リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

電話には出ない

2013-09-29 08:54:00 | オヤジの日記
携帯を持っていても電話に出ないという若者が増えた、という記事をネットで読んだ。

その記事では、「増えた」と書いてあったが、一般論を語るとき、「最近の若者は」という感情が入るから、本当に増えたかどうかはわからない。
増えたかどうかは、その記事を書いた人の主観だ。

「電話に出ない若者が増えた」という記事を書きたいために、その記事に合った事例だけを探している場合もあるからだ。

だから、私は「電話に出ない人がいる」という表現を使う。

その記事を書いた人が何を根拠にしているか知らないが、私のまわりの8人の同業者は、全員が「忙しいときは出ないよ」と答えている。
平均年齢45歳の男たち。
若者ではない。

その彼らが、今に限らず昔から「電話には出ないよ」と答えているのである。

「仕事が忙しいときの電話ほど、腹立たしいことはない」
「用のあるやつは留守電を入れるから、あとで、こちらからかけなおせばいい」
「つまんねえ用で電話をしてきたやつには、嫌みの一つも言ってやる」
そんな風に、お怒りである。

もちろん、私も「出ない派」だ。

電車に乗っているとき、仕事が押して邪魔をされたくないとき、料理をしているときなどは、たいていは出ない。

ディスプレイを見て、こいつなら長電話にならないな、と判断した場合は出るときもあるが、長くなりそうだったら、「悪いな、仕事中だ」と言ってすぐ切る。

緊急の用だった場合、留守電を入れてくれることが多いので、そのときは、留守電を聞いて判断する。
留守電を聞いても、緊急だと私が認めない場合は、そのままにしておく。

そして、状況が落ち着いてからかける。

たいていは、これで問題はない。


たまに、「何で出ないんだよ!」と怒る得意先がいるが、「申し訳ありません」だけで、言い訳はしない。

その一言で、出られない状況だから出られなかった、ということを暗にほのめかすのだが、それでも文句を言ってきた場合は、怒鳴るように「申し訳ありません!」と言えば、たいていは黙る。

私の場合は、出ないだけでなく、電話をかける回数も極端に少ない。

人が「何をしているか分からない状況」のときに、電話をかけるほどの「度胸」が、私にはないからだ。
私には、相手の状況を予想する想像力が、まったく備わっていない。
その予想できない状況の中で、相手の時間を私のために割いてもらう厚かましさも、私にはない。

だから、ほとんどすべてのことをメールで済ます。

メールなら、極端に相手の時間を奪うということはない。
空いた時間に、好きなときに、返信してくれればいい。

それで、何の不都合もない。

5年以上前から、私はそのように、得意先の方々、同業者、友人たちに宣言していたから、「無礼な電話」は、確実に減った。


だが、ただ一つ、そんな私のルールが通用しないところがある。

病院である。

高齢の母が、入退院を繰り返しているが、私は本当に緊急の用のときだけ、留守電を入れておいてください、他のことはメールでお知らせください、とお願いした。

だが、病院の事務の方や看護師さんは、それほど緊急の用でもないのに、電話をかけてくるのである。
できればメールで…、とお願いしても、「聞いてませんから」と拒絶される。

事務の責任者と看護師長さんに言っておけば伝わるかと思ったが、どうやら引き継ぎをしていただけなかったようだ。

他の方にも伝えていただけますか、とお願いしても、また電話がかかってくる。

私が、緊急でなければメールを…、と言うと「それ、聞いてませんから!」と逆ギレされる。

先日は、「洗濯物がたまっているので取りにきてください」という留守電が入っていた。

まあ、行きますけどね……、それはメールでもいいんじゃないんでしょうか。
それほど、緊急性はないみたいですけど。

私がそう言ったら、看護師さんが、大きな声で「病院からの電話は、みんな緊急です!」と言って、電話を切ったのである。


病院からの電話は、着信拒否をするわけにいかない。

勝手なお願いだというのは承知だが、もうすこし融通が利いてもいいのではないかと思う。


いま、かなりの「病院電話恐怖症」にかかっている私なのです。


キラーフレーズ

2013-09-22 09:07:00 | オヤジの日記
台風18号は、大きな爪痕を残して日本列島を過ぎ去った。

京都、福井など、被災された地域の方々には、心からお見舞いを申し上げます。

それとは少し話はそれるのだが、台風中継に関しての話をしたいと思う。

毎回のように、アナウンサーや記者が台風現場に出て、「目を開けていられないほどの強風です」「水位が上がって氾濫をしそうです」「波しぶきがすぐ近くまで来ています」などという報道方法をしている。

