月で別れたという情報も入ってきた。

 

そして、何ごともなく卒業の季節になった。

生徒会役員だった私とハヤシは、謝恩会のポスターを頼まれた。2人とも絵が得意だったからだ。

私は写実的なものが得意。ハヤシは女子には珍しく生き生きとした躍動感のある絵が得意だった。

私はハヤシに主役の座を譲って、キャッチコピーなどの構成を担当することにした。

ある程度の方向性が決まったとき、私はハヤシに恐る恐る懺悔した。

あのデートのとき、実は現場に行っていたんだ。でも隣にお母さんらしき人が来ていたんで、怖くなって帰ったんだ、ということを伝えた。

ハヤシは、過去を思い出すような顔をして、「ハハ」と笑いながら、窓の外を見た。そして、憂いを含ませた目を私に向けて言った。

「うちのお母さんは、娘の初デートが気になって付いてきちゃったんだよね。お母さん、韓国人でしょ。韓国では、よくあることみたい。でも、挨拶したら、すぐ帰るつもりだったの。ごめんね、驚かせちゃって」

 

それを聞いて脱力したオレ。

 

私は言った。

ということは、俺が冒険者じゃなかったってことか。

ハヤシが言った。

「私も含めて『たち』だね。『冒険者たち』じゃなかったんだよ、私たち。ねえ、マツ」

キレイな瞳が、私の顔を静かにスキャンした。

2人だけの美術室。

ここで、私が冒険者になっていたら、と考えることに今さら意味があるとは思えない。

 

誰だって、自分が選んだシナリオでしか生きられない。

身の丈に合った、自分が主人公のドラマの中でしか生きられない。

古いシナリオは、時々めくるだけでいい。

 

私は、そのあと高校から同じ系列の大学に通い、ハヤシは女子短大に通った。キャンパスは同じだ。

だから、キャンパスですれ違うことは頻繁にあった(ちなみに、ハヤシは卒業後、今で言うキャビンアテンダント、その当時では花形のスチュワーデスになった)。

大学1年の秋、キャンパスですれ違ったとき、ハヤシが言った。

「マツ、名画座で『冒険者たち』またやるんだよ。私は観に行くけど、マツは観ないのか」

もちろん、観るさ。

ひとりで観に行った。

なぜなら私は、映画は「ひとりで観る派」だからだ。

 

いつまでも「冒険者」になれない俺のルーツがここにあった。

 

 

明日、大食いのミーちゃんが嫁ぎ先の金沢から帰ってくる。

30、31と元日に我が家に泊まって、2日に帰る。

楽しみでしょうがない。

コメは15キロ用意した。切り餅は100個買った。

いつでも、いらっしゃーい(もう泣いている)。

 

 

さらに、どうでもいいことだが、先日娘に言われた。

「おまえ、最近髪の毛が黒くなったな。染めたのか」

染めてません染太郎。

年に数回しか鏡を見ない私だが、娘に言われて、久しぶりに見てみた。

見てみると、確かに真っ白だった両耳のまわりに黒い毛が増えていた。娘に言わせると頭頂部も黒くなっているという。

そんなことって、あるんですね(顔も心なしか若返った気がする。木の精。気のせい)。

 

 

ということで、よいお年を。

 

 


三角大福

2019-12-22 05:39:03 | オヤジの日記

新宿で、いかがわしいコンサルタント会社を営むオオクボから「渡したいものがあるから来てくれ」というLINEがあった。

 

偉そうだな、オオクボ、まるで社長みたいじゃないか。

渡したいもの、ラブレターか。もしそうなら、キッパリと言ってやらねばならない。

俺もおまえも妻子ある身だ。火遊びは、やめておこうぜ。

 

20日、12月にしては珍しいほど気温が上がった夏の日の午後2時、オオクボの会社を訪問した。

会社に足を踏み入れたとき、社長の机の横にある応接セットで、オオクボは49歳程度に見える女性と打ち合わせをしていた。

私の姿を認めたオオクボは、左手を中途半端に上げて、「おお、悪いな。窓際のソファで待っててくれ」と私に向かって命令した。

部屋の隅っこに、幅広のソファが置いてあった。言われた通りに座った。

すみっこぐらし。

聞くつもりはなかったが、私の左耳には、2人の会話が空気のように入ってきた。

マナー講座の話だった。オオクボの会社は、企業の社員研修のサポートもしていたのだ。その研修の1つに、マナー講座があった。

オオクボの仕事には全く興味がないのだが、マナー講座の講師は、たしか70歳の品のいい女性だと聞いていた。しかし、今回オオクボの前にいた女性は、がっついた話し方をする忙しない人だった。

