リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

世界で2番目にブスな猫

2017-02-26 07:37:00 | オヤジの日記

我が家族が住むオンボロアパートの庭の段ボール箱に住み着いた「セキトリ」という名の猫。

 

東日本大震災前から住み着いているので6年になる。

私には、動物の肛門を見て年をあてる特技があった。

肛門判断では、セキトリが居着いたとき、セキトリは1歳になっていなかったと思う。

だから、いま7歳くらいか。

人間で言えば、40歳くらいだろうか。

ナイス・ミドルと言っていい。

 

ノラ猫の寿命は、4歳くらいだというから、だいぶ長生きだ。

(段ボール箱に住み着いたとき、まわりの美人猫さんに悪さをしてはいけないと思ったので、去勢手術をしてもらった。それが、長生きの理由かもしれない)

 

セキトリのネグラは、段ボール箱だが、段ボールの壁を二重構造にしていたから、断熱効果があった。

屋根も付けた。

ドアは、ちょっと押しただけで開く仕組みだ。

だから、冬はそれほど寒くはないと思う。

そして、ご丁寧に防水シートで覆っているので、水にも強い。

さらに、アパートのひさしに、アウトドア用の日よけを付けているから、夏の日差しも直接は当たらない仕様になっていた。

おそらく、チョット快適。

 

セキトリには、私の話し相手になってもらっていた。

そのお礼として、メシを3食提供している。

一食は、カニかまやチクワ、カマボコ、シラスなどを湯がいて塩分を落とし冷ましたものに、かつお節をかけたものを食わせていた。

あとは、ホームセンターでセールされている大袋に入ったキャット・フードだ。

 

ノラ猫にしては、毛並みはキレイな方だと思う。

ただ、顔はブッスだが。

 

ところで、我が家には、ここにきて引っ越し問題というのが持ち上がった。

セキトリをどうしようかという重大問題だ。

私以外の3人は、あまりセキトリと関わっていない。

だから、私は恐る恐る家族に、セキトリを連れて行きたいのだけど・・・と25回土下座した。

韓国留学中の娘にはskypeのビデオ電話に向かって土下座した。

娘は、「いいぞい」と言ってくれた。

それに対して、ヨメと息子は、「えー、ノラ猫でしょ」「飼うとしたら、もっと可愛いのがいい」と抵抗した。

しかし、私はめげずに、とりあえず一週間だけ家猫として家に入れてほしい、と26回土下座した。

二人は、渋々うなずいてくれた。

 

その作戦が功を奏した。

もともとヨメは猫好きである。

息子は、犬は好きだが、猫にはいつもそっぽを向かれる、と嘆いていた。

だが、セキトリは頭がいいから、初日から二人に媚を売ったのだ。

スリスリと近寄ったのである。

その結果、ヨメはデレデレ。

息子もデレデレ。

デレデレデレデレ。

「ブスだけど、いいよ」とお許しが出た。

 

ただ、この結果として、私には寂しい問題が持ち上がった。

想定していなかったことに、今までのセキトリとの会話が崩壊したのだ。

いままで、セキトリは私の相談相手になってくれていた。

今度の仕事は大変なんだよな。

ニュア(まあ、頑張れよ)

いまちょっと疲れ気味でな。

ニャーウ(そういうときもあるさ)

仕事がうまくいったぜ。

ニャニャ(そいつはよかったな)

今日はいい天気だな。

ニャーッ(うるさいよ。俺は寝るんだから邪魔すんなよ)

 

私のことを普通の変人だとは思わないでください。

 

究極の変人ですから!

 

そんな風に、セキトリとの会話が楽しみだったのだが、家猫になってからのセキトリは、甘え声の「ニャー」しか言わなくなった。

さらに、最初の頃は、私が呼ぶ「セキトリ」という呼び名にしか反応しなかったのに、最近ではヨメと息子が呼ぶ「ブス」にも「ニャー」と答えるようになったのだ。

おまえ・・・・・ノラ猫のプライドは、一体どこにいった。

 

 

