リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

カッコつけて クリアアサヒもう一本

2018-05-27 06:38:00 | オヤジの日記

ビールが冷えていなくても飲める、と私が言うと「ビールは冷えてないとダメ」と全否定する人がいる。

 

私は、ビールではない第3のビールであるクリアアサヒを主に飲んでいた。

私は、クリアアサヒがキンキンに冷えてなくても大丈夫だ。

しかし、友人からは必ず「いや、夏はキンキンに冷えてないとマズい、無理!」と言われる。

そう言われて、なんで? といつも思う。

コマーシャルの影響を受けているからだろうか。タレントさんが、いかにも美味しそうに冷えたビールを飲む映像。たしかに、いい画では、ありますけどね。

でも、ぬるいビールも言うほどマズくはない、と私は思いますよ。

 

大学時代の友人、オノの家を訪問したら、クリアアサヒを出された。

オノに関しては、コチラに書いたことがあった。

そして、オノに「あんまり冷えてなくてごめんな」と謝られた。

なぜ、謝る?

「俺の体には、冷たいものと塩分が毒だから、食べ物や飲みものをあまり冷やさないようにしてるんだ」

オノの病名が何なのか私は知らない。興味がない。

だが、やっていけないことは、やらないほうがいい。

 

オノが結婚してから、すべてがポジティブな方向に向かっているのはわかっていた。

つい最近まで、ビールを飲むことができなかったオノが、350缶のビール半分を飲むことができるようになったのだ。

もちろん、残りの半分は、オノの新妻が飲む。

晩ご飯のとき、半分ずつ飲み合うのが最大の喜びだったという(しかも、コップにつがないで缶のままだ)。

 

ノロけやがったな、この野郎。

 

いま、オノは、週3~4日、1日5時間、総菜屋さんで働いていた。

ほかに、ボランティアで、病院や公民館で、子どもたちに読み聞かせをしていた。

結婚するまで、オノは、総菜屋さんで残ったものを持ち帰って毎食の食事にしていた。

しかし、総菜屋さんの食事は、日持ちをさせるために、塩分を少し濃くする場合が多いと聞く。

それは、オノの体に、ダメージを与えていたと思う。いくら、食事代を浮かせるためとはいっても、それは寿命を縮める行為だ。

 

奥様は、福祉関係のケアマネージャーをしている人だ。奥様は、それが、オノにとって、いいことでないことが、すぐにわかった。

同棲するようになってから、塩分を抑えた料理を作り、体の冷えない料理を作って、オノの体調を管理した。

 

だから、オノの体はビールが飲めるまでに急激に回復した。

(今は、ノンアルコール・ビールを飲んでいるらしい。なぜだろう?)

 

ぬるくても、ビールはビールだ。

なんで、ビールがぬるいくらいで、文句を言わなければいけない?

私が、そう言うと、オノが笑いながら「俺は大学時代、マツのそんなところが嫌いだったんだよな」と言った。

そうなのだ。大学時代同じクラスだったとはいえ、私たちはお互いを嫌い合っていた。

オノは、まったく運動神経がない男で、中学のときから体育会系の部に入ったことはなかった。それなのに、大学に来るとき、オノは必ずテニスラケットを持ってきていたのだ。

ただ、恰好をつけているだけではないか。使わないラケットを持って来るなんて、アホとしか思えなかった。

 

それに対して、オノが言う。

「20歳前後の若造が、やたら落ち着き払って、静かにみんなの間に紛れ込んでいるのを見て、『なにカッコつけてるんだ』と思ったよ。そんなマツが俺は本当に嫌いだった」

だが、オノが50歳過ぎに大病にかかったとき、なぜか「マツに会いたい」と言ってきたのだ。

断る理由がないので、オノに会いにいった。それから、なぜか親しくなった。

 

さらに、オノが言う。

「でも、今はわかるんだ」「こいつは、落ち着いているわけではなくて、ただ、すべてが面倒くさかっただけなんだ」「大声を出したり怒ったり、友だちと同じテンションで騒ぎ合うのが、面倒くさかっただけなんだ」「要するに、こいつは欠陥人間だったんだな」

 

正解です。

 