あれは、必要なのか。

「臨場感があって、いいじゃないか」と、すべての友人たちが言う。

しかし、私は言うのである。
アナウンサーや記者が、芸人のように体を張る必要があるのか。
映像と言葉だけで表現するのが、プロではないのか。
あれを「報道」というのは、違うのではないか。

「いや、ありのままの現場を伝えるのが報道だから、あれはあれでいい。視覚的に、とてもわかりやすい」

しかし、視覚的にと言うなら、映像と音声だけでも普通に伝わるだろう。
現場で、状況を叫ぶだけの報道は、最も安易な表現方法ではないのか。

あんな方法で、「こんな豪雨は初めてです」「危険が間近に迫っています」と言われたら、遠く離れた場所の災害が、ニュースの中だけの出来事だけのように思えて、私にはむしろ現実感がないのだが。

私がそう言うと、友人たちは、「それは、お前のイマジネーションが乏しいからだよ」と口を揃えて言うのだ。

イマジネーションの乏しさ。
それが、キラーフレーズ(殺し文句)になったら、あとは何も言えなくなる。


他のことでも、まったく友人たちと意見の合わないことがある。

みのもんた氏の子どものことである。

彼の子どもが、「容疑者」と呼ばれる事件があったようだが、年を調べると、30歳を過ぎているというではないか。

定職を持った30歳過ぎの息子。

彼が何がしかの犯罪を犯したとしても、親を引き合いに出すのは、お門違いだろう。
私は、そう主張した。

しかし、友人たちは、「いや、親の責任は大きい。みのもんたは謝るべきだ」と言うのである。

私は、みのもんた氏が出演する番組は「学校へ行こう」以外見たことがない。
だから、特別ファンというわけではない。

彼を擁護するつもりもない。

ただ、誰が対象でも、子どもが不祥事を起こしたら、謝らなければいけない年齢は、未成年までだと私は思っている。
成人して、しかも定職に就いている身であれば、それは社会的に「立派な大人」だと判断していい。

その大人が犯した犯罪は、「彼だけ」が背負えばいいことだ。
親は、その「巣立った息子」のことまで背負う必要はない。

成人して定職に就き、独立した人格になった子は、親にとって「分離した家系」なのだ。

親として、「分離した家系」にまで責任を問われるのは、「子の自立」の観点からすると、どこか「いいがかり」の感が拭えないのである。

なんで、無理に親に謝らせる?
それは、マスコミの悪しき伝統によるものではないのか。

とりあえず、弱った人を叩く。
言い訳のできない状況で叩けば、溜飲が下がる。

相手が大物であればあるほど、その「快感」は強い。

だが、それって、ただの「いじめ」じゃないのか……。

今まで、色々なしがらみの中で守られていた人が、身内の不祥事で弱い立場に追い込まれる。
それまでは、「強いものになびく行動」をとっていた人が、手のひらを返して、「弱点を持った人」を叩く。

