リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ヒョロヒョロ

2017-12-31 07:02:00 | オヤジの日記

今年も人から尊敬されない一年だった。

 

たとえば、私のヨメは、昔から私の話を聞かないという小さな欠点を持っていた。

その日あった出来事を話しても、話の5分の1くらいで、必ず話の腰を折るのだ。

私が話しだすと、「あー、床が汚れてるー、掃除機かけなくっちゃ!」

話をまともに聞いてもらったことがない。

だから、それを学習した私は、最近では、短いセンテンスで話を伝えることにしていた。

今日は、東京新川と神田で打ち合わせ。

「わかったわ」

しかし、家に帰ると、「あれ、どこに行ってたの? ジョギング?」

スーツ姿で、ジョギングをする人は、かなり少ないと思う。

つまり、尊敬されていない。

 

27歳の息子は、去年までは、私のことを「パパ」と呼んでいた。

しかし、今年からは「ちゃん」だ。

2階級ランクを下げられた気がした。

22歳の娘は、小学4年頃から、私のことを「おまえ」と呼ぶようになった。

ただ、二人で外に買い物に行ったり、映画を観にいったりしたときは「お父さん」と呼ぶ。

「仕方ないから呼んでやっている」感が、半端ない。

つまり、尊敬されていない。

 

今年の3月から家猫になったブス猫の「セキトリ」は、最初の頃は、私の膝に乗るとき、「膝に乗ってもよろしいでしょうか」というように私を見上げ、私の顔を窺ったあとで膝に乗った。

しかし、いまは、いつの間にか乗っていた。気がついたら、乗っていた。仕事中も、当たり前のように私の膝に乗っている。

そして、夜中、私がヨガマットという名のベッドに寝ているとき、私の股間を踏んづけて乗り越えていくのである。

彼も尊敬していない。

 

長年の友人の尾崎、極道コピーライターのススキダ、大学時代の後輩カネコは、私のことを「おまえ」と呼ぶ。

私の方が2歳上なのに、敬おうという気がない。

尊敬されていない。

カネコの娘ショウコは、最近1か月に1度、2人のガキを連れて国立までやってくる。

そして、ロイヤルホストで高級料理を食わせろと脅すのだ。

さらに、「あれ? 国立にもダイソーがあったんだぁ!」と言いながら、グッズを10点以上買うのである。

100円ショップと言っても、100円ばかりの商品が置いてあるわけではない。200円や400円のものもある。ショウコは、その100円ではないものを重点的に選んで、私に「払って」と命令するのが常だ。

私を尊敬していたら、そんなことはできないはずだ。

 

テクニカルイラストの達人、アホのイナバが私に言った。

「Mさんの字って、ネズミが這ったような字ですよね」(イナバ君、それはネズミではなくてミミズだよ)

静岡で社長様をやっているリブロースデブのスガ君が言った。

「アニキ、俺、最近苦労しているせいでしょうか、白髪が増えてきたんですよね。俺も将来アニキみたいになるんでしょうかね。あー、やだな、それは嫌ーーだな」

おまえらも尊敬してないだろ。

 

そして、一番、私を尊敬していないのは、この女だ。

大学時代の女ともだち、長谷川邦子の養女・27歳の七恵だ。

「マッチんって、大人の男って感じがしないよね。貧相で貫禄がないし、ただのヒョロヒョロだもんね、キャハッ!」

 

 

ということで、来年の私は、人から尊敬されることを諦めた。

 

この星には、ドナルド・トランプと金正恩という世界で最も尊敬されていない指導者がいて、この星を混乱に陥れている。

最近の私は、この二人よりもましな人間なのではないかと思うようになった。

 

だから、私は尊敬されなくてもいい。

 

All we are saying is give peace a chance .

 

ピースとともにあらんことを。

May the peace be with you .

 

ちなみに、私の仕事納めは今日。仕事始めは明日。

ヒョロヒョロがキャハッ!

 

 

よいお年を。

 

 


実在してる?