ところで、先日、韓国留学中の娘が修了式を終えた。

修了試験では400点満点で397点だった。

マイナス3点は、娘のイージーミスだったようだ。

「普通だったら、絶対に間違えないのに!」と怒った。

だが、留学生200人中のトップだ。

それでいいだろう、と慰めた。

しかし、娘は、その大学で過去4人しかいない満点卒業を果たせなかったことが、とても悔しかったらしい。

帰りにスーパーでアサヒのスーパードライを2本買って、寮に帰る途中の公園でヤケ酒を浴びたという。

「390点なら諦めがついたのに!」

 

そんな娘が2月28日夜に帰ってくる。

そして、その日が我が家の引っ越し。

 

楽しみだが、忙しい一日になりそうだ。

そして、5人の新しい生活が始まる。

 

 

世界で2番目にブスな猫「セキトリ」でございます。

コラッ! ノラ猫としてのプライドを持て。

 

そして、最後に衝撃の映像。

 


運命は信じる

2017-02-19 07:09:00 | オヤジの日記
清水富美加問題というのが、世間を騒がせているようだ。

むかし一度だけ、「しゃべくり007」でお姿を拝見したことがある。
女優さんだということは知っていたが、具体的な活動は申し訳ないが知らない。

いつもならヤフーニュースは、トップページの見出ししか見ないのだが、あまりにも見出しのニュアンスが、清水さんへの批難一辺倒だったので、気になって内容も読んでみた。
(私は少数派が好きなヒネクレものなので)

相変わらず、表層的な部分をなぞるだけで、刹那的で感情的なご意見しか吐けない「ご意見番」さんたち。
彼ら彼女らのご意見は、論理性に乏しく同じ方向しか向いていなかったので、あまり私の興味を引かなかった。

他に、違約金がどうの、損害賠償がどうのという記事もあったのだが、その記事には、署名がなかった。
私は、誰が書いたかもわからない記事を信じるほどお人好しではないので、その記事の信憑性には疑問しか感じなかった。

清水さんと事務所との契約条項を提示してくれたら信じたかもしれないが、それは個人情報だから、裁判以外で提示されることはないだろう。

つまり、すべては、憶測ということになる。

皆さん、憶測で、よくも批判一辺倒になれるものだと感心した。

いつもなら過重労働に関しては、「ブラックだ」と騒ぐ人たちが、今回は一芸能人だけを叩くという構図が素人の私には、理解できなかった。

そして、詳しい契約条項も把握していないのに、憲法で認められた「信教の自由」を無視する感情論も私には理解できないのだ。

私は、憶測だけの記事よりも「信教の自由」を尊重する。


ここで、話が違う方向に飛ぶことをお許し願いたい。

私のヨメは、物心ついたときから、ある巨大宗教を信心していた。
ご両親が熱心な信者さんだったからだ。

しかし、それに対して私は、目に見えるもの以外は信じないという「罰当たりもの」だった。
つまり、無神論者。

ただ、私は無神論者ではあるが、人の「信教の自由」は尊重する。
私と価値観が違うからといって、それを否定することはしない。
(だから、イスラム圏の人の入国を拒否するパラノイアの思想も理解できない)

信じるものがある人は、強いと思う。
それは、とても尊敬に値することだ。


幼い頃からの信者と「罰当たりもの」が出会って、結婚を考えた。

しかし、筋金入りの信者さんであるヨメの両親は「罰当たりものに娘はやれない」と強く反対した。
(自分の娘の夫は、同じ信者さんが望ましいと考えるのは当然のことだ)

そこで、私たちは、半年かけて計画を立てた。
ヨメは、当時、そこそこ大きな企業の本社に勤めていて、その会社には神戸支社があった。

私は、当時法律事務所に勤めていて、その事務所のボスの弟さんが、神戸で法律事務所を開いていた。

その偶然を利用して、私はボスに事情を話し、神戸の弟さんの事務所に勤めさせてください、という非常識なお願いをした。
そして、ヨメは会社に、神戸支社への転勤を願い出た。

その結果、半年以上の時間はかかったが、私たちの願いは叶えられることになった。

私たちは、いまでは死語になった「駆け落ち」を決行したのである。

私の母親だけには了解を得たのだが、ヨメの両親には、何も言わず、神戸に向かった。
28歳のときだった。
まさしく罰当たりな行動と言っていい。
(今にして思えば、別に神戸に行く必要はなかったと思う)

