リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

あのときは済まなかったねえ

2015-09-27 08:22:00 | オヤジの日記
今年の5月から打ち合わせを十数回しているクライアントがいる。

11月に東京青山で開く個展の打ち合わせだ。

作品は水彩画と色鉛筆画。
ほとんどが東京の街の夕景を描いたノスタルジックなものだ。
大作はない。
大きくてもA2程度のサイズで、多くは一般の画用紙のサイズかハガキ大のものだ。

作品が溜まったら不定期に開催する個展だから、今回のは7年ぶりになるという。
その7年間に120点くらいの絵を描いたが、その中から今回展示するのは50数点だ。

私がお手伝いするのは、案内状とパンフレット。
案内状は、すでに校了になったが、パンフレットは作品選びが終わっていないので、進捗具合は3分の2といったところだ。

作家のキモツキ氏が何歳かは知らない。
おそらく私と同じ50代後半だと思うが、それを知ることに意味があるとは思えないので聞いたことがない。
プロの作家なのか、趣味でしているだけなのかも知らない。
出身も家族構成も知らない。

本人が話せばいくらでも聞くが、私はゲスな芸能レポーターではないし、ましてやいくら仕事とはいえ白痴的に失礼な質問をする雑誌記者でもないから自分からは聞かない。

そんなことを知らなくても仕事ははかどるものだ。
帰り際にいただく美味しいコーヒーが飲めるだけで、私は満足だ。


キモツキ氏の家は杉並の高井戸にあった。
高級住宅が立ち並ぶ一角に、氏の平屋建ての和風建築の家はあった。
もちろん部屋が何部屋あるとか、敷地面積が何坪などという下世話な話題も我々の間では出たことがない。
ただ、トイレが3畳以上の広さというのが、もったいないなあ、と貧乏性の私は思うだけである。

私ならここにパソコンとテレビ、冷蔵庫を持ち込んで、一生住み続けられる自信がある。

そのキモツキ氏の家にうかがうときは、京王井の頭線高井戸駅を降りて神田川沿いの遊歩道を歩く。
そして、途中で階段を上る。

大抵は、キモツキ邸にうかがうのは午前10時半である。
階段を上るのは、10時10分ころだろうか。

その階段を上ったところに、ベンチが一つ置いてあった。
住民にご老人が多いので、階段を上ったあとに休むためのものだと思われる。

そのベンチに、同じご老人ご夫婦が座っている姿を7月はじめまでに3回見た。
普通に並んで座っているときの他に、一度だけ手をつないで座っている姿を1回見た。
お二人とも80歳は超えているのではないか、と私は勝手に想像した。

それは、心温まる光景だった。
その姿を見るのが、知らないうちに私の楽しみの一つになっていた。

だが、暑い7月半ばから9月半ばまでは、その姿を見ることはなかった。
陽を遮るものが何もないので、暑い夏はそのベンチの利用者は少ないだろう。
ご老人なら尚更だ。

しかし、今週の木曜日に、久しぶりにご夫婦を見た。
過去3回と同じように、ベンチに並んで座っていた。

ああ、また会えた、と心が沸き立った。

そのとき、ご主人が奥さんに話しかけるのを聞いた。
今までは、おふたりが会話する姿を見ていなかったので、小さな驚きがあった。

聞くつもりはなかったが、勝手に会話が耳に入ってきた。

「あのときは済まなかったねえ」
ご老人にしては、よく通る芯のある声だった。

「あのときって、いつでしょうか?」
奥さんの声も明瞭な発音で活き活きとして聞こえた。

「ああ、せがれの小学校の入学式だよ。僕が忙しくて行けなかった。悪かったと思っているよ」
「そうですか。でも心配なさらないでください。タモツにはよく言って聞かせましたから。あの子は賢い子ですから、すぐにわかってくれました」

このご夫婦の息子さんなら、小学校の入学式は40年以上前になるだろう。
しかし、ご主人は「あのときは」と、まるで最近のことのように言ったのである。
それに対して、奥さんはすぐに思い出を息子の入学式まで巻き戻して「大丈夫ですよ」と言ったのだ。