同じようなテンションで触れ合ったとしても、それで本当の仲間になれるわけではない、と欠陥人間である私は思った。

そんなものは、一時的なものだ。そんなことで仲間意識を共有できるとは私は思わない。刹那的な意識を仲間とは言わない。

お互いの存在が、心に沁み込んだときが「仲間」だ。当時も今も私はそう思っていた。

むかし、そんなことを違うブログに書いたら、「カッコをつけたただの馬鹿だな」「自分に酔ってるんだろ」などという有り難いコメントをいただいた。

はい、カッコつけてます。酔ってます。ゴメンナサイ、とコメント返しをしたら、「馬鹿にしてるのか」と怒られた。

馬鹿にしていないんですけど・・・・・。

 

だって、カッコつけているのは素直に認めているわけですから。

 

オノの奥様の作ったホウレンソウの酢みそ和えとサーモンのマリネ、黒酢を使ったゴーヤたっぷりのモヤシチャンプルーを食いながら、クリアアサヒを飲んだ。

二人はノンアルコール・ビールだ。

ただ食い、ただ飲みしながら、私は催促をした。

もういい加減、本題に入った方がいいのではないだろうか。

「本題?」

 

できたんだろ。

 

「なぜ、わかった」とオノ。

8か月ぶりに、オノが奥様の携帯電話で連絡してきた(オノは携帯電話を持っていない)。

こんなときは、金を貸せか、おめでたに決まっている。だが、オノが私に金を貸せ、というのは絶対にない。

すると、残るのは・・・・・。

 

オノの奥様の年齢は知らない。37~44歳と勝手に推測していた。だから、産めるではないか、と思った野田英樹(変換ミスだ)。

奥様の顔を三田寛子(変換ミス)。

私の視線を受けて、奥様は、こちらが聞いてもいないのに、「40で初産ですよ。いま5か月です」と顔を赤くしながら一反木綿(変換ミス)。

俺の推測、当たってたジャン・クロード・ヴァンダム(変換ミス・しつこい?)。

40歳で初産なんて、いまや当たり前田敦子(我慢してくだ斉藤由貴。怒って灰皿を投げないでくだ西城秀樹・合掌)。

 

 

オノ、俺にもう一本、クリアアサヒをくれないか。

 

「ぬるいけど、いいのか」

 

 

いや、お前たちの熱さと比べたら、キンキンだよ(カッコつけた)。

 


天国から地獄?

2018-05-20 05:16:00 | オヤジの日記

先週の土曜日のことだった。

「初任給をもらったら、買おうと思っていたんだ」と言いながら、娘が紙袋を私に向かって放り投げた。

 

中を開けると、ベルトが2つ入っていた。ウェニダと書いてあって、色は黒と茶。黒は穴のあるもの。茶は、穴のないオートロック式のものだ。

私は生意気にもベルトを1本持っていた。10数年前、大宮の紳士服店の閉店セールで500円で買ったやつだ。そのベルトの表面が毛羽立っていたのを、私は見て見ぬ振りをして長い年月生きてきた。

まーだ、使えるもんね。

そうやって、自分をごまかしてきた。罪深い男だ、私は。

しかし、今回、娘が教えてくれたのだ。現実を見ろ、と。

現実を見た結果、私は、ありがトーフ、と言って泣きながら2つのベルトを受け取った。

新品のベルトは、やっぱりいいなあ。

私は、このベルトに「夏帆1号」「夏帆2号」と名前をつけた。

 

娘は、母親には化粧品を。兄には靴下をプレゼントした。

そして、「まだ、晩ご飯の支度はしてないよな」と聞いた。

まーだだよ。

「よし、近くのイタリアンレストランでディナーをするぞ。7時半に予約をしておいた。ボクの奢りだ」

何といういい娘だろう.きっと親御さんの育て方がよかったに違いない。

 

そう言えば、5年前の息子の初任給のときも、息子に奢ってもらった記憶があった。

このときは、横浜まで出かけたのだ。

なぜ、わざわざ横浜まで行ったかというと、超人的に記憶力のいい息子が、我々夫婦の初デートの話を覚えていたからである。

34年前。サトル君とユミコさんは、横浜の「港の見える丘公園」に行ったという。そして、そのあと、元町のフレンチレストランで食事をした。さらに、山下公園を手をつないで歩き、馬車道のカフェでコーヒーを飲んだとさ(まったく芸のないデートコース)。

 

