五反田の小料理屋。
カウンターには、長年の友人の尾崎の妻・惠実がいた。
恵実の友人の店だが、友人が海外旅行に行っている間だけ、惠実が店を任されているのだ。
和服を着た恵実は、年季の入った女将にしか見えなかった。
決して美人ではないが、どんな洋服や和服でも着こなすセンスは持っていた。
着物姿の恵実を見て、大旅館の女将と言っても、誰も違和感は持たないだろう。
カウンターには、40歳くらいの板前さんがいた。
まずは、アンコウの煮こごりを出された。
いきなり高級料理じゃないですか。
食ったことねえぞ。
食い慣れないものだから、美味いとも思わなかった。
生ビールを飲んで、ただ胃に流し込んだ。
味には感心したが、2度目を食いたいとは思わなかった。
人生で1回だけでいい、と思った。
俺って、貧しいのかな。
次は、アンコウの唐揚げだった。
美味かった。
でも、これも1回だけでいいかな。
あん肝も出された。
これも、1回だけでいいかな。
だが、一応、美味いなあ、これ! と感激したふりだけはしておいた。
ご馳走になっているのだから、それくらいの演技は必要だろう。
生ビール2杯目。
今度は、アンコウ鍋を出された。
「コラーゲンたっぷりですから」と板前さんが言った。
白髪のガイコツに、コラーゲンは必要なのか。
いまさら肌だけプルプルになって、何の意味があるのだ。
まあ、美味かったけど。
3杯目の生ビールを頼んだとき、尾崎が子ども3人を連れて入ってきた。
そして、いきなり、子どもたちが手に持ったクラッカーを放射しやがった。
「サトルー、誕生日おめでとう!」
ああ、どうもありがとうございます。
そのあと、尾崎が手に持った包みを私に渡した。
「FENDER」のベースだった。
大学時代、陸上部に所属していた私は、大学3年の後期、膝と腰を痛めて、陸上部をやめた。
そのとき、中学から走ることを生き甲斐にしていた私は、突然生き甲斐がなくなったことに戸惑った。
戸惑った結果、ジャズ研究会という怪しい同好会に顔を出した。
そして、ベースを弾き始めたのである。
なぜベースだったのか、というと当時住んでいた東京中目黒のゴミ捨て場に、ウッドベースが捨てられていたのを拾ったことがあったからだ。
かなり傷んではいたが、応急処置を施せば、音は出た。
そのツギハギだらけのウッドベースをジャズ研究会に持ち込んで、ど素人の私が、上級者の人たちとセッションをした。
「筋がいいね」と褒められたが、それがお世辞だということを痛いほど知っている21歳の私は、苦笑いで左頬を歪めるだけだった。
ベースは、それからも続けていた。
尾崎はトランペットとサックスが吹ける。
いつか、セッションをしたいな、と言いながら一度もセッションをしたことはない。
今回、尾崎はYAMAHAのトランペットを持ってきていた。
そして、ROLANDのミニアンプだ。
ベースをアンプに繋げて、二人でセッションをした。
「On green dolphin street」
私のベースはお遊びほどのキャリアだが、尾崎は23歳の頃からずっとペットを吹いていた。
だから、まったく腕が違う。
しかし、つたない私に尾崎は合わせてくれた。
一応、形にはなった。
演奏が終わって、尾崎の子どもたちは、どこで覚えたのか「ブラボー!」と拍手をしてくれた。
恵実も拍手をしてくれた。
板前さんも。
今まで感じたことのない高揚感があった。
立ち上がって、ありがとう、と頭を下げた。
俺なんか、誕生日を祝ってもらう価値などない男なのに、こんなにも華やかに祝ってもらった。
それが、嬉しかった、
家に帰ったら、私の子どもたちがお手製のケーキを作って祝ってくれた。
寒がりの私のために、ヒートテックの手袋とネックウォーマーもプレゼントしてくれた。
俺は幸せだなあ、とそのとき強く思った。
幸せな誕生日だった。