マナー講師には見えない。例えるなら、料理研究家の平野レミさんを少しだけおとなしくした感じだ。

よく見るとオオクボの眉間のシワが深かった。苦戦しているようだ。

 

「2時間の講座で、40の項目は、どう考えても詰め込みすぎですよ。半分に削りましょう。これまでは、20程度でした。僕は、20でも多いと思いますけどね」

「いえ、社内外マナーには、重要なものはいくらでもあります。これが、最低限の項目です。削れません!」

鼻息荒いマナー講師を制して、オオクボが私のところにやってきた。そして、右耳にささやいた。

聞こえねえぞ、オオクボ。俺の右耳が役に立たないのを忘れたか。

ただ、私には得技の読唇術があった。オオクボの口は、「悪いな、すぐ終わらせるから」と語っていた(と思う)。

 

それから講師は、LINEでの社内伝達の可否を熱弁した。「たとえ会社の規則でLINEでの報告が認められていたとしても、上司には直接報告か電話報告が基本です」

アホか。社内規則でいいと言っているんだから、LINEでいいでしょうが。それは嘘を教えるための講座なのか8日9日10日。

アホらしくなったので、眠ることにした。時間を有効に使うのもマナーの一つだ(と思う)。

すみっこ寝ぐらし。

 

両肩を叩かれた。

きっと、起こされたのだと思う。

「待たせたな」

寝かせたな。

事務所の掛け時計を見たら、2時52分だった。1時間の打ち合わせの予定が52分超過かよ。それって、マナーとしてどうなの?

「悪いな悪いな、ご馳走するからよ。今年の6月に開店したばかりの近所の料理屋に招待するつもりだったんだ。1日12組だけしか予約を受け付けない店なんだ。一度に2組しか入れないんだ。高級感大ありだろ」

で、いつの予約なんだ。

「2時半だが」

行くのが遅れるって、連絡したのか。1日限定12組って店の場合、プライドが高いぞ。遅れた場合、即キャンセルってこともあるんじゃないか。

オオクボが電話をした。

キャンセルされたそうだ。やっぱりね。

「キャンセル待ちのお客さんは、いくらでもいますから」ってことだろうか。

 

オオクボ、おまえ、マナー講座なんてやっている場合じゃないよな。おまえのポンコツ体質を何とかしないとな。

結局、いつも連れ込まれる海鮮居酒屋に行った。

オオクボは海鮮特盛りとライス、生ビール。私は牡蠣バラエティと生ビールだった。

オオクボが仕事中にアルコールを取るのは珍しい。本当にラブレターを渡す気なのか。アルコールの勢いで渡そうとしているのだろうか。

私は、オオクボが変な気を起こさないように話題を振った。

おまえのとこの研修でやるマナー講座の講師は、品のいいおばあさんじゃなかったっけ。

「ああ、今まではそうだったが、先日その先生が亡くなってな。くも膜下出血だった。だから、弟子に頼んだんだ。先生の一番弟子に頼んだが、断られた。なんでか、わかるか」

国立にイノシシが現れたからだろうな。もしくはイモトアヤコが結婚したからか。いやまさか、メイプル超合金の安藤なつが結婚したからってこともあるか。

「研修先が一部上場じゃないからだよ。教えがいがないから嫌だってよ」

おまえ、俺のボケを消して、そんなに楽しいか。ここは、ボケの応酬をするところだぞ。

「そこでな、一番弟子以外が来たってことだ」

ところで、ネプチューンの名倉潤は、うつ病から復帰したのか。水泳の池江璃花子は、喜ばしいことに退院したらしいが。

「亡くなった先生が言っていたが、一番弟子以外はドングリの背比べだってよ。だから、今回はドングリが来たのさ。まだ2ヶ月あるから、俺がドングリを成長させてやるさ」

なあ、フィギュアスケートのアリーナ・ザギトワの秋田犬マサルが女の子だって知ってたか。

 

