この夏、ヤフーのトップページで、頻繁に目にしたタイトルが「怪物清宮」だった。
最初は、「進撃の巨人」と同じ系譜だと思ったが、これはすぐに「江川の系譜」だな、と気づいた。
「江川の系譜」とは、頭が硬直した日本のスポーツ・マスコミが、ただ少し普通の高校球児より早い球を投げるだけの人間を差別化するために「怪物」と名付けたのが始まりだと私は認識している。
同じような系譜に「レジェンドの系譜」というのがあって、スキー・ジャンプの葛西紀明氏を海外メディアが「レジェンド」と呼んだ記事に丸ごと乗っかって、それ以降、むかし少し活躍した人さえも「レジェンド」と呼び始めるという白痴的な現象が、今もスポーツ・マスコミの世界で続いている。
他に「男気の系譜」というのがあって、これは、広島カープの黒田博樹氏の日本球界復帰から端を発して、少し浪花節的なことをした人は、みな「男気」で括られるという現象だ。
(これは、黒田博樹氏を貶めているわけではない。一級のメジャーリーガーだった黒田氏の決断は、メジャーリーグと日本プロ野球機構の歴史を変えたと私は思っている)
私は高校野球とプロ野球に無知なので、「怪物」と名付けられた人は、他に松坂大輔氏しか知らない。
高校球児だった頃の松井秀喜氏や清原和博氏、ダルビッシュ有氏、田中将大氏、大谷ナントカ氏は、「怪物」と呼ばれたのだろうか。
幼稚で刹那的な日本語しか扱えないスポーツ・マスコミなら、「怪物」を安売りしても不思議には思わないが。
「怪物清宮」は、投手なのか野手なのか。
あるいは、何歳なのか。
それは、私にとっては、どうでもいいことだ。
どちらにしても、高校球児の中で、少しだけ目立っているだけの人なんだろう。
私が、江川卓氏がスポーツ・マスコミから「怪物」と呼ばれたときに違和感を持ったのは、こんな理由からだった。
ただの高校生が、人より早い球を投げるだけで、それがなぜ「怪物」なのか。
これが、野球もサッカーもバスケットボールもプロ並みの技術があって、しかも学業も学校でトップなら、「怪物」と呼ばれる資格があるかもしれない。
たとえば、アメリカの大学生アスリートの中には、ベースボールの才能もあり、アメリカン・フットボールも一流、バスケットも一流でプロチームから誘われ、さらに学業も大学でトップクラス、という人が希にいる。
どちらが「怪物」に近いかといえば、そちらほうがより近いのではないだろうか。
だが、アメリカ・マスコミは、彼のことを「ホープ」とは呼ぶが「モンスター」とは呼ばない。
だから、普通の高校球児より少し早い球を投げるというだけで、江川卓氏のことを「怪物」と表現するのは、あまりにも陳腐で大げさすぎる、と私は思ったのである。
たとえば、江川卓氏が、高校時代一度も負けたことがないというなら、それは「無敵の投手」ということで賞賛に値する。
しかし、そうではないらしい。
大事な場面では、よく負けていたというのだ。
それを聞いて、弱い「怪物」だなあ、と私は期待を裏切られた気がした。
「怪物」が、そんなに簡単に負けていいのか。
それからの私は、日本のスポーツ・マスコミがアスリートを「怪物」と唱えたときは、彼のことを「平均的な選手より、ちょっとだけ上手な人なんだな」と思うことにしている。
だから、「怪物清宮」と言われても、期待はしない。
そんなことよりも、もしかしたら、本当の「怪物」というのは、野球しかできない、野球しか知らない、サッカーしかできない、サッカーしか知らない、フィギュアスケートしかできない、フィギュアスケートしか知らない10代のアスリートをおだてあげて、その全身に重圧をかけ続け、若い才能を潰し、潰れたら罵倒するスポーツ・マスコミのことではないか、と最近の私は思い始めているのである。
最初は、「進撃の巨人」と同じ系譜だと思ったが、これはすぐに「江川の系譜」だな、と気づいた。
「江川の系譜」とは、頭が硬直した日本のスポーツ・マスコミが、ただ少し普通の高校球児より早い球を投げるだけの人間を差別化するために「怪物」と名付けたのが始まりだと私は認識している。
同じような系譜に「レジェンドの系譜」というのがあって、スキー・ジャンプの葛西紀明氏を海外メディアが「レジェンド」と呼んだ記事に丸ごと乗っかって、それ以降、むかし少し活躍した人さえも「レジェンド」と呼び始めるという白痴的な現象が、今もスポーツ・マスコミの世界で続いている。
他に「男気の系譜」というのがあって、これは、広島カープの黒田博樹氏の日本球界復帰から端を発して、少し浪花節的なことをした人は、みな「男気」で括られるという現象だ。
(これは、黒田博樹氏を貶めているわけではない。一級のメジャーリーガーだった黒田氏の決断は、メジャーリーグと日本プロ野球機構の歴史を変えたと私は思っている)
私は高校野球とプロ野球に無知なので、「怪物」と名付けられた人は、他に松坂大輔氏しか知らない。
高校球児だった頃の松井秀喜氏や清原和博氏、ダルビッシュ有氏、田中将大氏、大谷ナントカ氏は、「怪物」と呼ばれたのだろうか。
幼稚で刹那的な日本語しか扱えないスポーツ・マスコミなら、「怪物」を安売りしても不思議には思わないが。
「怪物清宮」は、投手なのか野手なのか。
あるいは、何歳なのか。
それは、私にとっては、どうでもいいことだ。
どちらにしても、高校球児の中で、少しだけ目立っているだけの人なんだろう。
私が、江川卓氏がスポーツ・マスコミから「怪物」と呼ばれたときに違和感を持ったのは、こんな理由からだった。
ただの高校生が、人より早い球を投げるだけで、それがなぜ「怪物」なのか。
これが、野球もサッカーもバスケットボールもプロ並みの技術があって、しかも学業も学校でトップなら、「怪物」と呼ばれる資格があるかもしれない。
たとえば、アメリカの大学生アスリートの中には、ベースボールの才能もあり、アメリカン・フットボールも一流、バスケットも一流でプロチームから誘われ、さらに学業も大学でトップクラス、という人が希にいる。
どちらが「怪物」に近いかといえば、そちらほうがより近いのではないだろうか。
だが、アメリカ・マスコミは、彼のことを「ホープ」とは呼ぶが「モンスター」とは呼ばない。
だから、普通の高校球児より少し早い球を投げるというだけで、江川卓氏のことを「怪物」と表現するのは、あまりにも陳腐で大げさすぎる、と私は思ったのである。
たとえば、江川卓氏が、高校時代一度も負けたことがないというなら、それは「無敵の投手」ということで賞賛に値する。
しかし、そうではないらしい。
大事な場面では、よく負けていたというのだ。
それを聞いて、弱い「怪物」だなあ、と私は期待を裏切られた気がした。
「怪物」が、そんなに簡単に負けていいのか。
それからの私は、日本のスポーツ・マスコミがアスリートを「怪物」と唱えたときは、彼のことを「平均的な選手より、ちょっとだけ上手な人なんだな」と思うことにしている。
だから、「怪物清宮」と言われても、期待はしない。
そんなことよりも、もしかしたら、本当の「怪物」というのは、野球しかできない、野球しか知らない、サッカーしかできない、サッカーしか知らない、フィギュアスケートしかできない、フィギュアスケートしか知らない10代のアスリートをおだてあげて、その全身に重圧をかけ続け、若い才能を潰し、潰れたら罵倒するスポーツ・マスコミのことではないか、と最近の私は思い始めているのである。