幸いにも私の大学時代の友人が神戸に住んでいたので、そのつてを頼りにして、1Kのアパートを借りることができた。
冷蔵庫と布団、ちゃぶ台、数個の食器、フライパンしかない、新婚生活だった。

テレビもねえ、ラジオもねえ、電子レンジもねえ、洗濯機もねえ状態で新しい生活がスタートした。

1年足らずで、そんな私たちの「神戸生活」は終わって、東京に戻ったのだが、信心深いヨメの両親は、私たちを許してくれなかった。
(そりゃそうだ)

余談だが、その後、阪神淡路大震災が起きたとき、そのときお世話になった多くの人たちが被災したのを聞き、義援金しか送れなかった自分の無力さを呪ったものだ。


ここで、話はまた戻る。

こんなことを言っては不謹慎かもしれないが、ヨメの両親が私を拒否してくれたおかげで、ヨメの親に気を使わない生活ができたことは、私にとっては楽な環境と言ってよかった。
(ヨメには、申し訳なかったが)

だが、親が年を取るということは、その最期が近づくということでもある。

10年前、義父が亡くなった。
ヨメには、上に兄が二人いたが、臨終が近いそのとき、仕事を理由にして病院に来るのが遅れた。
ヨメはパニックになって、病院に行くことができなかった。

結局、最期を看取ったのは、義父と折り合いが悪い私だった。

その4年後、突然の火事で義母が死んだときも、長男と次男は間に合わなかった。
ヨメは、花屋のパートを休めないと言って、危篤状態のときもパートを優先させた。

その結果、義母の最期を看取ったのも、義母と折り合いが悪かった私と当時中学3年の私の娘だった。
娘とふたり、義母の耳元で「逝くなー」と叫んだが、義母は言うことを聞いてくれなかった。


義父も義母も、私に看取られるのは不本意だったろうが、巡り合わせだから仕方がない。

それは、なぜなのかと考えたら、結局は、「運命」という陳腐な言葉でしか表現できない必然なんだと思った。

「運命」は、誰の前にも現れる現象だ。
おそらく、それを避けることはできない。
拒むこともできない。


ということもあって、私は、目に見えない神は信じないが、同じく見えない運命は信じるという都合のいい男だ。


清水さんが、果たして神を見たのかは推測できないが、運命は感じたのではないだろうか、と私は勝手な推測(憶測ではない)をしている。



だって、神は見えなくても、誰だって運命に巡り会えることはできるのだから。


バカ親父ふたたび

2017-02-12 07:53:00 | オヤジの日記
26歳になる息子がいる。

彼は、大学4年のとき、発達障害と診断された。

息子が大学3年のとき、ゼミの教授に呼ばれた。
そして、こう言われた。

「ボクの中学3年の息子が、発達障害なんですが、あなたのお子さんと共通するところがあるような気がするんです」

それを聞いたとき、余計なお世話だな、と反発した。
そして、「発達障害」って何? とも思った。

教授は「自閉症スペクトラム」がナンタラコウタラ、と説明してくれたが、違うやろ、としか思わなかった。

息子は、小学生のとき、同級生が毎日のように5人以上我が家に来て、ゲームをしたり、マンガを貸し合ったりして遊ぶのを日課としていた。
中学では卓球部に入り、3年のときにはキャプテンに選ばれて、後輩からも「マッちゃん」と言われて親しまれた。
高校でも卓球部に入り、みなから「マッちゃん」と親しまれた。

クラスメイトと、普通にコミュニケーションが取れていた。

大学では、親友が二人できて、一緒に旅行をするほど親しくなった。

そんな息子が、発達障害?
ありえないだろう、と思った。

「でも、私の息子と照らし合わせると、共通点が多いんですよ」
「一つのことにこだわりが強いし、ときに話がかみ合わないことがあります」
「冗談が通じない、という点も私の息子と同じです」
「質問しても普通の学生より、3拍4拍遅れて、意図したことと違う答えが返ってくることがあります」
「そして、不器用で、同じことを覚えるのに、普通より数倍時間がかかります」