それを思い出した息子が、そのときと同じルートをたどりたい、と希望したのだ。

さらに、「お金は全部俺が出すから」と、慈悲深いことを言った。

息子と娘は、山下公園と馬車道には行ったことがあった。だが、港の見える丘公園と元町は行ったことがなかった。

「行きたいな」「楽しみだな」と、はしゃいだ。

私の場合は、3年前まで、横浜元町にクライアントがいたので、年に5、6回は行っていた。だから、目を瞑っていても歩ける・・・わけではないが、目を開けていたら、普通に歩けた。

 

港の見える丘公園から元町へ。しかし、残念なことに、あのフレンチレストランは、もう地球上に存在していなかった。仕方ないので、中華街に足を向けて、そこで本格中華をご馳走になった。

ついでに、関帝廟で、関羽雲長さんにご挨拶をした。

山下公園では娘と手をつないで歩いた。馬車道では娘とスキップをした。初デートをたどるこの旅は、思いのほか楽しかった。

そのときも私は、息子に、ありがトーフ、と泣きながら頭を下げた。

 

今回のイタリアンレストランは、マンションから3分程度歩いたところにあった。メインストリートではなく、住宅街の一角に、その店はあった。

いかにもイタリアンな店だった。だって、店の前に大きなイタリア国旗が飾ってあったから。

ディナーは、コース料理が2つだけ。みな同じものを頼んだ。

サバのアクアパッツァ、ほうれん草とベーコンの濃厚トマトソースパスタ、春野菜と蒸した鶏のジェノベーゼソース、白桃のジェラート。

美味かったかって?

これが、3000円なら、私は膝を叩いて、美味い! と言っただろう。しかし、5000円では膝は叩けない。せいぜいトイレのドアを叩くくらいだ。

ご馳走になっていて、言うことではないだろうが。

 

しかし、娘には、ありがトーフ、と深く頭を下げた。

この上なく、嬉しい一日だった。

ただ、嬉しくないことも、心の片隅に、深海に生息するダイオウイカのような大きさで存在していた。

 

初任給の日から遡ること4日、同業者と飲んでいるときに、娘からLINEが突然来たのだ。

「気になる人ができた。好きになる確率99パーセントぉ!」

「さっきまで、その人を入れて、4人で飲んでた」

 

意気消沈。

 

これは地獄か・・・と思ったが、娘の幸せを願わない父親は、父親ではない。

だから、もし、付き合うことになったら、絶対に紹介するんだぞ、と涙ぐみながら土下座した。

 

「わかったなりー」と娘。

そして、娘は、フライング気味に、こんなことも言ったのだ。

「初デートは、港の見える丘公園、元町、山下公園、馬車道がいいな」

 

 それを聞いて、父ちゃんは、こっそりとあとを付けてやろうかと思ったぞ。

 

トホホホホホホ・・・・・




お子ちゃま太郎

2018-05-13 05:51:00 | オヤジの日記

大人コドモ大臣が、「セクハラ罪という罪はない」と口をキレイな角度で歪めた。

 

確かにない。その点では正しい。

しかし、セクハラは訴えられたら「罪」になる場合がある。他にも「侮辱罪」「名誉毀損罪」などの犯罪構成要件にはなる。

政治家として、勉強不足だ。

これは、たとえば、小学生のガキが女子のスカートをめくったあとで「スカートめくり罪なんて、ないもんね!」(大人だったら強制わいせつ罪の構成要件にはなる)と、虚勢を張って言っているのと同じである

 

お子ちゃま太郎。

 

 他に、昨年あたりかららしいが、電車の女性専用車両に、意図的に乗り込む男の集団が増えてきているという。

男は、満員電車で苦労しているのに、女は専用車両で守られている。男女差別ではないか、というのが言い分のようだが、論点が大きくズレている。

そもそも女性専用車両を作ったのは、朝の通勤ラッシュで、異常に痴漢が多かったための措置である。

痴漢は、犯罪だ。その犯罪抑止のために専用車両を作ったことを彼ら男たちは完全に忘れている。

何でも自分に都合のいいように解釈して、男が長年に渡ってしてきた「卑劣な行為」を忘れる愚か者たち。

そんな人たちは、たとえば、自分の妻や娘が痴漢にあっても平然としていられる「無神経で無自覚な人たち」なのだろう。

想像力がなく、自分の権利しか主張しない人。

 