「おまえ、この漫才をいつまで続ける気だ」

 

牡蠣を食いながら、知っているか、とさらに私は言った。

牡蠣はオスのカキと書く。昔は牡蠣はオスしかいないと思われていたから、この漢字が当てがわれたのだ。しかし、メスがいなければ普通は繁殖できない。だから、牡蠣は繁殖期だけオスメスに分かれるんだよ。そして、繁殖期が過ぎると中性化するんだ、面白いだろー。

たとえば、おまえが繁殖期だけ性別が変わって、繁殖期が終わったらオカマさんかオナベさんになるってことだよ。

牡蠣って深いよな。ディープだよな。だから、うまいんだよ。おまえは、浅くてウンコだけどな。

「ところでな」とオオクボが私の前に封筒を置いた。

 

不意打ちのラブレターかい!

 

震える手で封筒を開けた。

スーツとワイシャツの仕立券が入っていたナッシー。

確か3年前もスーツ貧乏の私に、オオクボは仕立券をプレゼントしてくれた。そのおかげで、冬物のスーツが増えて、2着になったのだ。

これで夏物を作れるな、と仕立券を見ながら、私はヨダレを垂らしたナッシー。

「おまえにはいいクライアントを紹介してもらってるからな。これでも少ないくらいだ」と頭を下げたオオクボ。

 

おまえ、まさか賞味期限が38年過ぎた・・・。

「イチゴ大福は食ってねえぞ」(オオクボはイチゴ大福が大好物なのだ)。

しかし・・・。

「塩大福も豆大福も食ってねえ」

じゃあ、三角大福はどうだ。

「三角大福? 三角の大福? なんだ?」

ボケたか、おまえ。三角大福を忘れるなんて、おまえ、もう終わったな。

三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人のことだろうが。1970年代から80年代の自民党の醜い派閥争いの象徴だ。

今の派閥政治の根源を作った罪深い魍魎(もうりょう)の集合体だよ。

 

「しかし、なんでいま三角大福なんだ」

バカだな、おまえ。今さら三角大福なんて、大福の話題のときしか出せないだろうが。

だったら、一体いつ出すんだよ。

 

「今でしょ!」

 

オオクボ、ナイスアンサー。

 

 

 

輝く原石

2019-12-15 05:35:01 | オヤジの日記

みんな大好きイナバ君。

 

11月の初めごろから、イナバ君からLINEで「誕生日はMさんの大好きな牡蠣でお祝いしましょう。楽しみだなあ」というお誘いを受けていた。

さらに誕生日一週間前も「牡蠣たべよ牡蠣たべよ牡蠣たべよ牡蠣クケコー」狂ったか。

ただ、残念ながらタイミングが合わなかった。

私の誕生日前後は、イナバ君の奥さんが家にいなかったので、イナバ君が2人の子どもから世話を受けなければいけなかったからだ。

イナバ君の奥さんは、仲間とよくボランティアに出かけた。同い年の奥さん方3人と学生やフリーターの人たちを何人か募って、災害に限らず困っている人がいたら、軽トラック2台を躯って参上するのである。

今回は、本格的な冬が来る前に被災地のお手伝いをしようと千葉県、茨城県を6日間かけて回った。10月に2回も行っているのに。

私には真似ができません。尊敬するしかない。

イナバ君の奥さんは、「莫大」が4乗つくほどの父親の遺産を受け継いで、呆れるほどの恵まれた環境にいるのだ。もっと傲り高ぶって暮らしてもいいのに、質素で献身的なくらしをしていた。趣味は家庭菜園。

 

イナバ君が言う。

「うちの奥さん、ボランチに夢中なんですよ」

ボランチは、サッカー、バレーボールだよね。

私が思うに、奥さんの最大のボランティアは、イナバ君と結婚したことだ。

私なら、こんなスットコドッコイと結婚したくない。

私とイナバ君との出会いは、18年くらい前だろうか。仕事で精密なイラストが必要になった私は、知り合いに、誰か知らんかよとリクエストした。

友人は「才能のあるやつを知っているが、頭のネジがずれているんだよね。ただ、おまえとは合うかもしれんな。ずれたもの同士、仲良くやってみ」と褒めてくれた。

 