散々な言われようである。

喧嘩売ってるのか、と思った。

ただ、冷静に思い返すと、不器用なのは間違いがない。
何かを覚えようとするとき、人より時間がかかるのは事実だ。

ただ、それを私たち夫婦は「個性」だと受け止めてきた。

不器用な子は、いくらでもいるではないか。
(私もとても不器用だ。そして顔がブサイクだ)

息子は、成績は悪くない。
理数系と体育は平均以下だったが、社会と国語はトップレベルだった。
そんな子は、いくらでもいるのではないか。
すべてが得意な子の方が、少ないと思うのだが。

ただ、自分の息子だ。
少しでも疑わしいのなら、目をそらしてはいけないとも思った。

そこで、中野のメンタルクリニックに相談に行った。
発達障害ではない、と断定してもらうために・・・。

息子は素直に医院に行き、テストを受け、2週間おきに通院して、医師と話をした。

3か月後、医師に告げられた。
「ボーダーラインですが、発達障害かもしれません。
おそらく医師によっては、発達障害だと判断しないかもしれませんが、私はお子さんのためを思って、発達障害の診断をします」
「障害手帳を得て、その上で就職した方が、お子さんのためだと思います」

その日の夜、家族会議を開いた。
一日では、結論が出なかったので、4回家族会議を開いた。

最後に決めたのは、息子だった。
「俺は、それでもかまわないよ」

その結果、息子は、幸いにも卒業と同時に、ある企業の研究所に勤めることができた。
資料整理と管理の仕事だ。

毎年1回、息子の上司に、挨拶がてら話を聞きに行く。

「会社は絶対に休まないし、真面目ですし、覚えたことは必ずやり遂げて、ミスが少ない」
「とても頼りになる存在ですよ」
「ファイルやデータのある場所をほぼ把握してるのは、奇跡と言っていいでしょう」

「誰もが息子さんの記憶力に、頼り切っています」
「いつもニコニコしていて、同僚みんなから好かれています」
「アイドル的存在かもしれません」

それを聞くたびに涙を流すバカ親父。


私が我が息子を尊敬するのは、こんなところだ。

嘘をつかない。
絶対に、人の悪口を言わない。

息子に聞くと、「嘘をつかないんじゃなくて、つけないんだ。悪口を言わないんじゃなくて、言えないんだ。心臓がバクバクするから」とのことだ。


先日、息子の大学時代の友人の結婚式があった。

息子は、スピーチを頼まれた。

心臓がバクバクになり、ほとんど呼吸困難になりながらも、息子は書いた紙を読み終えて、まわりから拍手喝采を浴びたらしい。

「まるでスターになった気分だったよ」と息子は喜んだ。


スターと言えば、浜崎あゆみさん。
息子は、10年以上前から、浜崎あゆみさんのファンで、全部のCD、DVDを持っていた。

息子が大学2年のとき、「コンサートに行きたい」とねだられた。
奇跡的に、家族4人分のチケットを手に入れることができた。

代々木体育館のコンサートだった。
普段は大人しい息子が、歌い、叫び、飛び、涙を流す姿を見て、家族みんなが驚いた。

息子の感情のほとばしりを間近に見たとき、親としては恥ずかしいことだが、息子のその姿は、驚き以外の何ものでもなかった。
俺たちは、いままで彼の何を見ていたのだろう、という情けない気持ちもこみ上げてきた。

