リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

おひとりさまの美学

2016-01-31 09:07:01 | オヤジの日記
「辞めるのが私の美学だ」と頭を下げた政治家が、最近いた。

しかし、明確な美学を持っているのなら、金は簡単に受け取らないだろうし、たとえ受け取ったとしても、政治資金規正法に則って適正に処理しただろう。

そもそも美学を持っている人は、「チョット記憶が・・・・・」などと慌てたりしない。


そして、一昨日のことだが、ひとつの美学を持った女の人の会話を聞いた。

得意先で打ち合わせをした帰り、神田のパスタ屋でひとり遅いメシを食っていた。

1時を過ぎていたにもかかわらず、店内はほぼ満席だった。
この地域では時間差で昼メシを食う人が多いのかもしれない。

客の9割が女性。
男は、私を含めても3人だけだった。
男は「一人メシ」だったが、女性は2人以上のグループが店内を占めていた。

ひとりボロネーゼを食う私の横のテーブルに、二人組の女性がいた。
その人たちの会話が、私の耳に入ってきた。

盗み聞きをしたわけではない。
私はメシの最中は、本を読んだりスマートフォンをいじったり音楽を聴いたり、テレビを見たりする習慣がない。
メシを食うことに集中する。

ただ、左耳は生きているので、自然に会話が耳に入ってくることがある。
だから、盗み聞きではない。

「ひとりでランチを食べる人って、わたし大っ嫌い!」

それを聞いた私は、ドキッとして、思わず左のテーブルに目を移動させた。
30歳前後の地味な女性ふたりが、「何かのパスタ」を食べていた。

「そうよねえ、一人でランチなんて、信じられないわよねえ」と、もう一人が同調した。

そして、二人で「美学」を語るのだ。

「ランチを一緒に食べる人なんて、普通はいくらでもいるでしょ」
「そうよ、まともな人なら、絶対一人でランチなんて、ありえない!」

「親からどんな教育を受けたのかしらねえ」
「なんか欠陥だらけの人って感じがするわよね」

親からまともな教育を受けたこともなく欠陥だらけの私は、それを聞いて体を縮こまらせた。
やけくそになって、ボロネーゼにタバスコをぶちまけた。

「もし私の彼氏が一人でランチを食べていたら、ちょっと幻滅だわ」
「私もそんな寂しいひと嫌だなあ。ランチを一緒に食べる友だちもいないなんて人格疑うし」

お二人はご存知ないかもしれないが、世の中には、牛丼チェーン店というのがあって、そこでは多くの人たちが「ひとり」でメシを楽しんでいる。

さらに、ご存知ないかもしれないが、「立ち食いそば屋」という安くてマズイ店もあって、そこを利用する人も大抵はひとりだ。

マクドナルドなどのファストフード店も「おひとりさま」がたくさんいらっしゃると思う。
ランチには利用しないかもしれないが、スターバックスなどのカフェでひとり食後の飲み物を楽しむ方もいらっしゃる。

このおふたりは、きっとそれも「信じられな~い!」んでしょうか。

なかなか素晴らしい美学をお持ちだと感心した。

だが、最後に、このうちのお一人が、「究極の美学」を披露したのである。

「回転寿司なんかも、一人で入っている人がいるけど嫌よね」
「ラーメン屋もイヤね」
「食べ放題だって嫌だわ」
「カレーもイヤ」
「トンカツも!」
「焼肉もミジメだわ」

「え? なんで? 私、昨日の夜は、一人焼肉をしたわよ。焼肉はいいんじゃない?」
「・・・・・・・・・・」

「一人焼肉の専門店が帰り道にあるから、そこはしょっちゅう利用するわよ。だって、一人焼肉専門って言ってるんだから、一人じゃないとダメでしょ!」
「・・・・・ああ・・・・・そうね・・・たしかに・・・そうよね」