初めて会ったとき、午前中だったのに、「こんばんわ」と挨拶された。

中央線阿佐ヶ谷のマクドナルドで、「軽く食べる?」とタメ口で言われた。

ああ、軽くね。

私はマックフライポテトのMとホットコーヒーを頼んだ。イナバ君は、「軽く」と言いながら、テリヤキバーガーとマックフライポテトのL、チキンナゲット、Lサイズのコーラだった。

潔いくらいのズレ加減だった。

その後も、イナバ君はタメ口で話しかけてきた。話してみると、一般常識を知らないこともすぐに判明した。

「今日ってさ、『おおやすよしび』だよね。なのに、バーゲンあまりやっていないよね」

おおやすよしび? 初めて聞く日本語だぞ。漢字で書かせてみた。

大安吉日。

この日は、どこの店でも大々的にバーゲンセールをして、みんなが喜ぶ日だとずっと思っていたのだ。

感心した。こんな読み方と受け止め方をする人が世の中にはいるのだ、という新しい発見があった。

 

これは、貴重な原石ではないのか。

 

興味を持った私は、たまに阿佐ヶ谷のマクドナルドにイナバ君を呼んで、この原石を磨くことにした。

目上の人に対する言葉遣いを少しずつ矯正した。言葉は大事だ。言葉の使い方で、印象は良くも悪くもなる。

たとえ、アホだとしても、愛すべきアホと憎らしいアホでは、メルカリに出されたとき、確実に食いつきが違う。

イナバ君の奥さんになる人に、結婚前に会ったとき、私の考えを述べると、「ああ! 確かに原石ですね。今はデコボコ石ですけど」と言って、手を叩いた。

二人で磨きませんか、と私が言うと「あ、それはお任せします」と拒否された。

それから私は、10年と42日の歳月をかけて、イナバ君の言葉遣いを直した。その結果、IQの低い高校生並みの言葉遣いが、日本に永住して2年11ヶ月経ったドイツ人並みの日本語にはなった。

ただ、常識を知らない部分に関しては、矯正しないようにした。そこを直すとイナバ君の良さが失われると思ったからだ。

 

アホで愛すべき原石。

 

「食べましたねー」渋谷の牡蠣バーで、イナバ君が満足そうな笑みを見せた。

確かに食った飲んだ。イナバ君に支払ってもらったが、二人分で2万円弱だった。

ランチで2万円は、後ろからハリセンで叩かれても仕方ないレベルの贅沢だ。痛いぞ、あれは。

渋谷の雑踏を歩きながら、後ろからの攻撃に備えつつ、イナバ君に聞いた。

そう言えば、キミ、メルセデスで来てたよね。さっき、ワイン飲んでなかった? それは、いかんのじゃないか。飲んだら乗るな、乗ったら波乗りジョニーでしょうが。

「あー、それは大丈夫です。うちの奥さんが今、渋谷で『ボランチの進歩人』に出ていまして、それが2時半に終わるんですよ。だから、帰りの運転は奥さんがします。ご心配なく」

進歩人、シンポジウムだよね。ボランティアのシンポジウム。

 

奥さんと駐車場でオチあった? 落ち合った。

奥さんは、薄いピンクのスーツを着て、凛々しく挨拶をした。

「ビリー君のおもり、ご苦労様でした」

イナバ君が嬉しそうに言う。「うちの奥さんって、松嶋菜々子に似てないですか?」

イナバ君、返事に困るようなことを言うなよ。「まつし」くらいまでは似ていると思うけど。

奥さんの運転で、国立へ。

車中で、イナバ君の奥さんが将来計画している、老人ホームの話になった。

ボランティア仲間と介護の行き届いた小ぶりの老人ホームを作ろうという計画を立てているのだ。

土地はもう確保していた。資金は、ほとんど奥さんが出す。その準備のために、いろいろな人の知恵をお借りしている最中だ。

法律的、実務的なことをクリアして、5年後を目処に実行に移したいという計画だ。

その志が、すごいね。使命感が、すごいね。私だったら、あんなに金持ってたら、一生寝て暮らすけどね。

 