つまり、お子ちゃま太郎。

 

 新宿御苑近くの得意先に、最近途中入社で、大変個性的な男性が姿を現した。

その会社は、マーケティングと企画編集をする会社だった。

私が仕事をいただく部署は、編集部だ。

昨年の11月に初めて会ったとき、いきなり「あんた、年はいくつ?」と聞かれた。その時点で、無礼である。

名刺交換するときは、はじめまして、よろしくお願いします、と頭を下げ合うのが普通だと思う。

私が年を言うと、「ああ、僕より年上ね。僕、43歳。まあ、仕事に、年は関係ないからね」と、口を歪めて言った。

仕事に年が関係ないなら、なぜ年を聞いた? 自分の言葉の矛盾に気がついていないようだ。

男の苗字は、クレバヤシ。

「さん」を付ける価値もないので、ここでは、敬称略。

 

クレバヤシは、極めて個性的な考えを持っていた。

「僕は、生まれたときから自民党しか認めていないんだよね」

つまり、自民党の盲信者だ。

「自民党は、いい政党なんだけど、女の議員はいらないね。自民党が男ばかりだったら、僕はもっと応援するよ」

「共産党の女議員なんか、●●しちまえばいいのに」(あまりにも過激な表現なので書けない)

「とにかく、社会を引っ張るのは、男。女は陰で静かにしていればいいんだよ」

クレバヤシは、そんなことを言っていた。しかし、編集部には7人の社員がいたが、笑えることに、クレバヤシ以外は、みな女性である。編集長も女性だ。クレバヤシより年下の30代後半。

クレバヤシは、自分より年下の女性上司に指図されるのが、お気に召さないらしい。編集長に仕事を指示されたとき、クレバヤシは無言で口を歪めるだけだという。

 

この会社の社長の澁谷氏は、人格者である。20年近く前から、お付き合いをしていただいているから、彼の度量のでかさは、熟知していた。

澁谷社長に、あのクレバヤシを何で採ったんですか、と私はストレートに聞いた。

「Mさんが、そんな言い方をするのを初めて聞きました。よほど腹に据えかねているのですね」と高速で瞬きを繰り返しながら、私の顔を見た。

知ってますか、社長。クレバヤシは、毎日、同じ部署の女性の洋服をけなしていたんです。編集長ほか5人の私服を「全然似合ってないね」「ただ流行にかぶれているだけだね」「おのれを知っていたら、そんな格好はできないはずだ」などと言って、女性社員に不快な思いをさせていたのです。

だから、女性社員たちは、編集長も含めて、会社に来ると、私服から上下ジャージに着替えて仕事をしています。お客さんと応対するときは、私服に着替えますが、クレバヤシの前では、いつもジャージです。これって、異常ですよね。

「僕の耳にも入っています」と澁谷社長。

「でも、詳しいことは言えないのですが、クレバヤシにも、わけがありまして・・・」と何か苦いものを飲んだような顔をして、澁谷社長は、私に頭を下げた。

 

ワケありの男か・・・・・。

 

人格者の澁谷社長がしていることだから、明確な理由があるのだろうと思って、私は、それ以上言わなかった(澁谷社長に頭を下げさせたことに関しては反省している)。

 

今週の水曜日。

編集長と仕事の打ち合わせをした。

以前は、私と打ち合わせをするときは、ジャージから私服に着替えていたが、私が、編集長以下女性陣は、ジャージ姿でもお美しいので、そのままで、と言ったら、編集長は「ウォッホ!」と豪快に笑って、ジャージ姿のまま打ち合わせをするようになった。

編集長の隣の席には、クレバヤシがいた。

クレバヤシは、仕事はできる人らしい。だから、澁谷社長も彼を雇ったのだろう。業界歴20年のベテランさんだ。

ルックスも態度も忌々しいやつだが、確かに、私との2回の仕事は、今までスムーズに進行終了していた(女性編集長の陰ながらのフォローがあったからだと思うが)。

 