お二人の会話が聞こえたのは、そこまでだった。
「すぐにわかってくれました」の声を聞いたすぐあとに、私が角を曲がってしまったからだ。

40年以上前から引きずっていた後悔を奥さんに謝り、それを何ごともなかったように受け入れて夫を安心させる奥さん。

歩いていて、こみ上げてくるものがあった。

一分に満たないシーンだったが、良質なドラマを見ているような濃厚さがあった。

きっと、このようなドラマは日本中、世界中で数限りなく繰り返されているに違いない。


そう考えたとき、こんな平和で穏やかな情景が、これからも当たり前のように続いていく世の中であってほしい、と強く思った。
強く願った。



戦争ゾンビ

2015-09-20 08:10:00 | オヤジの日記
当然のことのように、安全保障関連法案が可決された。

全有権者の25パーセントの投票を得て衆院の4分の3を自民党が占めたときに、結末は決まっていたようなものだ。
だから、驚きはなかった。

ただ、国民の強い抵抗は意外だった。

安倍晋三氏に、多大な議席を与えて「自民党万歳」と唱えている人の声の方が大きいと思っていたからだ。

特に、高校生や大学生が行動を起こしたことに関しては、まったく予想していなかった。
それは、嬉しい現象だった。

昔から私は、権力に楯突く人が好きだった。
権力者は批判されるべきだ。
そうでなければ、己の力を過信して自分が「万能の王様」だと勘違いをしてしまう。

ただ、若者がデモに参加したことに異論を唱える人もいる。
毎日新聞のサイトで、松本人志氏が、若者たちのデモ参加に対して、「ニュースに誘導されている」とコメントしたという記事を読んだ。

しかし、それは違うだろう、と私は思った。

たとえば、自民党の支持者の何割かは、毎回の選挙で、自民党議員の利益誘導によって自民党に投票している。

そして、公明党の支持者は、宗教の教義に誘導されて律儀に票を投じ続けている。

あるいは、形は変わるが、ヘイトスピーチなども自民党タカ派たちの近隣諸国に対する威勢のいい排他的な発言に誘導されているのではないか、と私は疑っている。

そんな風に、同じようにみな誘導されているのだから、若者だけを批判するのはお門違いというものだ。

また、同じ松本人志氏のコメントで「日本は平和ボケ。中国の脅威を考えたら」というのが、J-CASTニュースに載っていた。

私は、その種の指摘を毎回理解できないでいるのだが、平和ボケの何がいけないのだろうか。

地球上の200以上ある国の中で、平和を享受している国は数えるほどしかない。
その平和な国は、賞賛されこそすれ、「平和ボケ」と嘲笑われる謂れはない、と私は思うのだ。

平和ボケを論ずるとき、私の友人の自民党支持者は、「自分の国は自分で守るのが本筋だ」と言うのが常である。
そして、「他の国に助けてもらうにしても同盟国と対等の装備を持つべきだ」とも言っていた。

この場合、対等の装備を持つことは、イコール憲法違反なのだが、そのことはとりあえず保留しておく。

日本は、この70年間、どこからも攻められず、一人も殺さず、一人も殺さなかった。
それは、55年間続いた日米安全保障条約があったからだ。
60年安保、70年安保では国内で暴動に近いデモが起こったが、その熱いデモが、タカ派政治家にブレーキをかけて、憲法を守るための重しになったと私は思っている。

条約は、国家間の契約として一番重いものである。

その中に、「日本は防衛力を向上させる」というのがある。
「攻撃力」ではなく「防衛力」。
つまり、アメリカは、日本は専守防衛の国だと定義している。

そして、日本に駐留したアメリカ軍は、他国から日本へ武力侵攻があった場合は、援助するということも定義されている。
その代わりに、日本は、アメリカ駐留軍に土地を与え、予算も計上している。

本当はもっと複雑なのだが、単純に考えれば、日米同盟は「持ちつ持たれつ」の関係といっていい。
その「持ちつ持たれつ」で、長いこと日本は「平和ボケ」と嘲笑われるほど平和を享受できる国になった。

それを意図的に否定することに意味があるのか。
紛争国の国民は、みな平和を願っていると私は思っているのだが。
平和は、紛争国の人にとって、嘲笑う対象のものではないだろう。

だから、「平和ボケ」と日本国民を一刀両断する意味が、私には理解できないのだ。


日米安全保障条約は、幕末の不平等条約とは違って、対等の国家間契約である(細かい部分では無理もあるが)。
つまり、フィフティ・フィフティの関係。

今回、集団的自衛権を容認したことで、日本側は紛争地域に人を派遣し、武器を供給することになるかもしれない。
そうなると、それはフィフティ・フィフティではなく、間違いなく日本側の供給過剰になる。
安倍政権と自民党支持者、平和の党・公明党支持者たちは、日本が損をする道を選んだということだ。