「人間は一人でご飯を食べたくなる時があるの。そういうときの焼肉はいいのよ」
「そうよねえ」


素晴らしい美学を聞かせていただき、ありがとうございました。


勉強になりました。


ついでに、政治家の皆様方も、このように毅然とした態度で美学を貫いていただきたいと思います。



恩人をコテンパンに

2016-01-24 08:46:00 | オヤジの日記
私と同じフリーランスを生業とする人たちと年に数回飲み会を開いている。

場所は、いつも吉祥寺。

ただ、吉祥寺近辺に住んでいるのは私だけで、他の人たちは全員が埼玉に在住していた。
みな私が、さいたま市に住んでいたときの同業者である。

なぜ、埼玉で飲み会を開かないのかというと、私が埼玉にいい思い出がないことを皆さんが知っていらっしゃるからだ。

15年間の長きにわたって生活した埼玉のことを思い出すことは、今ほとんどない。
得意先がまだ埼玉に1件あるので、月に3回浦和には行くが、その先にある「過去の生活圏」には5年間で2回しか行ったことがない。

2回とも機械音痴の同業者のパソコンが壊れたので、直しに行っただけだ。
その同業者は、私と同じメガ団地に住んでいた。
普通の人なら、15年も住んでいたのだから、懐かしく思って周りを歩いて感慨にふけったりするのだろうが、私は顔を上げることもなく、すぐに団地を後にした。

心の中で、団地全体にバズーカを掃射しながら。

15年住んだうちの14年間は、家族とともに楽しい時間を過ごした。
しかし、最後の1年は、あるご老人のせいで、私は鬱寸前の毎日を過ごした。

私が、その悪夢を思い出したくないことを同業者は知っているので、平均年齢46歳の男ども5人は、わざわざ吉祥寺まで出向いてくれるのである。

それは、とても有り難いことで、私はいつも内心では感謝の気持ちを膨らませて、彼らの姿を涙目で見ていた。
しかし、私は人格が崩壊している男なので、そんな恩義のある彼らに、容赦なく皮肉の雨を降らせるのだ。

なぜなら、彼ら5人のうちの4人が、ジャイアンツ、自民党、演歌を愛する極悪人どもだからだ。
極端に心の狭い私から言わせてもらうなら、この3つが揃った人間など、理解の範疇を超えている。

自民党なんて、利益誘導、土建屋体質、バラマキ政策で今の日本の借金体質を作った元凶じゃないか。
ジャイアンツは読売新聞の商売道具で、電波や文字の媒体を使った洗脳集団だ。

演歌は、「日本人の心の歌」などといっているが、その「心の歌」より、ジャズやポップス、ロックの方が歴史は古いという事実を彼らは知らない。
そのくせ、古いジャズやロックよりも古臭いマイナーな旋律と後ろ向きの歌詞。
いったい、そのどこに「日本人の心」があるんだ。
いまの日本人の心は、そんなに暗くないぞ。

最初の頃は、いつもそうやって喧嘩を売っていた。

その結果、同業者は「こいつは変人だから、何を言っても無駄だ」と思って、自民党、演歌の話題は諦め、ヒソヒソとジャイアンツの話題だけで盛り上がるようになった。

なぜかというと、私がジャイアンツの選手の名前を知らないからだ。
それをいいことに、私ともう一人を除け者にし、意味のわからない名前をあげて4人だけで「ジャイアンツ教」の集会を開いているのである。

シーズン中もシーズンオフもよく話題が絶えないことだ、と感心している。

ただ、彼らにも学習能力はあるようだ。
私の前で、「昔はよかった」式の会話をしなくなったからだ。

昔、その目で見たわけでもないのに、彼らが伝説の投手・沢村氏の話を得意げにしていたことがあった。
「沢村に比べたら、今のピッチャーなんてたいしたことないよ。むかし160キロの球を投げていたんだから、驚くよね。今で言えば180キロくらいの感覚じゃないの!」
「そうだ、そうだ!」

それを聞いた私は、お言葉を返すようですが、とイチャモンをつけたのである。

すべてのスポーツの種目が、50年、60年以上前と比べて、飛躍的に記録が伸びているのに、なぜ野球のピッチャーの能力だけが、昔の方が優れていると言えるのか。
彼の投げる姿を見たのですか?