打ち合わせの前に、編集長みずから、私にコーヒーを淹れてくれた。

そして、編集長も自分の前に、コーヒーを置いた。

それを見たクレバヤシが、「おーい、誰か、僕にコーヒーを」と言った。

これは、毎回の光景だ。

この部では、飲み物は、各自が飲みたいときに、自分で用意するのである(あたりまえだのクラッカー)。

私は外部の人間だから、編集長が淹れてくれたということ。お・も・て・な・し。

しかし、クレバヤシは、いつもいつもいつもいつもいつも同じように、抗議するのである(最終的に、クレバヤシは近所の自販機で飲み物を買って来るようだが)。

 

だが、このとき、クレバヤシは、今まで言わなかった「チェッ! だから、女ってやつはよー」という言葉を吐き出したのだ。

 

その言葉にイラッと来た私は、「あのね、いっとくけどね、部内のルールは守ろうよ。みんな、自分でお茶やコーヒーを淹れてるんだから、君もそのルールに従うのが常識ってものじゃないの」と言った。

それに対して、クレバヤシは、「お茶は、どこの会社でも、女が淹れるのがルールだよ」と言ったのだ。

 

ワオッ!

 

どこの会社でもって、その会社はどこ?

「全部でしょうが!」とクレバヤシ。

君ね・・・・・そもそも、君がそんな態度だから、みんな着たくもないジャージを着て、普通なら和気あいあいとして飲みたいティータイムを味気ないものにしているんだよ、わかっているのかね。

 

「チェッ! 何を偉そうに・・・仕事をもらう立場がわかっているのか!」

 

そう言われた私は、編集長に向かって、編集長、今の言葉は、パワーハラスメントです。私は、澁谷社長のところに言って抗議しようと思います。編集長、証言していただけますか、と言った。

編集長は、「わかりました」と言ってくれた。

ふたり同時に立ち上がった。

そのとき、クレバヤシに両手で肩を強くつかまれた。

おや? 今度は暴力ですか?

クレバヤシの目が血走っていた。

そのとき、クレバヤシの両腋が完全に空いたのに気づいた私は、咄嗟にクレバヤシの腋をコチョコチョした。

しかし、私のお茶目な攻撃は無駄だったようだ。

「なにすんだよ!」と叫んで、クレバヤシは、両手にさらに力を込めた。

あらら、目がさらに険しくなりましたよ。やっぱり、冗談の通じないやつだったか。

 

私は、睨まれるのが好きではない。しかし、睨み返すのは好きだ。

だから、私は肩を掴まれたままクレバヤシの目を睨み据え、目の奥まで突き刺すようにして、目から炎を出しながら言った(星飛雄馬? たとえが古い)。

 

小僧ォ! 俺を怒らせるのか。君に、その度胸があるのか。

俺は、これから一生、君に頭を下げない。

君がもし俺に仕事をくれると言っても俺は断固拒否する。

 

さあ、俺が、この部屋を出るか、君が、この部屋を出るか、どっちだ!(指の骨ポキポキ、ついでに首もボキッボキッ)

 

「チェッ」と言って、クレバヤシが血走った目のまま部屋を出ていった。

 

ここにも、お子ちゃま太郎。

 

 

そして、残念ながら、私もこらえ性のない「お子ちゃま太郎」。

(本当の大人は、小僧の言うことなど聞き流しますからね)

 

 


3杯目に独立を考えた

2018-05-06 06:43:00 | オヤジの日記

先週、育った中目黒で郷愁に浸ったことを載せた。

 

そのあと、私は同じ東横線の自由が丘に足を運んだ。

自由が丘は、私の庭である中目黒、代官山、渋谷、恵比寿ほどは、なじんでいない。

ただ、大学時代、陸上部の同期が都立大学と自由が丘間に住んでいた。その関係で、たまに、自由が丘の居酒屋で飲んだ。

当時は、今ほど「オシャレな街」という扱いではなかった。

ところどころにヨーロッパ風の町並みがあったが、あまり街としてのバランスはよくなかった。

さらに、驚いたことに、当時の自由が丘の喫茶店で出すコーヒーは、1杯600円とか800円したのだ。渋谷で250円から300円の時代ですよ。

コーヒーとサンドイッチなどを頼んだら、1500円などというところもあった。

オシャレな街を印象づけようとして、価格設定を高めにしたのかもしれない。

高額なものに意味を求める人にはいいかもしれないが、ビンボー大学生は、自由が丘でコーヒーが飲みたくなったら、天井が今にも落ちてきそうな場末の喫茶店に行くしかなかった。