そのとき、アホのイナバが言った。

「Mさん、その老人ホームができたら、一緒に入りましょうよ。楽しいぞー」

あのね、イナバ君。前も言ったと思うけど、俺とキミは14歳離れているんだよね。たとえば、俺が70歳でホームに入ったとしても、キミはまだ56だよ。老人ではないよね。

「何を言っているんですか、Mさん。老人ホームに入ったら、もう老人ですよ!」

 

「キャハハハハーン」奥さんの笑い声が、車内にこだました。

 

原石は、完全に輝いたね。

 

 

 


感謝感謝と大黒柱

2019-12-08 05:40:00 | オヤジの日記

一説によると、犬も猫も感謝の心を持っていると言う。

しかし、感謝の心の総量が多いのは、やはり人間だろう。

 

感謝。

犬猫以下の私にも感謝の心は、人並み以下にある。

世田谷の伯父が、まず最大の感謝の対象だ。

祖母、父母は、昭和27年に島根県出雲から東京にやってきた。そのとき、我が一家は、すでに成功して世田谷区下馬に150坪の家を持つ伯父の家に居候したのだ。

150坪の土地に、6DKの平家と12畳ほどの離れを建てて暮らしていた伯父家族。その離れに我が一家は移り住んだ。離れには台所がなかったので、伯父はわざわざ台所を作ってくれた。風呂は母屋の風呂を借りたという。

そこに、祖母、父母は3年余り暮らした。ただ、父は途中から家を出て、新橋のアパートに移り住んだが。一流会社に勤めながら、稼ぎを全く家に入れなかった男。一家が東京に出てきたのは、「俺は東京で小説家になる。小説家は人の道を外れてもいいんだ」という、この男の身勝手な考え方からだった。

「申し訳ないです」この男の兄である伯父は、祖母と母に、いつも謝っていたという。

 

東京に来て3年が経ったころ、母のお腹の中に命が宿った。

居候のままではいけないと思った祖母は、島根県で師範学校の教師をしていたときの教え子が、東京で土建屋さんをしているのを思い出して、彼に頭を下げた。

「東京に良い物件を知りませんか」

教え子はすぐに中目黒の一軒家を探し出してくれた。いま中目黒は一坪百万円以上する高級住宅地だが、その当時は祖母の貯金で買える程度の田舎だった。

母は、その新しい家で子どもを産んだ。私の姉だ。そのとき、助産婦さんを紹介してくれたのが下馬の伯父だった。その後も伯父は、祖母と母の面倒をよく見てくれた。

「弟のこと、申し訳ないです」と言いながら。

 

その後に私が生まれると、伯父はさらに頻繁に中目黒の家に来て、何かと気遣ってくれた。正月前などは、アメ横で新巻鮭や筋子、餅、蟹などを買って、我が家に直接届けてくれた。

お年玉もくれた。

他に、私一人、遊園地や動物園、潮干狩り、東京タワーなどにも連れて行ってくれた。幼かったから、あまり覚えていないが。

ただ、伯父が懸命に父親の代わりをしてくれているということは、幼心にもわかった。

小学校に上がる前、私は教育者だった祖母から言われた。

「あなたはバカだから、先生の言うことをよく聞いて学びなさい。聞いていれば、あなたは絶対にわかるようになります」

バカだった私は、授業を真面目に聞いて、わかるようになった。

伯父が言った。

「サトル、キミが家族を守るんだ。ボクが見る限り、キミはそれができる子だ。キミのお祖母さんが言っていたぞ。『あの子は、とても自立心が強い子だ。あの子の将来は明るいですよ』ってな。キミが家族を支えてくれ」

何を言っているか、さーーーぱりわからなかったが、私は賢いふりをして頷いた。

それから先も、伯父は私を可愛がってくれた。

普通は、運動会や学芸会、参観日などは親が来るものだが、役立たずの男のせいで、月曜から土曜までフルタイムで働いていた病弱な母は、日曜日には疲れ切って学校行事に来る体力までは残っていなかった。一日中眠っていた。

祖母は、土日はボランティアで孤児院で勉強を教えていたので、来られなかった。

毎回ではないが、運動会と参観日には、伯父と伯母が当時としては珍しい外車フォードで来て応援してくれた。しかも運転手付き。

どんだけ儲かっていたんだい。

 