沢村氏は、彼らが生まれる前に亡くなっていたので、見たことはないという。
要するに、伝聞を元に想像で言っているだけだ。

それは、私の感覚ではメルヘンだ。

たとえば、80年近く前、多くの優秀な投手が130キロの球を投げていたとする。
その中で、沢村氏だけが145キロの球を投げたら、とてつもなく早く感じることだろう。

今の投手の平均的な球速が145キロだったとして、その中で160キロを投げる投手の球は、とてつもなく速く感じる。
それと同じではないのか。

スポーツの記録は、その時代の中では絶対的な記録だが、世代が変わったら「相対的」になる。

たとえば、純粋に己の肉体だけを使う体操競技を例に取れば、昔はウルトラCと言ったら、ミスさえなければメダルを取れる大技だったが、いまウルトラCを出しても何のアドバンテージにもならない。
今は中学生でも、ウルトラCより、はるかに難度の高い技をこなすのである。

その技の難易度、技の多彩さを比べて、「昔の体操選手の方が凄かった」などと言ったら、確実に時代錯誤と笑われるだろう。

野球のピッチャーだけが、昔の方が凄かった、という根拠は、おそらく沢村氏の投げる姿を見た人が歴史の人たちだけだからだ。

むかし、400勝投手の金田正一氏が、スピードガンが出始めの頃に、こんなことを言っていた。
「ワシの若い頃は、150キロをバンバン投げていたよ。沢村さんは、もっと早かった」

沢村氏はともかく、金田氏に関しては、それはそうかもしれない、と思った。
なにしろ日本で唯一の400勝投手なのだ。
150キロを出していても不思議ではない。

だが、アマチュア野球の好きな友人が言うには、今の高校生、大学生の投手の中には、150キロを超える球を投げる人が数人いるらしいのだ。

プロの400勝投手、金田氏が150キロ。
そして、アマチュアの投手も150キロ。

そのことが何を意味するのかというと、世代が変わったら、残るのは実績だけということだ。
ポテンシャルを比べたら、今のアスリートの方が能力は確実に高い。

これは、余計なことかもしれないが、今の3割バッター、30本塁打バッターは、昔の打者のように、ストレートやカーブだけを打つのではなく、スプリット、スライダー、カットボール、チェンジアップなどを打って結果を残しているのである。
そのポテンシャルの高さは驚異的だ。

このように、トレーニングの質は、昔と今では格段に違う。

メルヘンには夢があるが、世代をいくつも超えたことを忘れて、「昔はよかった」というだけでは、「伝説の人」の評価を間違えることになる。

今と比較などしなくても、その時代に実績を残した人は、その時代の実績を評価するだけで十分だと私は思っている。
「いま」と比べて「昔の方が」すごいという根拠のないリスペクトは、その人の実績を歪めるだけだ。

たとえば、平地で初めて100メートル10秒の壁を破ったのは、伝説の人カール・ルイス氏である。
だが、いまカール・ルイス氏のことを「人類最速」という人はいない。

今、彼の記録を超えるランナーはたくさんいる。

しかし、カール・ルイス氏の実績は、陸上の歴史の中で燦然と輝いている。
スポーツの記録とは、そういうものなのである。

本当に160キロを投げたかどうかもわからないメルヘンを信じるより、「沢村という偉大な投手が過去の日本にいた」ことが重要なのだ。

それ以外の修飾は、むしろ彼の価値を歪めることになるから、そんな言い方はやめた方がいいですよ、と私はジャイアンツ教たちにむかし忠告したことがあった。

私のそんな意見に、同業者たちは納得したわけではなかったようだが、それからは「昔の選手の方が凄かった」という話はやめるようになった。

おそらく「こいつは夢のないやつだ。相手にしてもしょうがない」と見限って、メルヘンを語るのをやめたのだと思う。


今回は、皆のスケジュールが詰まっていたので、午後5時から飲み始めて、7時解散の予定だった。

しかし、6時10分を過ぎたころ、突然メンバーの中で最長老のオオサワさんが、私に「そういえば、吉祥寺にバッティングセンターがあるの知ってましたか。どうですか、これから行ってみませんか」と提案した。