まったく「いじめの構図」と同じ。

そして、「犯罪」という分かりやすい構図しか目に留めない人は、感情的に「けしからん」としか思わないのである。
感情だけを前面に出されたら、「ああ」と言うしかない。

繰り返すが、30過ぎの男は、親とは分離したものだと私は思っている。

だから、彼が犯した罪は「彼のもの」。
親とは関係がない。

世間とマスメディアが「裁判所」になるのは、おかしい。
私が言いたいのは、そこだ。

「まあ、有名税だから、仕方ないよな」
したり顔で言う友人たち。

有名税。
これが、キラーフレーズ。

反論はできるが、深く掘り下げるほどの話ではないので、この話は終了。


他に、宇多田ヒカルさんのツィッターの話題も出た。

彼女がマスコミ恐怖症になっている、というのである。

「先日、週刊誌の記者に突撃されて『一週間家に張り着いて尾行してた』と言われ色々変な質問されたけど、なんかもう怖くて気持ち悪かったので一言も答えなかった。今までは何されても『彼らも仕事だし』と流してたけど、今回の一連のことで完全にマスコミ恐怖症になってしまった」

「マスコミに対する気持ちが変わったのはママの出棺の時。ある程度覚悟して助手席に座ったけど、まさか報道陣が霊柩車の前に立ちはだかって出棺を妨げてまで私を撮影すると思ってなかった。死者への冒涜だよ…」

マスメディアは、事実を知らせるのが仕事で、悲しみに打ちひしがれた人に恐怖を与えるのが仕事ではない。
それでは、体罰を「愛のムチ」などと強弁する輩と同じレベルの人間になってしまう。

相手の身になって考える。
金を貰って仕事をしている以上、最低限のルールは守らなければならない。

それができない人は、ただの「鬼畜」だ。

私がそう言うと、「そうそう、だからあいつらマスゴミは……」と皆が同調してくれた。

この場合のキラーフレーズは、「マスゴミ」。
だから、話がそこで終わるかと思ったら、「マスゴミ」「マスゴミ」と、友人たちのうるさいこと。

この場合、「マスゴミ」は、キラーフレーズというより、「酒の肴」と言った方がいいかもしれない。



ちなみに、私はマスゴミという表現には、違和感を持っています。



お払い箱と日本の恥

2013-09-15 08:00:00 | オヤジの日記
プロ野球のことは、よく知らないのだが、ヤクルトのバレンティン選手が大活躍らしい。

ヤフーのトップページの見出しによく出てくるので、中身は読まないが、たくさん打っている、というのは認識している。

これほどのホームランを量産できるのは、特別なアスリートの証だ。
文句のつけようがない。

ただ、文句を付けている人が、専門家の中に何人かいるようだ。

「王の記録が破られそうじゃん。オレは面白くない。アメリカのメジャーのお払い箱が…。日本の恥だよ。破られるなら日本人に破ってほしかった」

野村克也氏の発言である。

もちろん、頭脳明晰な野村克也氏のことだから、この発言は、日本人選手の奮起を促すと同時に、バレンティン選手に敬意を表して言ったもの、と考えることはできる。

名監督、名解説者と言われた野村氏が、こんな素人のような発言を本心からすることはあり得ないからだ。

しかし、頭の悪い私は、言葉通りに受け取ってしまうのである。

「メジャーのお払い箱」
「日本の恥」

日本のプロ野球は、メジャーリーグとは別物である。
ルールはほぼ同じだが、組織が違う。

その記録は、まったく独立したものと考えた方が合理的だ。


メジャーで活躍できなくても、日本や韓国、台湾などで活躍できることがある。
しかし、できないこともある。

それは、その選手の努力次第ということではないだろうか。

バレンティン選手は、日本に来てたくさんのホームランを打てるようになった。
それは、彼が日本の野球を研究した結果だと思う。
パワーがあるだけで打てたわけではない。

それに対して、「お払い箱」「日本の恥」と切り捨ててしまう名監督の御発言は、あまりにも感情が勝ち過ぎて、私は興ざめする。
(ただ、野村克也氏と落合博満氏が、日本人選手として最多ホームランを打ったという事実は素直に評価する)