そして、その恐ろしいほど退廃的な店構えを見ながら、「おお、風情があっていいな」と負け惜しみを言っていたのである。

 

私にとって、自由が丘とは、そんな街だ。

そんな街に、私は20年前、ひとりで降り立った。会社勤めに限界を感じているときだった。子どもの成長だけにしか、生き甲斐を持てない時期だった。

当時は、埼玉大宮市(今のさいたま市)に住んでいたから、結構な長旅だった。

10何年ぶりかの自由が丘。雑誌で「オシャレな街」「住みたい町」と言われていた頃だ。私の大学時代とは、街の色彩が変わっていた。

大学時代は、無理やりパステルをちりばめたような街並みだった。それが、落ち着いたモノトーンに変わっていた。

ヨーロッパには行ったことがないが、「うん、ヨーロッパっぽい」と思った。

 

自由が丘のランドマークは、当時から「自由が丘デパート」だった。その向かいの通りを歩いていくと、当時様々な店があった。そのあたりを私は徘徊した。

20年前のある夜のことだった。通りを歩いていると、バーを見つけた。どこにでもあるような無個性のバーだ。

何も主張していない。店の脇に看板があって、店名の下に王冠の絵が描かれていたのが、目に留まるくらいの目だたないバーだった。

そのバーの前で、私は行きつ戻りつを3回繰り返した。要するに、ためらったのだ。

バーに入ったことはあったが、いつも必ず友人と一緒だった。一人で入ったことはなかった。一人でバーに入るなどという気取ったことが、自分に似合うとは思っていなかったからだ。

屋台のおでん屋なら、ためらうことなく入れる。しかし、バーは無理だった。3回往復したあと「やっぱ無理」と逃げ出そうとした。冒険は、そこで終わると思われた。

しかし、そのとき、偶然バーのドアが、なぜか少しだけ開いたのだ。

私の耳にクイーンの曲が入ってきた。「アンダー・プレッシャー」だった。デヴィット・ボウイとの共作だ。

 

平穏な日々 いや そこにあるのは 土砂降りだけだ

道行く人 ただ 道を行く人よ

 

その歌詞につられて、バーに入った。カウンターだけのバーだった。カウンターはL字型で10席程度しかないように思えた。

先客は1人だけだったと思う。私より年上に見えた。

カウンターの中にいたのは、40歳前後の誠実そうな銀縁メガネの男1人だった。そして、壁には、クイーンのでかいポスターが3つ。奥に大きなタンノイのスピーカー。

その店には、30分程度しかいなかったが、その間、店内に流れていたのはクイーンの曲だけだった。

飲んだのは、ジャックダニエルのストレートだったか。それを飲みながら「キラー・クイーン」を聴いた。それまで、緊張で心臓が早鐘を打っていて、酒を注文するときも声が震えていたが、クイーンの曲と酒で落ち着いた。

少し離れて座る男は常連さんのようだった。バーテンダーに向かって、1985年の武道館の伝説的ライブが、どうたらこうたらと興奮して語っていた記憶がある。

私は、どの店でも常連さんになるのをそれまでずっと避けて通ってきた男なので、羨ましいな、と思った。

ジャックダニエルの2杯目で、「レディオ・ガ・ガ」「フラッシュ」。

3杯目を頼んだとき、「マイ・ベスト・フレンド」の次に「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」が流れた。聴き入った。

フレディ・マーキュリーの気高くて力強い声(じつは、このとき、フレディの命は尽きようとしていた。つまり、命がけの1曲だったのだ)。

フレディを支える3人のコーラス。少しファズの入ったブライアン・メイの壮大なギターソロ。心に突き刺さった。

 

何があったって ボクはチャンスに身を委ねるだろう

自由が訪れようとしている だけど 暗闇がボクの心の隙をうかがっていた

でも ボクは飛べるんだ 友よ

ショーは 続けなければ いけない

ボクは ショーとともにある

さあ ショーを 続けようか

 

その曲を聴いたとき、俺は独立しなければダメだ、と思った。

自分のショーを続けたいと思ったのだ。

 

20年前、私の背中を押してくれた、そのバーは、残念ながら、もうなくなっていた。

 

 

でも、私のショーは、今まだ続いている。

 

 

(最後に、誰も言わないから、自分に、独立20周年おめでとう、と小さく言うことにする)