彼は、色々な感情の引き出しを持っているのに、少なくとも、バカ親父は気づくことができなかった。
その後悔の思いが、私を切なくさせた。


息子は、今でも私を「パパ」と呼ぶ。

いや、「パパァ」という表現の方が近いかもしれない。

その「パパァ」が、何を意味しているのか、それが信頼なのか、ただの習慣なのか、私には親としての自信がなかった。
ただ、私が、彼の親であるということは事実だ。

そんな事実に対して自信が持てなかったとき、娘が私にこう言った。
それは、息子が発達障害だと診断された4年前のことだった。

「兄は、すごいぞ。
いつも、おまえとマミーのことを異常に心配してるぞ。
自分のことよりも、心配してるぞ。
だから、兄にあまり心配させるなよな」

それを聞いて、息子の純粋な親への愛情を真面目に受け止めなければいけないな、と強く思った。

俺は親だったんだ、ということも、あらためて自覚した。



いま、息子は大学3年の妹に、毎月お小遣いを上げていた。

兄が就職できたとき、涙を流して喜んだ妹。

ひいき目かもしれないが、とても素敵な「あにいもうと」だと思う。



これからも、そんないい関係が続くことを願うバカ親父でした。



バカ親父の影響力

2017-02-05 06:41:00 | オヤジの日記
韓国留学中の娘が、二日間だけ帰ってきた。

ごひいきのビジュアル系バンドのライブに行くためだ。

金曜日の夜、帰ってきて、土曜日は朝からコメダ珈琲店で、お友だち4人とモーニングを食い、その後はカラオケ、そしてはなまるうどんで腹ごしらえをして、5人でライブに行った。

夜の11時に帰ってきた娘は、「笑わないでほしいんだ」と私に言った。
「これが、最後のライブだと思うと、アンコールでは号泣しっぱなしで、みんなから笑われたよ。泣くような歌じゃないのにって」

最後のライブ、と言っても、そのバンドが解散するわけではない。
娘が、そのバンドのライブに行くのが、最後という意味だ。

「韓国から帰ったら、真剣に就職活動しないといけないからな」

大学3年の娘には、就職という重い課題が待っていたのである。
ただ、娘のお友だちも同い年だが、就職活動をしていたとしてもライブには行くらしい。

娘だけが、「最後のライブ」ということだ。


「年を取ったら、涙もろくなってな」と娘。

そう言う娘は、昔から涙もろかった。

娘が幼稚園のとき、私と始めて観た「モンスターズ・インク」では最後に号泣した。
「千と千尋の神隠し」の最後も号泣した。
「E.T」をテレビで再放送したときも号泣。

そして、娘が小3のときに連れて行った浜田省吾のコンサートの最後も号泣だった。

「あんときは、二人で『on the road』のTシャツを着て行ったんだよな。
思えば、変なガキだったよな。
初めて聴いたフル・アルバムが、小2で、椎名林檎の『勝訴ストリップ』だったからな」

椎名林檎様の難解な詞を理解するために、電子辞書をねだられた。

娘が、初めて読んだ長編小説が小5のときで、万城目学氏の「鴨川ホルモー」だった。
そして、小6で伊坂幸太郎氏の「ゴールデンスランバー」。
そのときも、その電子辞書が役立った。


まだ5人で活動していた頃の「東方神起」を、かなりレベルの高いハーモニーだから聴いてみろよ、と薦めたのが、娘が小5のときだった。
そのときに、韓国に興味を持った娘は、互いの国がいがみ合う関係の中でも、興味を持ち続け、中学から独学でハングル語を覚え、いま韓国の大学の英語クラスで勉学に励んでいた。
(ただ娘も私も生粋の日本人ですが)


「思えばボクは、おまえのあとばっかり追いかけていたんだよな」と娘。

音楽も映画も小説も考え方も、そして、体質も見事なほど受け継いでくれた娘。
(何を食っても太れないガイコツ体質)


「でもな・・・ボクが初めて自分の意志で興味を持ったバンドが、今日ライブに行ったバンドだったんだよな。
このバンドを見つけたとき、ボクは、おまえから自立したと思ったぞ」

それは、4年前のことで、トータルで20回以上ライブに足を運んだのではないだろうか。

だったら、ライブに行くのをやめることはないんじゃないか。

「いや、ライブよりも就活だ。
ケジメはつけないといけないんだよ。
それは、おまえを見て、教わったことだ。
『やるときはやる』ってな」

(泣かせやがって)

「でもな・・・不思議なことに、また浜田省吾のコンサートに行きたい自分もいるんだよな」


変わったやつだな。


「おまえに、言われたくないわ!」

それ、本気で言っているのか?

「本気で言ってたら、おまえと何年も親子なんかやってらんないよ」

・・・・・・・ヘヘヘヘヘッ。

(無断で、オードリー師匠の漫才をパクってしまいました。お詫びいたします)




さて、今回は、成田ではなく羽田空港から韓国に行く娘を、これから見送りに行こうと思います。

留学を終えて帰ってくるのは、2月28日。



バカ親父は、それまで、我慢するよ。