そして、紛争に足を踏み込んだ結果、テロに遭う確率も今までのように無風というわけにはいかなくなるだろう。
血の匂いのする風が、我々日本国民の肌を撫でることも増えてくるに違いない。

そうなると、70年続いた平和国家に導火線を引き込んだ政治家たちは、もう国会で居眠りなどしていられなくなる。

そして、私はそのことを危惧しているのだ。
神聖な職場で居眠りをする「平和ボケ」の与党政治家が、はたして有事に役に立つものなのか。
私は、そこに疑問を感じている。


いま「中国の脅威が」という、いかにも具体性のありそうな、しかし曖昧な危機感を自ら大脳皮質に埋め込んだコメンテイターや政治評論家、軍事評論家が、「平和ボケ日本」を嘲笑し、扇動している。

中国を仮想敵国にするのは構わないし、「近隣諸国の資源は、みんな俺のもの」的な横暴な中国を牽制するのはいいが、「はじめに武力ありき」の政策が、外交上手の中国に通用するかどうか、私は疑問を持っている。

かつてアメリカは竹島が韓国に占領されたとき、何もしてくれなかった。
色丹島がソ連に占領されたときも見て見ぬふりだった。

中国を仮想敵国として、その敵国が「日本海は俺のもの」と言い出したとする。
そのとき、安倍氏率いる有事政権が「自国を守るため」に、軍隊を進行させたとき、後ろを見たらアメリカは横を向いていた、という事態にならないとも限らない。

それは、馬鹿げた「仮定の話」だが、安全保障関連法案、集団的自衛権で自民党と公明党が想定するものも、同じように「仮定の話」なのである。

そして、そのことは、74年前、「もしアメリカが侵攻してきたら」という「仮定の話」をプログラムし間違えて、「日本軍」が真珠湾を攻撃した歴史と不思議なほど似かよっている。

当時、外交よりも武力を選んだ軍人たちのDNAが、70年の時を経て、自民党タカ派政治家たちに受け継がれるという滑稽さは、平和ボケよりはるかにタチが悪い。

それを私は「戦争ゾンビ」と呼んでいる。


この生き返った戦争ゾンビたちは、日本をいったいどこへ連れていこうというのか。



激情するひと

2015-09-13 08:49:00 | オヤジの日記
民主主義を勘違いしている政治家がいた。

橋下徹氏が明らかに「言いがかり」的な発言をした記事を読んだ。

橋下氏が「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ? こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」などと批判した。

誰もがわかるとおり、それは、まったく見当違いな感情的意見だ。

デモは、法律で認められている国民の権利。
だから、国民の意思として、デモに参加する。

つまり、法に則って自分の意思表示をすることは、全ての国民に与えられた権利であり行為だ。

その数が国民の何パーセントなどと否定的に語るのは、権利の意味がわかっていない人の言い分だ。
さらに、本人は気の利いたことを言ったつもりだろうが、サザンオールスターズのコンサートを出す意味がわからない。

当たり前のことだが、サザンオールスターズのコンサートは彼らの音楽を楽しむためのものであって、ほかの何物でもない。

それは民主主義とは、まったく関係ない。
たとえとして意味を成していない。

国民が国民の権利として、デモに参加する。
その数をパーセントで語ることに意味はあるのか。

5千万人がデモに参加しなければ、そのデモは意味がないとでも橋下氏は思っているのだろうか。

数字を言うなら、先の総選挙で自民党が小選挙区で得た票は、全有権者の4分の1の比率だった。
その25パーセントの票で、自民党は小選挙区全議席の4分の3を獲得した。
そんないびつな比率が民主主義なら、国会前や新宿の歩行者天国に集まった多くの人の姿は比率が少なくても、明らかな民主主義といっていいのではないか。

民主的なデモに対して反発したいなら、橋下氏には「俺は国民が自己主張するデモが嫌いなんだよね」とキッパリと言ってくれた方が、私には遥かに納得しやすい。

橋下氏は政治家だから、反対勢力の圧力が怖いのだと思う。
デモというのは、間違いなく政権に対するアンチテーゼだ。

橋下氏は、いま小さな世界で政権を担っているが、その小さな世界でさえアンチテーゼが負担になって、デモの群衆に対して自分の身に置き換えて、恐怖を感じているのではないだろうか。