2017-12-24 07:09:00 | オヤジの日記

唐突だが、私が美人だと思う女優さんは、1.柴咲コウ様 2.仲間由紀恵さん 3.竹内結子さんだ。(異論は承知のうえで言うが、4位はベッキーさん)

 

さらに、話は飛んで・・・。

昔、私はよくテレビ局に出入りしていた(俳優をやっていた・・・嘘ですが)。

NHK、テレビ朝日、テレビ東京。

ドラマなどで使う小道具を作っていたのだ。

たとえば、学園ドラマで使う教科書、教室内の掲示物など。刑事ドラマで使う架空の新聞、週刊誌、喫茶店内や警察署内のポスターなど。あとは、歴史再現ドキュメンタリーで使う部屋の壁紙やセピア色の写真など。他にBSの科学番組でオープニングに使う宇宙衛星の3DCGを作ったこともあった。

テレビ局の下請けをしていた会社から、仕事をいただいていたのである。つまり、孫請け。

当時、フォトショップやイラストレーターのバージョンが驚くほど若い番号のものを使っていた。

当時は、コンピュータで、その種のものを作る人が少なかったので、重宝された。

 

テレビ局に行くと、色々な芸能人の方をお見かけした。

今は大物になられた岡村隆史氏は、とても静かな人だった。

RIKACOさんは、テレビ局のスタッフでもない私に、たいへん丁寧に挨拶をしてくれた。

ルー大柴氏とテリー伊藤氏は、気さくな人だった。

市川染五郎氏は、とても礼儀正しい人だった。

亡くなられた逸見政孝氏は、とても明るい方だった。

萩本欽一さんと局の廊下ですれ違ったとき、ソファの角に脚をぶつけて転びそうになった。萩本さんは、それを見て「なんでコケないの。普段からコケとけば、本番に生きるのに」と真顔で言った。

ミュージックステーションで、酒井法子さんが歌う背景の飾りを作ったことがあった。収録をスタジオの隅で見たが、オーラがすごかった。まさしくスターだった(私は酒井さんのファンではないが、一度の過ちだけで、更生者の復帰を阻むようなことを言う人の気が知れない。セカンドチャンスを与えない社会は闇だ)。

 

3年以上、そんな仕事をいただいていた。

だが、仕事をいただいていた会社の社長が、何を思ったか、突然テレビ局の仕事を切ったので、それらの仕事が私まで回ってこなくなった。

それ以来、テレビ局の仕事はやったことがない。

とても刺激的な仕事だったから気に入っていたが、自分からは、どうすることもできないので諦めた。

あとで聞いたところによると、下請けの会社の社長が末期がんだったという。ほとんどの仕事が、社長の人脈で貰っていたものだから、社長がいなくなったら仕事が回らなくなることを見越して、仕事を断ったというのだ。

そういう事情があったのなら納得できる。

 

テレビ局にはもう行かなくなったが、東京で暮らしていると、有名人を見かける確率は、若干だが高くなる。

2年前、原宿でガッキーのお姿を見かけたことがあった。

娘と二人、「可愛いな」「可愛いな」と興奮した。

娘がいなかったら、抱きしめていたかもしれない(犯罪?)。

お台場で、滝川クリステルさんを見かけたことがあった。タクシーに乗る前のお姿だ。「お・も・て・な・し」。美しかった。

同じお台場で、仲間由紀恵さんを見かけたことがあった。車から降りたときのお姿だった。

娘は「トリック」と「ごくせん」が大好きで、それから仲間由紀恵さんを神と崇めるようになった。

仲間由紀恵さんが出ているドラマや映画は、全部観るほどの大フアンだ。

「キレイだな、キレイだな」と言いながら、ヨダレを垂らして観ていた。

そんな娘が、仲間由紀恵さんの生のお姿を見たとき、「あ、あ、あっ」としか言えなかった。

本当の憧れの人に出会うと、人は薄いリアクションしか起こせないようだ。

仲間由紀恵さんのお姿が消えたとき、娘が面白いことを言った。

「すげえな、仲間由紀恵って、実在していたんだな」

昨年、羽田空港で、竹内結子さんをお見かけしたことがあった。

サングラスをするわけでもなく、帽子などもかぶらず、毅然と前を向いて歩いておられた。その姿を見て、男前の美人だなと思った。

そのとき、竹内結子さんも、実在していたことが確認された。

 