イチロー選手やダルビッシュ投手が、メジャーで活躍しているのを見たアメリカ人の中には「メジャーの恥」「日本から来たくせに」などと憤る人は多いかもしれない。

だが、それ以上に、彼らの活躍を賞賛する人も多いのではないだろうか。

バレンティン選手が日本に来てくれて、たくさんのホームランを見せてくれた。
日本人の誰もがなし得なかった大きな記録を打ち立ててくれた。

私は、そのことは十分に尊敬に値することだと思っている。

イチロー選手のシーズン最多安打、ダルビッシュ投手、上原浩治投手の快投をアメリカのファンやメディアが賞賛するのと同程度の尊敬の目を、バレンティン選手に向けることに何の不都合があろうか。

そして、「日本の恥」と言うが、勝負を逃げないでバレンティン選手に立ち向かっている「日本人」のピッチャーの方たちも私は同じように尊敬する。

彼らがバレンティン選手と勝負した結果、バレンティン選手が記録を打ち立てることができたからだ。

それは、「恥」でも何でもなく、正々堂々とした勝負の結果だと私には思える。
むしろ、誇らしいことだ。

メジャーに居場所はなかったが、才能はあるという選手を捜し出してきたスカウトの「プロの目」も賞賛されていいと思う。

パワーがあるからと言って、外人選手の誰もが活躍できるわけではない。
それを見極めることができる才能は、特別なものだ。

それらすべてを含めて、「大記録」と言っていいのではないだろうか。


言うまでもなく、本当のプロ野球ファンは、「メジャーのお払い箱が」などと言う狭量な人は少数派で、多くの人は、バレンティン選手の活躍を心から讃えていると思う。


私も「55本」を素直に讃えたいと思う。



トヨタのCM

2013-09-08 08:24:59 | オヤジの日記
よく意味がわからないCMがある。

以前からシリーズで流しているトヨタの「ReBORN」だ。

見るたびに、違和感が湧いて出る。

色々なタレントが出てきて、それぞれに役どころがあるようだが、何を言いたいのか、何を表現しているのか、まったくわからない。

特に、北野武氏と木村拓哉氏が、豊臣秀吉、織田信長の役名で出ているものなどは、ただ有名人を揃えたかっただけなのではないか、と勘ぐってしまうほど、お二人の良さが全く出ていない映像だ。

滑舌の悪い、こもった声で、超有名人がボソボソ喋るのを見ることによって、そこから何を感じ取ればいいのだろうか。

おそらく、彼らが行った場所に何か意味があって、そこから日本の再生を始めましょう、と言いたいのかもしれないが、それなら歴史上の偉人の存在はいらない。

信長は風習や文化を壊した人だし、秀吉は戦国武将の本能のままに、ビジョンなく領土を広げようとした人だ。
ともに天下統一という野心はあっても、野心の延長線上に、結果として「日本国」があったという意識しかなかったと思う。

新しい日本国を作ったという意味では、信長は最大の偉人だが、「再生」のシンボルではない。

ただ、時間的な制約のあるCMの中で、明確な意味を求めるというのは、野暮というもの。
お気に入りの俳優さんたちが出ている姿を楽しむだけでいい、意味なんかいらない、と捉える人の方が多いだろう。

どうせ、30秒程度で終わってしまうのだから。


しかし、今回のCMを見て思ったことがある。

北野氏、木村氏は、あんなに滑舌が悪かっただろうか、ということ。
(私は北野氏、木村氏の演じる姿をほとんど見たことがないので、意外だった)

あれは、演出なのだろうか。

くぐもった声でボソボソと喋るから、余計滑舌が悪いように聞こえるのかもしれない。

私は、個人的に、プロの俳優は明瞭な発音で聞きやすい声で演じるべきだと思っているので、不明瞭な台詞を受け付けないところがある。

だから、このCMに違和感を持ったのかもしれない。

うまい、と思われている俳優さんでも、体の演技ができない人が多いような気がする。
感情を込めることを、ただ単に大声を出すことだと勘違いしている人が、意外と多い。
悲しみの表現は、ボソボソと呟くだけ、という場合も多い。