「反対」の声を恐怖に感じているのが、今の橋下氏。

しかし、彼の本来の出処は法律家ではなかったか。
その法律家が、国民に当然与えられた権利をパーセントを引き合いに出して反発することに、私は幻滅を感じたのだ。

感情論が激しすぎる橋下氏は激情型(あるいは劇場型)弁護士としては役に適っていたかもしれないが、政治家としては、ただ声がでかいだけの大根役者なのではないかと、今回の彼の談話を聞いて私は思った。


話は飛んで、もう前のことになったが、国連事務総長が中国の抗日戦勝70周年の催しに参加したというニュース。

日本政府は、そのことに対して異議を唱えたというのだが、私は彼のこの行動に関して全く驚かなかった。

国際連盟という機関は、国家間の問題に中立の立場を取るのが建前かもしれないが、事務総長の国籍を考えたとき、彼は中国に対して事務総長としてではなく、個人的に「戦友」という感覚で中国と接しているのだと思う。

だからきっと、他の国が同じことをしても、彼は参加しなかっただろう。
中国だから参加した。

「戦友」だから。

建前の「中立」などより、戦友の祝い事に参加する事の方が重要という「私的行動」に出たとしても、彼にとってそれは何の矛盾もない行為のはずだ。

もともと国連というものの立ち位置が曖昧なのだから、事務総長だろうが、理事だろうが事務員だろうが、彼らがそれぞれ「私的行動」に出ても、各国の力学的な関係はあまり変わらないという現実がある。

各地の紛争地域は、国連の議決、要望など気にも止めずに、武器を構え続けているのが現実だ。

いま国連は国際紛争の他に、人権に関しても、はかばかしい成果を上げていない。
今の国連は、国家間の自己満足のサークル、同好会のようなものになっている。

各国からの多額の分担金をただ消費する、形式だけの「優良機関」になっている。
言葉を変えれば、加盟国が「自分のところは、世界にちゃんと貢献しているんだよね」という「言い訳」を世界に配信するための道具になっている。

だから、その程度の機関の代表者が、公私混同で中国に恩を売ったとしても、何の不思議もない。
彼は、とりわけ感情が豊富で、それを制御するのが難しい激情型の国に生まれた人なのだ。

大国になびくことは、自分のためにも自分の国のためにも優先すべき事項である、という彼の個人的な激情は、かの国ではごく普通の情景だと思う。

人が、己の激した感情に勝つのは極めて難しいことだ。


そして、橋本徹氏とパン・ギムン氏は、自分のことを最高クラスの頭脳を持った人だと思っているだろうから、たとえ、激した言動や行動に出たとしても、自分にはそれを「言い訳」できる能力があるとも思っているのではないか。

だから、自信過剰気味な激情する人に、何を言っても絶対に伝わらない。

ただ、感情的な反論が返ってくるだけだ。


ようするに、彼らの肩書きが消えるのを待つしかない、ということだ。


臆病な男たち

2015-09-06 08:16:00 | オヤジの日記
長文で、失礼します。

菅義偉官房長官が、「安保反対は大きな誤解」と述べたという。

その記事を見て、本来は、誤解を与える方が悪いのではないかと私は思った。

最重要法案なのだから、法案を出した政府は、反対派の人たちに、その法案が日本国民に益があることをわかりやすく説明する義務がある。
その義務を政府側が果たしていないから、今いろいろな場所で国民が反対のデモをしている。

マスコミや有権者が「戦争法案」だと煽っているから誤解を生んでいるというなら、その誤解を解く努力をするのも政府の役目である。
「大きな誤解」などと、まるで反対する国民の方が悪い、というような奢った言い分は、森喜朗氏が五輪エンブレム盗用疑惑で「えらい目にあった」と他人事のように嘆くのと同様で、責任の意味がわかっていない。

また、菅氏は記者会見のとき、なぜいつもあんなにやる気のない声で、仏頂面で話すのだろう。
おそらく日本の政治家特有の本心を悟られたくないための「仮面」なのだろうが、たとえば、中国の女性報道官の堂々とした態度と比べると、その姿は私には器が小さくて臆病者に見える。


他にも高村副総裁の言う「私は大抵の憲法学者よりも考えてきた」の一見強気に見える発言も、私には痛々しく思える。

「大抵の憲法学者」の「大抵」は、あまりにも曖昧すぎて、最初から逃げを打っているとしか思えない。
揚げ足を取るようだが、自信があるのなら「安保法案を違憲と唱える全ての憲法学者」と言って、正々堂々と憲法学者たちの主張を論破すればいい。