同業者全員が乗り気だったので、断るのも悪いと思って、その話に乗った。

行ってみると、どこにでもあるようなスタンダードなバッティングセンターだった。
ただ、最速が90キロというから、素人のお遊び向けと言っていいだろう。

まず、それぞれ1ゲーム20球ずつを順番に打っていった。
平均年齢46歳の同業者たちは、その素人の遊び向けの90キロの球に対して空振りを繰り返した。
誰もが、20球のうち、1~2球程度しか当てることができなかったのだ。

だが、私は、20球のうち、空振りは2球だけだった。
ほとんどがバットの芯に当たっていた。

打ち終わって、ケージから出た私を迎えたのは、しらけきったジャイアンツ教の男だちの顔だった。

「なんで、こいつだけ打てたんだ? こいつは、走るのだけが取り柄の男じゃなかったか?」
声に出さなくても、彼らの顔を見れば、言いたいことは想像できた。


では、説明しましょう。
私は、新年早々に、「メンバーが帰省のため足りなくなったから助っ人お願い」と請われて、草野球をしたばかりだったのですよ。
だから、目と体が球を打つことに慣れていたのですね。

ボールが止まって見えましたよ、ハハハハハ・・・・・・・。

お望みなら、もう1ゲーム、勝負しましょうか。


「もういい!」


吉祥寺駅までの帰り道、同業者たちの会話は弾まなかった。

同業者の中で一番若い37歳のニシダ君に、「Mさん、もう少し空気を読まないと」と、たしなめられた。



私は、恩人である埼玉の同業者たちを怒らせてしまったようだ。


ただ、申し訳ないことに、身も心もスカッとしましたがね。



ああ・・・・・性格が悪いのは、自覚しておりますので。



私の尊敬する人

2016-01-17 08:50:00 | オヤジの日記
年に数回しか見ないのだが、気に入っている報道番組がある。

報道ステーションだ。

大きな事件、事故があったときなどは、私は報道ステーションを見ることが多い。
(NHKを見る習慣がないので)

番組のアンカーマン、古舘伊知郎氏は、保守的な層や自民党シンパには、蛇蝎のごとく嫌われているようだ。
政権に批判的だからだろう。

しかし、以前、ニュースで自民党の小泉進次郎氏が言っていたように、「権力者は批判されて当たり前。批判にいちいち反論していたら、キリがない」と私は思っている。

むしろ、「キリがない」と言うより、権力者は様々なアドバンテージを手にしているのだから、批判されたとしても彼の地位が揺らぐわけではない。
批判を甘んじて受けたとしてもまだオツリがくるくらい、その地位は磐石である。

「どーんと来い!」と構えていてもいいはずである。


思い上がった自民党のごく一部の政治家たちは、自分たちにとって耳の痛いことを言うマスコミの広告収入を絶やせ、とまで言っているが、時代錯誤の言論弾圧を主張するのは、己に後ろめたいところがあるからだろう。

おそらく、その標的になっているのが古舘伊知郎氏の「報道ステーション」であり、長いあいだ自民党に批判的なスタンスをとっている朝日新聞だ。

さらに、報道ステーションと朝日新聞は、よくミスを指摘される。
確かに、私もその数は少なくないと思う。

ただ、その数は、保守的で自民党寄りと言われている読売新聞や産経新聞もそれほど変わらないのではないか、と私は推測している。

ミスをしたとき、報道ステーションは謝る。
場合によっては、検証するコーナーを設けることもある。

だが、保守的なものに甘い人たちは気づいていないかもしれないが、たとえば、日本テレビや読売新聞は、ミスをしても謝罪のボリュームが、はるかに少ない。
他社のミスには厳しい姿勢を見せるのに、「え? それが謝罪なの?」と思うくらい、自分のミスに対しては、いつも謝罪内容が薄い。