しかし、柴咲コウ様のお姿だけは、確認されていない。

薄い胸を張って言うが、私は柴咲コウ様のデビュー当時からのファンだ。若いのに強烈な目ヂカラを持ったその美しいお顔に一目惚れした。以来、テレビや映画は、「おんな城主直虎」以外は、すべて観ている。

その画面の中に、柴咲コウ様は、確かにいた。しかし、実在しているという証拠がない。

さらに、柴咲コウ様のライブには、娘と2回行ったことがあった。

そこに、柴咲コウ様はいて歌を歌い、聴衆に話しかけていたが、もしかしたらCGだった可能性もある。

つまり、本人だという確認が取れていない。

 

いつかどこかで、柴咲コウ様のお姿を見てみたい。

本当に実在するかどうかを確かめてみたい。

 

 

それを確かめない限り、私は死ねない。

 

 


貧しいひと・家族編

2017-12-17 05:06:00 | オヤジの日記

 ある貧しい男がいた。

 

彼は、仕事をしていく上で「食事」と「睡眠」が、とても重要だと考えていた。

しかし、「家族」こそが一番大事だとも考えていた。

この男の心と体と財布は貧しいが、彼の家族は、少しも貧しくはない。

彼の妻は、彼の話をまったく聞かないという小さな欠点を持っていたが、彼の高齢の母親の面倒を親身になって見てくれている。それだけで、彼は百点満点の妻だと思っていた。

時々、食事中に屁をして「あ、出たぁ!」と言うのは、ご愛嬌だ。

 

27歳になる彼の息子は、大学4年の時、発達障害であることが判明した。

その後、彼は企業の研究所に職を得て、5年近く無遅刻無欠勤だ。彼は息子の真面目なところを見習わなければいけないと思っている。しかし、おそらく彼には無理だろう。

大学4年になる彼の娘は、介護関係の会社と鉄道会社から内定を得た。

どちらを選択するか、彼は相談を受けているが、最後に決めるのは娘だ。どちらを選んだとしても、彼は娘の判断を尊重するだろう。

彼は昔、娘が幼稚園に上がる前の日に、こう言ったことがある。

これからは、私を本当のお父さんだと思って、何でも相談するんだよ。

それに対して娘は、「わかった。本当のお父さんだと思う・・・って、本物でしょ!」という的確なツッコミを返してくれた娘。

それ以来、22歳の今に至るまで、飽きることなくツッコミを入れてくれる娘。

彼にとって、彼の娘は最高の相方と言えるだろう。

 

息子も娘も、その日あったことを必ず彼に報告してくれる。

こんなことまで報告しなくてもいいだろう、というようなことを晩メシのときに二人で競うように報告をする。

娘などは、水曜日に、アルバイト先の妻子持ちの男と映画「火花」を観にいったことまで報告したのだ。

ただ、変な関係ではない。彼も男とは何度も会ったことがあった。大学の先輩ということとモーニング娘。が好きという共通項があって、話しやすいと娘は言っていた。娘は、男の奥さんとも顔見知りだ。

「透明感のある美人なんだよな。今さら遅いかもしれないが、ボクもあんな人になりたいもんだ」と言っていた。

 

他の家族は、「セキトリ」という名の猫。

武蔵野のオンボロアパートに住んでいたとき、東日本大震災の前くらいから、庭の段ボール箱に住み着いた猫だ。

彼の家族とは、ほとんど接点はなかったが、セキトリは、いつも彼の話し相手になってくれた。

武蔵野から国立に越すときに、セキトリはノラ猫から家猫に出世した。彼の家族ともすぐに馴染んだ。

顔は、はなはだしいほどのブスだが、性格は穏やかだ。セキトリが怒ったところを見たことがない。ノラ猫は、飼いづらいと言われている。しかし、セキトリは、驚くほど簡単に新しい環境に適合した。