頭のいい政治家先生なら、それくらいは出来て当然だろう。
全部の憲法学者とは言わないが、ぜひ「大抵の憲法学者」を国会に呼んで、論争を延々と繰り広げていただきたいと思う。


さらに、安部総理の言う「憲法学者と政治家の責任は違う」という、誰もが当たり前に思う主張の馬鹿馬鹿しさ。

政府が暴走しないように、憲法を遵守させる権利を国民は持っている。
そして、政治家は憲法の条文を拡大解釈していい権利を持っているが、承認するのは政治家ではなく国民である。
なぜなら、主権は国民にあるからだ。

選挙で選ばれた政治家は、政(まつりごと)を司る権利を国民と憲法から与えられているが、最後に審判するのは国民と憲法だ。
そして、当たり前のことだが、憲法学者も選挙権を持った国民なのである。

憲法学者が日本国民として、己の知識を昇華させて、政府の法案に異を唱える。
それは、憲法学者が彼の「責任」を全うして政府に問いかけているものである。

憲法学者がそうして「責任」を全うしようとしているのに、安倍氏が「俺たち政治家と憲法学者は違うんだよね」というのは、明確な「逃げ」ではないのか。

お互いの責任が違うのは、当たり前のことだ。
しかし、憲法学者たちが投げたボールをなぜか安倍氏は「違う」と言って取ろうとしない。

要するに、最初から議論する気などないのではないか。


負けるのが怖いから。


これは、私一人の感想だが、憲法論争に関して、安倍氏は臆病だと私は思っている。
覚悟があるのなら、憲法改正を国民投票にかけてみたらどうだろう。

3年前、負けを覚悟で野田元首相が総選挙に打って出たように、安倍氏も真正面から憲法改正を国民に問う覚悟が欲しい。
勝ち戦しかしたくないなら、国会のてっぺんから降りるべきだ。

彼が、安全保障関連法案にこだわる理由はわかりやすい。
世界の警察として、最近とみに衰弱してきた米国の手助けをしたくて仕方ないのが安倍氏の本心ではないのか、と私は邪推している。

だから、彼は負けるわけにはいかないのだろう。
日米同盟を今以上に強固なものにすること、米国に恩を売ること、それが安倍政権を長期化させる最大の方法だと彼は思っている。
彼の保守的な支持者たちも、無条件に盲目的にそれが当然だと思っている。

拙速を求められる安倍氏は、憲法学者の相手をしている余裕がない。
そして、国民の予想外の反発の相手をしている余裕もないのだろう。

だから、前回の選挙で「俺の政党にたくさんの議席を与えてくれたのは、俺にフリーハンドを与えたのと同じだ」と解釈して、問答無用で強行突破するつもりなのだと思う。

公明党という、肝心なときには物を言わない「平和の党」を標榜する政党も味方をしてくれていることだし。

そして、反対派の情緒的な反発など、法案が通れば跡形もなく消える、と高を括っているに違いない。
自民党と公明党が絶対多数を持っているいまこそ、躊躇なく「数と力こそが民主主義だ」の方式を貫くつもりだ。

そこには、権力者にとって、いくらでも肥大化させられる安全保障が、いびつな形でそびえ立っている。
それは、「戦争法案」ではないだろうが、少なくとも今までの日本より、はるかに火薬臭い日本に変化させる法案だ。

安倍晋三氏が政権のトップに立ったときから、この国は少しずつ火薬臭くなってきたと思っていたが、彼らは導火線を消すために立ち上がった人たちを「誤解」という言葉で糾弾し、議論を封じようとしている。

ただ、そんな自民党、公明党を選んだのは国民というのも紛れもない現実だから、それも民主主義の法則だと諦めるしかないのか。

一度火薬に火がついてしまったら、後に戻るのが容易ではないことは、過去の紛争、大戦が証明していると思うが。



最後に、自民党総裁選に関して、興味深いニュースを読んだ。

男の政治家たちが、安倍晋三氏の力に屈して、誰もが総裁選の立候補をやめようとしているとき、野田聖子氏が立候補の準備をしているというのだ。

男たちの誰もが、安倍氏の報復を恐れて及び腰のときに、立候補を計画している女性議員の存在は頼もしい。

おそらく結果的には、男の政治家と男社会の世論の風圧にさらされて立候補を断念、というのが現実的な選択になると思うが、その勇気は賞賛されるべきだと思う。


私には、今や政治の世界では、「男らしい」は、「臆病」の代名詞で、「女らしい」という表現が、「勇気」の象徴になっている気がしてならない。