彼らは、自分が権力側の人間だと自負しているのではないか、と私は邪推している。
この国の権力者が、ミスをしても仏頂面で開き直る姿を模範としているからだろう。


ここで、突然話は飛ぶが、私はフリーランスを職業としている。
つまり、個人で仕事をいただいて報酬を得ている。

サラリーマン時代を10年以上経験したが、取引先の「理不尽で強圧的な対応」が度重なったことに反発して、40歳すぎに独立した。

お客と衝突するたびに、ボスは「俺の顔を潰すんじゃない。早く謝ってこい」と毎回眉間にしわを寄せた。
そして、「いい加減、大人になれよ」とも言われた。

理不尽なことに目をつぶるのが大人になることなら、俺は大人にならなくていい、と思って会社を辞めた(自分でもガキだと思う)。

フリーランスになってからも理不尽なことだらけだった。
その度に、相手と衝突した。

「仕事を出す代わりに、酒を飲ませてよ」
「ゴルフに連れて行ってよ」
「可愛い女の子のいる店、知らない?」

まるで、その条件と仕事がイコールであるかのように、当たり前のように要求されたので、「俺はお前らの財布でもなければ、太鼓持ちでもねえわ」と心の中で罵りながら、「俺は酒は嫌いだ。ゴルフはしない。可愛い女の子には会ったこともない」と、子どもじみた断り方をした。

その結果、我が家は「私のせいで」貧乏だ。


先週は、2年近い付き合いの得意先と衝突をした。
レストランのメニューのデザインを頼まれて校了になり、印刷も終わった。

しかし、納品したとき、相手が「頼んだところが直っていない」と言うのだ。

いつ直せと言いましたか?

「2校のときに、はっきりと言ったよ」

同じ職業の人はしていることだと思うが、私は校正ごとにデータを保存することにしていた。
保存したときに、パソコンに校正した日の日にちと時間が記録される。
それは、2校の打ち合わせをしたのちに、修正した時の日付だ。
そして、校正原稿もコピーして赤いマーカーで日付を書いておくのだ。

その2校原稿とデータを照らし合わせても、彼が修正を依頼した記録がない。
だから、2校では言われていませんね、と答えた。

「じゃあ、3校だな」

3校の修正原稿とデータを見ても、さらに最終稿の修正原稿とデータにも依頼された記録がない。
つまり、彼が修正を依頼した事実はないということだ。

「いや、俺は言った。絶対に言った。誤魔化すなよ」と、私より20歳以上若い男にタメ口で罵られた。

では、と言って、私はICレコーダを提出した。
毎回ではないが、私は相手によって言葉の行き違いがあるといけないので、録音させていただきます、とお願いしていた。
このときも、相手が承諾したので、録音していたのである。

一度、通しで聞いてみたが、彼が依頼した事実はなかった。

しかし、彼は言うのだ。
「いや、俺は言った。あんたが証拠を消したんだろう!」

これ以上、馬鹿と話をするのは時間の無駄なので、彼の上司に事の経緯を述べて判断を仰いだ。

すると、「あんた、録音なんかしていたのか。ひどいやつだな。客との信頼関係を壊す気か!」と罵られた。
(いや、あんたの部下は、録音することを笑顔で快諾したんですよ)

むかし「大人になれよ」と言われた私は、「ひどいやつ」の烙印も押されてしまったので、頭を下げたのち、請求書を置いて会社を後にした。


自分では、思い切ったことをしたつもりだったが、報道ステーションの古舘伊知郎氏ほどの肝の太さは、私にはない。

はたして、その報酬が来月10日に振込まれるかを今ビクビクしながら待っている。



そういう情けない理由で、権力を敵に回して、毎回のように正々堂々と意見を述べる古舘伊知郎氏を私は尊敬している。



ケツが破れた話

2016-01-10 08:50:00 | オヤジの日記
ケツが破れた。

営業から帰って、着替えようとした時に、ビリッ!
ズボンを脱いで確かめてみると、ほころびの長さは、10センチ強あった。

困ったぞ。
私は、スーツは、夏冬一着ずつしか持たない主義(?)だ。
だから、替えがない。

思い起こせば、20年近く前になる。
浦和のユザワヤでオーダーメードで作ってもらったこのスーツたち。夏冬一着ずつ。
それをずっと着続けているのだ。

よく今まで破れなかったものだ。
ズボンの膝の部分は、かなりテカッてきているが、ズボンの膝を食い入るように見る人は少ないだろうという確信をもって、今まで着続けてきたのである。
ケツがほころぶなど、思ってみたこともなかった。