そんな伯父だったが、私が小学6年のとき、突然脳溢血で死んだ。

人間って、こんなに簡単に死ぬんだ。

先週まで、とても元気で、「サトル、今度後楽園に野球を見に行こうな」と言っていたのに。

伯父さん、俺、ジャイアンツ嫌いなんだよね。

「ああ、それじゃあ、神宮球場だな」

そんな会話を交わしたばかりだったのに。

 

父親代わり、というより私は本当に父親だと思っていた。

「なあ、サトル、父親を恨むなよ。あいつは、きっと病気なんだ。仕事はできて他のことにも才能はあるが、家庭を持っちゃいけないやつだったんだよ。キミにはわからないかもしれないが、世の中には、いるんだよ。そういうやつが」

「発達障害」という症状が、明らかではない時代だった。

「だから、ボクがあいつの代わりになる。不服かもしれないが、我慢してくれ」

 

不服なんかない。

私は、伯父から、たくさんの父性を貰った。

伯父が「私の父」である時間は短かったが、父親の愛情は、私の毛細血管の隅々にまで行き届いていた。

そして、伯父の安らかな寝顔は、今も私の網膜に焼き付いていた。

 

伯父に感謝。

本当に感謝しかない。

 

伯父が死んで今年50年になる。

12月4日。世田谷区下馬のでっかい家で法要があった。

法要が終わると、伯母が私を伯父の生前の仕事場だった部屋に招き入れた。

漫画家だった伯父の仕事場は、当時のままだった。

むかし、伯父が言った。

「ここは、家族にもなるべく見せないようにしているんだ。ボクにとって、ここは戦場だからね。戦場を家族に見せる武将はいないよね。でも、キミには一度だけ見せてあげる。男の戦場をね」

それは、とても綺麗に整頓された戦場だった。幼いなりに、「男の覚悟」が籠った場所だと感じた。身が引き締まった。

さらに、伯父が言う。

「ボクは、どんなに具合が悪くても、家族の前では顔に出さないんだよ。態度にも出さない。だって、ボクは大黒柱だから、家族を心配させてはいけないんだ」

大黒柱という概念は、令和の時代には、もうないのかもしれない。時代は、移り変わる。そんなアナクロニズムな言葉は、消えたっていい。

 

だが、私の脳細胞には、その言葉が強く残っていた。

私もいま何があっても家族にも他人にも弱みを見せない生き方をしていた。

それはきっと伯父の生き様を真似たからだ。

 

大黒柱。

 

大黒柱であるがゆえに、具合が悪いことを隠して伯父は若くして死んだ。

簡単に死んだ。

 

伯父さん、いや、親父さん、あなたは本当に格好のいい人でした。

でも、私は、あなたのように格好よく死ねません。

家族の姿をもっと見ていたいです。守りたいです。

まだ俺は死ねない。

 

 

あなたへの感謝は永遠ですけど、私は、あなたのようには死ねない。

 

 

 

感謝、といえば、このブログを読んでくださる方にも、私は感謝の思いを持っている。

こんなダラダラと長いだけの「役立たずのブログ」を読んでくださる方が、少なからずいる。それは、私に勇気を与えてくれる。

さらに、もっと頻繁に更新して、というリクエストをくださる方もいる。

ありがたいことだ。

ただ、世の中には、フリーランスは時間が自由だよね、という誤った観念を持った人が多い。でも、皆さんは「お客様は我が儘である」という当然の摂理を知らない。

その我が儘なお客様を一人でマネージメントするには、おのれの時間を犠牲にしなければいけないのだ。さらに、私はバカなフリーランスなので、時間の使い方を知らない。そのため「役立たずのブログ」を増やすことができない。

日曜日の朝、4時半から5時半が、私のブログタイムだ。ここしか時間がとれない。

意外にも反響が多いことに感謝をしつつ、これからも頑固に週1回のブログライフを続けていきたいと思う。

 

 

感謝です。

 

  


ドラマチックな日

2019-12-01 06:08:04 | オヤジの日記

先週の日曜日の朝6時ごろ、友人の極道コピーライター・ススキダからLINEが来た。

 