体の演技こそが重要なのに、場面を声の大小だけで表現しようとするから、重要な場面が「セリフ読み」だけで終わってしまう。

目と体で表現できない人を、「俳優」と呼んでいいのかどうか。


たとえば、若手の俳優さんでは、小栗旬氏、山田孝之氏、藤原竜也氏、神木龍之介氏、佐藤健氏などは、目と体の表現が上手いから、セリフが聞きやすい。

プロの俳優さんなんだな、と思う。


彼らが、信長、秀吉を演じたら、トヨタのCMに違和感を持つことはなかったかもしれない。


信長と秀吉は、たとえ密謀のときでも、あんな沈んだような声で喋らなかったと思うよ、それに、「再生」を謳いたいなら、もっとはじけた表現にしろよ、と私はあのCMを見るたびに毒づいている。


しかし、お二人とも、大物ですからねえ。

きっと、まだまだシリーズは続くんでしょうね。



まあ、嫌なら見なければいいだけのことですが。



ガッツリとガッチリ

2013-09-01 07:38:00 | オヤジの日記
ときどき、面白いな、と思う話を目にしたり耳にしたりすることがある。

かなり前のことだが、仕事が終わって寝る前の深夜、Youtubeで昔のタモリ氏の芸を見終わって、パソコンを消そうと思ったら、なぜか「タモリ繋がり」の記事に、飛んでしまったことがある。

その中の文章に、誰かの「えっ、笑っていいともって、まだやっていたのかよ」というのがあった。
そして、「もう全然笑っていいとも、見ていないなあ。まだやっていたのか。興味がないから知らなかったよ」という文章が続いた。

その後の文章を読んで私は笑ってしまったのだが、文章を書いた本人は、その矛盾に気づかなかったのだろうか。

「だいいち、バナナマンの日村が出てる『笑っていいとも』なんか見たくないよ。あいつは、キモい」

バナナマンの日村氏が「笑っていいとも」に出ていることを知っているということは、少しは関心があるということだろう。
少なくとも、まだ「笑っていいとも」が放映されていることは知っていたことになる。

私も「笑っていいとも」は見ないので、誰が出演しているか知らない。
しかし、この文章の主は、「興味がない」と言いながら、日村氏が出ていることは知っていたから、私よりは「笑っていいとも」に詳しいことは間違いない。

それだけ知っていたら、たいしたものだと思う。


急に雨が降ってきた日。
ドトールコーヒーで雨宿りをしていたら、高校生と思われる3人が、村上龍氏と村上春樹氏の作品のことを話していた。

超ベストセラー作家の村上春樹氏はともかく、高校生が村上龍氏を読むというのが興味深くて、聞き耳を立てた。

「村上春樹は、日常的な出来事から自分の内面に入っていく展開が多い。村上龍は、ありふれた日常を打破して違う世界を築くのをテーマとしている。村上龍は攻撃的だが、村上春樹は内向的である」
極めて大ざっぱにまとめれば、3人は、こんなようなことを言っていた。

なかなか鋭い読解力だと思った。

「村上春樹の代表作って何だろうな?」
「海辺のカフカ、1Q84かな」
「じゃあ、村上龍は?」
「コインロッカー・ベイビーズ、ダンス、ダンス、ダンスかな」
「ああ、妥当なところだね」

惜しい、と思った。

「ダンス、ダンス、ダンス」は、村上春樹氏の作品でした。


中央線での会話。
30代の女性二人だった。

「この間のランチは、イタトマ(イタリアントマト)だったから、今回はガッツリしたものにしましょうよ」
「前回は上品すぎたから、今日はガッチリね」
「大戸屋の定食なんか、どうかしら。ガッツリしてると思わない?」
「ああ、ガッチリしてるわね。でも、昼間から焼き肉なんかはどう? これもガッチリしてるわよね」
「あと……バイキングはどうかしら? 好きなものをガッツリ食べられるわよ」
「ああ、それ、賛成! ガッチリ食べましょ!」

ガッツリとガッチリ。

意味はまったく違うが、会話としては成立しているようだ。


今朝方まで仕事をしたから、今日は寝不足だ。

ガッチリ昼寝でもしようかな(寝ている暇はないが)。


いや、この場合は「ガッツリ」の方が正しい………かな?