困ったぞ。
明日もこのスーツを着て出かけなければならない。
早急に修復しなければならない。
つまり、縫わなければならない。

ヨメに頼めば、簡単にやってくれるだろう。
ヨメは、手先が器用だ。
子どもたちのセーターやマフラーを編んだり、ぬいぐるみを作ったり、ドレスを縫ったりするのは、彼女にとって何の苦労もなくできる作業だ。

しかし、だからこそ頼みたくない。
それほどの腕を持つ彼女に、ケツのほころびなどという簡単な作業を押し付けるのは、失礼にあたるのではないか。
私は、そう思ったのだ。

自分でできることは、自分でする。
これが、人間として、本来あるべき姿のはずだ。
だから、自分で縫うことにした。

針と糸。それだけあればいい。

当然そのふたつはあった。
2種類の太さの針。
そして、糸は黒と白、黄色があった。

薄茶のスーツに合う糸はどれか、と思った。
糸を出し、スーツにあてて確かめてみた。
考えるまでもない。どれも合わない。

しかし、他人のケツをまじまじと見るやつは、この世に存在しない、という確信を持つ私は、その日の気分で白を選んだ。
そして、ズボンを裏返し、ほころびを確かめた。
きれいなほころびだ。
迷いのないほころびと言ってもいい。

これを縫えばいいだけだ。
簡単ではないか。
ほころんだ部分を内側に巻き込むように重ねて縫っていけば、立派に修復できるはずだ。

よし、縫っていこう。
では、針に糸を通すか。
ん?

針の穴って、こんなに小さかったか。
これに糸を通すなんて、厳寒の北海道で満開のハイビスカスを探すより難しいのではないか。
みんな、そんなに目がいいのか?
マサイ族的な視力の持ち主ばかりなのか?

それはありえないと考えて、裁縫箱の中を覗いてみた。
ほとんどが説明のつく道具ばかりだったが、一つだけ見たことのない道具を見つけた。
薄い銀色の怪しい形をした、ペラペラの物体だ。
それは、頭でっかちの宇宙人のような形をした頭の部分に、細いわっかが付いていた。

これって、もしかして、いととおし?

細胞の死滅が激しい私の脳細胞でも、その道具の使い方は、すぐわかった。
いとも簡単に糸通しができたのだ!
これはすごい! 画期的だ! これを発明した人はエライ!
これがあればマサイ族的な視力がなくても、簡単に糸が通せる。

感動しながら、縫いはじめた。
断言するが、私は不器用である。
だから、丁寧に慎重に縫いはじめた。
ひたすら真っ直ぐきめ細かく縫っていった。

その間に、左手の指が10回以上、針攻撃の犠牲になった。
イテッ、イテテテッ・・・・・・
左手の親指が、まだ痛い(血がプツプツと地味に盛り上がってくる)。

10分以上かかって、縫い終わった。
不器用な人間が仕事を全うした。
なんとなく達成感があった。

ズボンを元に戻して、縫い口を見てみた。
うまくふさがっていた。

はいてみた。
ケツの部分に多少の違和感はあるが、これはすぐに慣れるだろう。
何度も屈伸してみた。
ケツに力を入れて屈伸をしたり椅子に座ってみたりしたが、破れることはなかった。

おそらく成功したと思われます。

しかし、その日の夕方。
ヨメが得意げに、私の前に紙袋を置いたのだ。

「これ、パパのスーツとほとんど同じ色のスラックス(死語?)見つけてきたの。あれ相当くたびれてたみたいだから、これと交換したら?」

袋を開けてみた。
確かに、生地の色がスーツの上着と似ているスラックスが入っていた。
上着と合わせてみても、違和感がほとんどない。
こんなにも合うスラックスがあったなんて、これは奇跡じゃないか!