きっと頭がいいのだと思う。

 

残る家族は、娘の大親友・ミーちゃんだ。

ミーちゃんは、訳あって中学3年から高校1年の7月まで彼の家で暮らしていた。

大食いのミーちゃん。

タラコ一腹や塩辛1パックで、3合のご飯を食べるのである。

絶対に回転寿司には連れて行けない子だ。何皿食うか想像ができない。

ただ、焼き肉食べ放題やビュッフェスタイルの90分間食べ放題には連れて行ったことがあった。

その食べっぷりのすごさを見たまわりは、「何?大食いの子?」「テレビ出てた?」などと言ってざわついた。

彼の娘とミーちゃんは、まるで姉妹のように、外見も性格もよく似ていた。

そんな彼女のことを彼の家族は、とても愛した。

ミーちゃんは、母親と折り合いが悪いので、大学を卒業したら、家を出て一人暮らしをすると言っていた。

「夏帆んちの近くに越してきてもいいかな」

いいともー!

どうやら、毎晩彼の家で晩ご飯を食べようと目論んでいるようだ。

彼は、それをとても楽しみにしている。

 

ところで、ミーちゃんは、彼の家族のことを「下ネタ家族」とよく言っていた。

彼の家に居候をしていたとき、ミーちゃんが7歳年下の弟の話をした。

ジャングルジムのてっぺんから頭から落ちたのだという。しかし、奇跡的に無傷だったらしい。

それを聞いた彼は、当たり前だよね、7歳なんだから「ケガない」に決まってるさ、と言った。

娘以外の3人がポカン顏だった。そこで、彼の娘がミーちゃんに耳打ちをした。

それを聞いたミーちゃんは、「夏帆のオヤジは、とんでもねえやつだな。下ネタじゃねえか!」と笑い転げた。

それ以来、ミーちゃんは、我が家の下ネタに馴染み、自分からも下ネタを言うようになった。

 

下ネタ家族。

 

彼は、その開けっぴろげな家族をとても愛している。

 

彼の家族は、そんな感じだ。

 


貧しいひと・睡眠編

2017-12-10 05:14:00 | オヤジの日記

 ある貧しい男がいた。

 

彼は、仕事をしていく上で「食事」と「睡眠」が、とても重要だと考えていた。

だが、そうは考えていても、実践している気配はない。

彼がいま住まう場所は、国立市の3DKの賃貸マンションだ。

6畳3つと10畳のDK。

3つの部屋は、彼の妻と息子、娘がそれぞれ使っていた。

彼はDKの隅っこに、大型のデスクを置いて、パソコンを2台並べ、デスクの下にA3のレーザープリンターを置いて仕事をしていた。

息子と娘は、それぞれベッドを置いて寝ていたが、ダイニングキッチンにベッドを置いたら邪魔になる。

そもそも、ベッドのあるダイニングキッチンはダイニングキッチンではない。

そこで、彼は、ダイニングキッチンの機能を残したまま、自分のための寝場所を確保することにした。

ヨガマットを使うことにしたのだ。厚さ5ミリ程度のヨガマット。

180センチ×60センチのヨガマットだ。

それに、バスタオルをクルクルと巻いて作った枕と布団を使う。快適な寝場所だ。

ヨガマットは、クルクルと巻けば、置き場所が最小限で済む。

クルクルと巻いたヨガマットとバスタオル。クルクルの2段活用だ。とても合理的だ。

 

広い世界で、ヨガマットをベッド代わりにしている人は、どれくらいいるのだろうか。

それを考えることに意味があるとは思えないが。

ヨガマットは快適だ。

世の中には、枕が変わると眠れないとか、マットレスの固さや柔らかさが合わない、などという方々がおられる。

眠りというのは、とても繊細なものだと思う。

でも、眠っちまったら、何も気にならない、と思う彼は野蛮な人種なのかもしれない。

 