「いま入院している。風邪をこじらせて肺炎手前になった」

先週の木曜日に高熱が出て、医者に行かずに我慢していたが、土曜日の夜に咳が止まらなくなって、タクシーに乗って救急病院に行ったという。

すぐ検査を受けて、「入院ですね」と言われた。医師から、このままでは肺炎になる。家には帰しませんよ、と強い口調で言われたのだ。

顔が怖いくせに、メンタルが弱いススキダは震えながら「は、は、はい」と答えた。

それで、入院。

タイミングが悪いことに、ススキダの奥さんは、先週の水曜から一週間の予定でシンガポールに行っていた。

ススキダの奥さんは、15歳まで香港で育った。ご両親は中国人だ。つまり、奥さんも中国人。

そして、ススキダの奥さんのご両親は、2年前にシンガポールに移住した。昨今の香港の情勢を予見していたのかもしれない。

ススキダの奥さんは、ご両親がシンガポールに移住してから、一度も会っていなかったので、今回会いに行った。

だから、奥さんはいない。頼ることができない。

ちなみに、奥さんは元ナースだ。奥さんがそばにいたら、風邪をこじらせることはなかったかもしれない。運の悪いこじらせ極道。

さらに、ススキダの奥さんの15歳からの人生は、波瀾万丈で連続テレビ小説が書けるほどだが、ここでは割愛(主演は吉岡里帆さんか)。

ススキダには、一人娘がいた。しかし、カナダ人と結婚してカナダのバンクーバーにいた。頼れない。

他に、ススキダには、横浜近辺にコピーライターの知り合いが2人いた。

しかし、つくづくススキダは、持っていない男だ。その2人は、取材で長崎、広島に行っていた。すぐに帰ることができない。頼る人がいない。

友だちの少ないススキダが頼れるのは、「アイツ」しかいない。つまり、「仏のマツ」と呼ばれる私だ。

 

「悪いが、パジャマと下着を買って、病院に来てくれないか。まさか入院とは思わなかったので、財布とスマホ以外持ってこなかったんだ」

断る! と言いたかったが、仏はそんなことはしない。

行ってやることに、やぶさかでない、と答えた。

しかし、パジャマと下着かよ、まるで愛人みたいだな。

入院先は、川崎市元住吉だという。病院の名を聞いたら、むかし母がカテーテル手術を受けた病院だった。それなら、土地勘はある。

元住吉の商店街が10時に開くことを考えて、逆算して準備することにした。

中央線で国立から吉祥寺までは20分、井の頭線で吉祥寺から渋谷までは急行で20分弱、東急東横線で渋谷から元住吉は25分前後。乗り換えと歩きの時間を入れて、1時間半と見た。

ススキダは、「タクシーで来い! 金は払う」と言ったが、仏の辞書にタクシーなんてねえんだよ、ベッドで死んでろ。

 

家族の朝メシを速攻で作った。

食パンで作る肉まん。鶏団子とチンゲンサイ、春雨の中華スープを付けた。肉まんは食う前に30秒チンをする。温かくて美味いですよ。

8時半に家を出た。外は雨。面倒くさいな。タイミングの悪い野郎だ。顔と性格をこじらせた上に風邪までこじらせるなんて、忙しいやつだ。

奇跡的に、どの路線でも吸われた座れた。それぞれ短い時間の睡眠を取った。睡眠は大事だ。スイミングも大事だが。

元住吉の洋品店で、吐き気を覚えながら、男もののパジャマ2着とシャツ、パンツ3枚ずつを買った。ススキダの体のサイズを想像したときは、気持ち悪すぎて、体が硬直して呼吸困難に陥った。

仏は、汚いものが苦手なのだ。

 

途中、コンビニエンスストアで、ススキダ好物のみたらし団子を買った。

ススキダは笑えることに、みたらし団子命の男なのだ。好きすぎて、横浜で「みたらし団子専門店」を出すほどだ。

2坪くらいの小さな店だ。流行っているかは、興味がないので知らない。

肺炎寸前の男が、みたらし団子を食えるかは疑問だが、お供えとしては最適だろう。

私はクリアアサヒの500缶を2本とワサビ味のポテトチップを買った。

ススキダに飲んでいるところを見せびらかそうと思ったからだ。

病室でビールを飲んではいかぬ、というルールはない(と思う)。

私は、息子と娘が生まれたとき、病室で生まれたばかりの子どもの顔を見ながらビールを飲み弁当を食った前科がある。目から水を流しながら、飲み食った。

看護師さんは、そんな私を見ても白い目にはならなかった。

だから、極道の前で飲んでもノープロブレム。

 