だが、私は少しだけネガティブな感想を持った。

この20年間、私はヨメに服を買ってもらったことがない(自分でも買ったことがない)。
それなのに、久しぶりに達成感を味わった気分のいい日に、なぜこのように予期せぬことをする?

心の狭い私は、やや気分を害したのである。
だから、次の日は、自分で修復したズボンをはいて行くことにした。
ケツに、違和感はなかった。

よしよし・・・。

自転車にまたがろうとした。
高く足を上げて、颯爽と早い動作で自転車にまたがった。

その瞬間・・・・・。

ビリッ!
ビリッ、ビリビリビリ!

大惨事だ。

その結果・・・・・、
ヨメの買ってくれたスラックス。

はき心地いいですよ。
ホント。


人間は、人の好意は素直に受け取ったほうがいいということですね。



またひとつ賢くなった私だった。



相性の悪いやつ

2016-01-03 08:45:00 | オヤジの日記
あけまして おめでとうございます


唐突だが、誰にでも相性の悪い作家というのが、いると思う(いない?)。
私にとって、それは内田康夫氏だった。

友人から何冊か本を借りたことがある(ほとんどが無理矢理押しつけられた)が、毎回30ページ程度読むとため息をついて、本を閉じることを繰り返した。

何だこのフニャフニャした文体。
緊張感のない展開。

これは、本当にミステリーなのか? とミステリーは好きだが、読解力に乏しい私は毎回のように眉間にしわを寄せてページをめくったものである。

去年は、彼に借りた内田康夫氏の「上海迷宮」というのを何とか後半過ぎまで読み進んだが、残り80ページで我慢の限界を感じて、結末までは至らなかった。

内田康夫氏は超ベストセラー作家である。
その作品は、ドラマ化もされているらしい。
つまり、プロとして、人の鑑賞に堪えるものを書いているということだ。

しかし、私とは相性が合わない。
それは、相性が悪いとしか言いようがないものだと思う。

ベストセラー作家の作品が、面白くないはずはないのだ。
私の感性が、きっとおかしいのだろう。

海堂尊氏も、ベストセラー作家である。
医者でもあるらしい。
友人が彼の作品を絶賛していて、5年以上前、彼から「チーム・バチスタの栄光」を押し付けられた。
これも、相性が悪かった。

外国のミステリーのように比喩を多用している文体が、私にはすべて上滑りしているように感じられて、物語に集中できなかった。
この程度の話なら、余計な比喩を使わなければ、半分の文章でまとめられたのではないか。
そう思ってしまったら、ページをめくる手が、鉛のように重くなって止まってしまっのだ。

50ページも行かずに挫折した。

友人には、「楽しめなかった」と正直に言った。
すると、次に「螺鈿迷宮」というのを貸してくれた。

「これは、おまえ好みかも」と言われて読んだが、30ページで挫折。

友人は、今度は意地になって「ジェネラル・ルージュの凱旋」を貸してくれた。
「これは、俺が一番好きな作品なんだ」

しかし、20ページも行かずに挫折。

「何でだろうな」と友人。

文章に、無駄が多すぎるんだよ。
それが、ミステリーだと言われたらそれまでだが、もっとスッキリまとめられないのかな。
いたずらに文章をこねくり回した比喩は、自己満足にしか思えないんだが・・・。