電車に乗って、座れたら、彼はすぐに眠る。

だって、こんなチャンスはないんだから。

スマートフォンをいじるより、いまそこにある睡眠の方が、遥かに尊い。

スマートフォンは便利だが、彼に安らぎを与えてはくれない。

安らぎを与えてくれないものよりも、明らかな休息を与えてくれるものを彼は選ぶ。

とにかく眠る。

ヨガマットでの睡眠も貴重だが、電車内での睡眠も貴重だ。

わずかの睡眠でも、生き返った気がする。

 

昨日、友人の新築祝いに、井の頭線高井戸駅近くに、彼は降り立った。

もともと2階建ての家だったが、2世帯住宅にするために建て替えたのだ。

立派な家だった。羨ましかった。

成功しやがったな、この野郎、という嫉妬を隠しながら、千疋屋で買った超高級リンゴを友人に渡した。

「なんだよ~、こんな心遣いはいらないのに~」という金持ち特有の余裕のある笑顔を振りまいて、友人は新築祝いを受け取ってくれた。

殴りたい衝動にかられたが、寸前で我慢した。

「お昼を食べていけよ」と言われたが、負け犬は30分で帰ると決めていたので、愛想笑いをして、じゃあ、また! と明るい笑顔で、その場を逃げた。

 

井の頭線高井戸駅には、ガラス張りの待合室があった。風を遮る暖かい待合室だ。

負け犬は、その温々とした環境に負けて、目を閉じた途端、すぐに眠りに落ちた。

1時前に寝て、起きたのは3時過ぎだった。

完璧に疲れが取れた。

疲れが取れた彼は、バッグからアルミホイルに包んだ特大のおむすびを取り出して食った。

南高梅が3つも入った特製のおむすび。沢庵が二切れ付いた本格的なおむすびだ。

おむすびモグモグ、沢庵パリパリ。

同じ待合室にいた人が、彼を見ていたが、食い気には勝てない。人様の視線など知ったこっちゃない。

 

おむすびを食った彼は、とても満足した。

食い物と睡眠を同時に取ることができたのだ。

人間の営みのほとんどの部分は、食い物と睡眠だ。

どれだけ偉い人だって、この2つがなければ生きていけない。

つまり、彼は、多くの偉人と同じく2つの欲望を満たしたのである。

 

満足、満足。

 

満足しながら家に帰ると、大学4年の娘に言われた。

「おまえ、なんか、顔が蒼いな、熱があるんじゃないか」

熱を測ったら、38.3度だった。

 

あれ?

 

熱い風呂に入って、クリアアサヒを飲んで眠った。

 

さっき熱を測ったら、36.3度まで下がっていた。

 

今日も彼は元気だ。

ヨガマットは、快適な睡眠を与えてくれているようだ。

 

 

ヨガマット、バンザーイ!

 

 

 


貧しいひと・食事編

2017-12-03 06:29:00 | オヤジの日記

ある貧しい男がいた。

 

彼は、仕事をしていく上で「食事」と「睡眠」が、とても重要だと考えていた。

だが、そうは考えていても、実践している気配はない。

食事に関して言えば、朝はトースト1枚、昼は家にいた場合はパスタ。営業で外に出た場合は立ち食いソバ。夜は、家族の晩メシを作りながら、クリアアサヒを飲み、ベビーチーズをかじる。家族揃っての食卓では、ベビーチーズで腹が膨れたので、クリアアサヒを飲みながら、おかずを適当につまむだけだ。

夜間に仕事をした場合の夜食は、塩むすび一つと味噌汁。

「食事」が重要だと思っているとは思えない貧しさだ。

 