病室に入ったら、ススキダはもう死んでいた。

とりあえず、生き返るまで荷物を置いて院内をぶらつくことにした。

母が手術をしたのは、もう10年前なので、院内の様子は変わっていた。

だが、病院というのは、基本的に同じ作りになっている。待合室があって、診察室、病室、そこそこ洒落たレストラン、コンビニエンスストア、ナースステーション、患者さんと医師、看護師さんがいて、大抵は各階に憩いの場がある。

その憩いの場で、私は腰を落ち着けた。ただ、腰を落ち着けても私にはすることがない。私には外でスマートフォンやタブレット、ノートパソコンを使う習慣がない。スマートフォンとタブレットは持ってきたが、それで何をするっていうの?

だって、アプリがほとんど入ってないんだもの。人間だもの。Google、乗換ナビ、LINEしか入っていないのに、どう時間をつぶせばいいのか。

柴咲コウ様とガッキー、我が娘、ブス猫の画像は、たくさん入っていたが、病院で画像を見てニヤけるのは犯罪だろう。

この日は、急いでいたので文庫本も持ってこなかった。ヒマですよ。

眠るしか選択肢がない。眠っちまおう。そう思って、目をつぶったとき、けつに入れたアイフォンが震えた。ディスプレイを見たら、ススキダだった。

「本当に来てくれたんだな。ありがとう。いま目が覚めた」

 

おまえが、人に感謝の言葉を言うのか。腐った団子を食い過ぎたんじゃないか。

あれ? 電話が切れたぞ。図星だったのか。

病室に行くと相変わらず点滴を汚い腕に突き刺されたススキダが、ベッドの背を起こして私の方を見た。

偉そうだな、おまえ、その顔で個室かよ。

「いや、個室しか空いていなかったんだ。他の部屋が空いていたら、すぐそっちに移る」

移るな、その顔が入ってきたら、入院患者さんの容体が悪化する。ずっと個室にいろ。そして、死ね。

そんなことを言ったら、普段の心の狭いススキダだったら怒ったはずだが、今回は怒らなかった。

おまえ、賞味期限が38年過ぎた、みたらし団子を食ったのか?

そんな私のお茶目な励ましを無視して、ススキダが頭を下げた。

「悪かったな。忙しいなか来てくれて、おまえの顔を見て安心したよ。本当に安心した。もう俺は大丈夫だ。仕事に戻ってくれ。この借りは、すぐに返す」

「本当に、ありがとう」

また、頭を下げられた。

 

なんか、違和感。

 

帰り道、ススキダにお供えする、みたらし団子を置いて来るのを忘れたことに気づいた。

病室で飲もうと思ったクリアアサヒもそのままだ。

脱力した。

こんなはずじゃなかったのに。

物足りない。全然ドラマチックじゃなかった。

つまんねえぞ、ススキダ。

 

 

だが、家に帰ると、ドラマチックなことが待っていた。

誕生日の1日前だったが、家族が誕生日を祝ってくれたのだ。

みんなが私の好きな牡蠣の料理で祝ってくれた。

そして、プレゼントは、なんと新しいMacBook Airだった。

 

娘曰く「もう10年くらい使っていただろ、新しくした方がいいと思って」。

息子曰く「我慢して使っているような気がしたんだよね。新しい方が能率が上がるよね」。

ブス猫曰く「オワンオワンオワンオワンダニャー」。

私はメインとして、デスクトップのMacを使っていた。それは、そこそこ新しい。ノートパソコンは、おまけだと思って古いものを使っていたのだが、それを子どもたちは「我慢している」と思ったようなのだ。

なんて、いい子たちなんだろう。

いや・・・・・待てよ。それには、テキトーなことをしていないで、もっと働けよ、という隠れた意味があったのかもしれない。

 

だが、いずれにしても嬉しい。

 

 

風呂場で泣いた。

オワンオワン。