それに対して、友人はあきらめ顔で言う。
「まあ、お前は、変わっているからな」

そうです。
私は、まぎれもなく変人です。

他にも、その友人は、音楽が好きな男だった。
それも、大御所ミュージシャンが好きだった。

例えば、さだまさし氏、松任谷由実氏、長渕剛氏、矢沢永吉氏、中島みゆき氏、小田和正氏、松山千春氏、井上陽水氏、吉田拓郎氏など。

「松任谷由実の新しいアルバム買ったんだけど、聞く?」
聞かない。
「矢沢永吉の新しいやつ、最高だよ。聞く?」
聞かない。

その人たちは、きっと今もいい曲を作っているのだろう。
しかし、その人たちの曲は、むかしアルバム一作をそれぞれ聴いて肌に合わないと感じたので、私としては一作で十分だと思った。
おそらく、これからも一生聴かないと思う。

相性が悪いからだろう。


我がおんぼろアパートの近所に、サクマさんという人がいる。
私と同じ自由業のようだ。

彼は、40歳から50歳前後の男の人を集めて、「DANCHU会」(男が料理を作る会)というのを作っていた。
会員は、10名を超えるという。

3年前まで、サクマさんに「Mさんも、入りませんか」と頻繁に誘われていた。
しかし、いつも断っていた。
10回以上誘われたが、その度に断った。

普通、2回誘って断られたら私なら諦めるのだが、サクマさんはしつこかった。
意地になったかのように、私を誘った。
だから、私も意地になって断った。

「俺、派閥は子どもの頃から嫌いなんですよ」
(我ながら可愛げのない言い方)

私より7つ年下の小柄で小太りの男。

彼は、私がランニングをしている姿を見て、「Mさんは、いつも走ってるから、そんなにガリガリなんですね」と言う。
そして、口を歪めて「貫禄ないですよ」と余計なことまで言うのである。

私が自転車の前カゴに買い物袋を満タンに詰めて走っていると、サクマさんは私を無理やり止めて、袋の中身を遠慮なく見るのだ。
そして言う。
「ずいぶん野菜が多いなあ。なに? Mさんは、ベジタリアンなの? ああ、違うの? ベジタリアンみたいな顔してますけどね」

中央線武蔵境駅前のマクドナルドで、一人のんびりコーヒーを飲んでいたとき、突然そばに立って、「自由業はいいですね。優雅ですね。なんか、そんな姿を見てると覇気が感じられませんね」と、自分も自由業のくせにサクマさんは言い捨てて去っていった。

近所を二人の子どもを連れて散歩していたら、「Mさんは、子離れしていないんですね。俺なんか、娘と出歩くことなんか、とっくの昔にやめてますよ。気恥ずかしいじゃないですか」と、サクマさんは胸を反り返らせた。

中央線武蔵境駅前のサイゼリアで得意先の人との打ち合わせを終え、自転車にまたがったとき、偶然出くわしたサクマさんが「あれ、Mさん、また自転車? Mさんって、健康ヲタクだねえ。百歳まで生きるつもり? あんまり長生きしたら奥さんに嫌われるよ」と、ぬかした。

私が、おんぼろアパートの外の歩道に立って、iPhoneで仕事先と会話をしていたとき、それを見ていたサクマの野郎は、「Mさん、iPhoneなんか使ってるの? Mさんって、もしかして、外国かぶれ?」と、ほざいた。

サクマさんは、何を? と聞いたら、俺はアンドロイドと答えた。
iPhoneがダメで、アンドロイドが外国かぶれでない理由は何?

OKストアで食料品を買ってレジで並んでいると、「あれ、Mさん、車がないのに、そんなに買って大丈夫かい? そんなに自転車に積める? 俺の車で運んでやろうか」とサクマが、7つ年上の私にタメ口で言った。

2016年1月1日の昼過ぎ、ランニングを終えて、小金井公園のベンチで日向ぼっこをしていたとき、サクマが通りかかって、私の姿を見ると「アハハハ、暇だねえ」と笑いやがった。

新年から殺意が芽生えた。
(おまえ、俺の後をつけて行動を監視しているのか?)



こんなふうに相性の悪いやつがいたとき、みなさまなら、どうしていますか?


顔は痕跡が残るからNGでしょうが、さりげなくボディに右フックをお見舞いするというのは、いけませんか?




この二日間、右のボディフックの練習をしている私は、間違いなく変人だと思う。