そんな彼の貧しい食生活の起源は、彼の中学3年時の4月まで遡る。

中学3年の4月までは、彼には祖母がいたから、食事は祖母が作ってくれた。愛情のこもった食事だった。

しかし、祖母がいなくなってからは、毎日の食事がスーパーの総菜中心になった。

フルタイムで週に6日働いていた彼の母親は、家に帰ると疲れ果てて食事を作る気力が持てなかった。

だから、仕事終わりに、いつも東急東横線中目黒駅近くの東急ストアで、総菜を買って帰った。それを器に移し替えたものが晩メシだった。

他にも、こんなことがあった。

運動会や遠足の時、まわりはみな手作りのお弁当を持ってきていたが、彼が持っていったのは、母親が近所の総菜屋で買ってきた「助六寿司」だった。

いつもいつも助六寿司。それ以来、彼は「助」と「六」という文字を見ると拒否反応を示すまでになった。

高校や大学にあがると、そこには「学食」というありがたいものがあったので、昼間の食事が突然裕福になった。

だが、家に帰ると夜は総菜。

その結果、夜も学食で食うことが増えた(安かったから)。

 

社会人になってからは、ランチというありがたいシステムが、ビジネス街には存在した。

そして、夜には居酒屋というものが出現した。

外食中心の毎日だった。

結婚してからは、毎日、朝晩に妻の手作りのメシを食うことができるようになった。

そのことに、彼は大きな幸せを感じた。

総菜、外食、バイバーイ! と叫んだ。

そして、子育て。

子育てでは、彼は料理を担当した。まず離乳食を作り始めた。子どもたちが大きくなったとき、離乳食を作ったのはお父さんだったんだよ、と自慢したかったからだ。

 

家族のために料理をするようになって数年が経ったとき、彼はあることに気づいた。

家族には美味いものを食ってもらいたいが、自分のものは、どうでもいいのではないか、と。

家族だからと言って、全員が同じものを食う必要はない。

メシを作っているだけで満足なんだから、最後の食う作業は、自分は、はしょってもいいのではないだろうか。

つまり、そのとき、彼の食生活は若い頃の貧しさに舞い戻ったのである。

大学時代66キロあった体重は、いまは55キロまで落ちていた。

仕事が忙しいときは、メシを食う暇がないので、52キロまで落ちることがあった。

180センチ、52キロ。アンガールズではないか。

 

昨日の昼、彼の妻が、花屋さんのパート帰りに何を思ったか、助六寿司を2人分買ってきた。

「食べましょーよ!」

それを見て、彼は震えた。

子どもの頃のトラウマで、彼は助六寿司の食えない男になっていたのだ。

スーパーなどで、助六寿司が並んでいるのを見ると、踏んづけたくなる衝動に駆られる。あるいは、テーブルをひっくり返したくなる。

そして、出来合いの総菜も嫌いだ。鳥肌が立つ。彼は、総菜の類いを買ったことがない。あんなおぞましいものを何故ひとは好んで食うのか理解に苦しむ。

助六寿司が、彼の目の前にあった。

彼は、妻には、過去のトラウマのことを話していなかった。話す機会がなかったからだ。自分の黒歴史など、過去から消してしまった方がいいとずっと思っていた。

しかし、現実として、目の前に助六寿司は存在した。彼の黒歴史が明確な形をして、そこに存在した。

だが、今これを食べないと夫婦仲に亀裂が入るだろう。

「なんで、私が買ってきたものが食べられないの!」

わかりました。暗示をかければいいのだ、と彼は思った。

これは、ただのいなり寿司とカンピョウ巻きと太巻きだ(それは、そうだ。ガリだって付いている)。

いなり寿司は、単体で食ったことがあった。カンピョウ巻きと太巻きも食ったことがあった。

つまり、これは寿司のコラボレーションに過ぎない、と彼は思った。

まとまった結果、助六寿司に形を変えているだけだ。言ってみれば、合体ロボットのようなものだ。

彼は、そのように自分に暗示にかけた。

 

自分を納得させながら、恐る恐るいなり寿司を食べた。

あれ? 美味いぞ。

カンピョウ巻きも美味い。太巻きって、こんなに美味かったっけ。

「美味しいでしょ」と彼の妻が聞いてきた。

彼は、何のためらいもなく、うなずいていた。

 

助六さんを30数年間拒否してきた俺は、いったい何だったんだ、と彼は思った。

 

彼は、助六さん、ごめんな、と助六さんに謝った。頭を下げた。

 

そんな彼の姿を見て、彼の妻は、おぞましいものを見るような目をして、去っていった。