リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

流行性感冒

2017-04-30 06:55:00 | オヤジの日記

誰にだって、気づかないことはたくさんある。

それが、どれほど重要なことでも、その人が気づかないことには理由がある。

 

私の朝は早い。

ヨメが花屋のパートに行く月火木土は、4時40分頃起きて、家族全員の朝メシを作り、26歳になる息子の弁当を作るのが日課だ。

そして、ヨメは5時20分頃起きて、私が作った朝メシを食って、花屋のパートに行くために朝6時に家を出る(家に帰るのは午後1時過ぎ)。

息子は毎朝7時に起きて、8時10分前に家を出ていく。

就職活動中の大学4年の娘は、朝起きる時間は不定期だ。

ただ、朝メシは8時過ぎには必ず食う(私と一緒に食うことが多い)。

我が家の朝のサイクルは、だいたいそんな感じだ。

 

木曜日。

そんな私の平凡な一日は、ドタドタという足音で踏みにじられた。

気がついたら、制服を着た男たちに体中を触られた後で、ストレッチャーに乗せられたのだ。

 

誘拐か? と背筋にお母んが走った(いや、悪寒が走った)。

 

車の中に拉致された。

酸素吸入の装置を口にはめられた。

え? なに?

人体実験にでもかけられるのか、と思った。

珍しいガイコツを見つけた宇宙人が、生態を研究しようと思ったのか、と。

 

だが、後でヨメに話を聞くと、いつもなら早く起きて朝ご飯と弁当を作ったあとで、仕事をしているはずの夫が、まだ寝ていた。

それも青白い顔をして、苦しそうにもがきながら寝ていたというのだ。

そこで、すぐに救急車を呼んだ。

 

救急病院に着いてすぐ、ストレッチャーを転がされ、イチ、ニッ、サンでベッドに移された私は、問診を受け体温を測られた。

そして、レントゲンのあと医師による受診。

「体温39.1度。流行性感冒(なぜインフルエンザと言わん?)と軽い脱水症状です。点滴をしてから精密検査ですね。他にも怪しいところがあるので、入院してもらいましょうか」

 

アワアワワワワ。

 

いえ、私には、かかりつけの医師が武蔵野におりますので、検査はそちらの方でしてもらおうかと。

「どちらの病院ですか」

医院名を告げると、「わかりました。必ず受けてください」と強烈な目力で顔を覗き込まれた。

30代の若造のくせに、圧力が強い。

 

点滴をしてもらって、イナビルをいただき、無罪放免。

家に帰らせていただいた。

点滴と薬、睡眠のおかげで、夕方には37度前半まで下がった。

 

この日、私には驚いたことがあった。

普段は、私が家で休んでいると不機嫌になるヨメが、いままで一度も休んだことのないパートを休んで、私に付き添ってくれたのだ。

娘も会社説明会を休んで、病院に付き添ってくれた。

息子も病院に行きたがったが、入社して4年間一度も休んだことがないので、ヨメが説得して息子だけは会社に行かせた。

 

「大丈夫? ちゃんと休もうよ」とヨメに言葉をかけられて、居心地の悪さを感じたのはなぜだろう。寒気がしたのはなぜだろう。

 

私が立ち上がると、「やめなよ、休んでいなよ」と言われた。

だが、意地になって、私は晩メシを作った。

エプロンをかけ、マスクをし、手にはラテックスグローブをはめて、みんなに伝染らないようにした(まるで手術時の医者の格好)。

作ったのは、ツナとレタス、卵焼きの太巻き寿司だ。

他にアサリの酒蒸し、タケノコの木の芽和えと油揚げ、絹さやの煮浸し。シジミ汁。

美味しくいただきました。

 

翌日、パートが休みのヨメに、「病院に付いていくからね」と言われた。

いや、大袈裟なことにはしたくないから一人で行く、となるべく角が立たないように断った。

午後、医者に行ってくる、と言って家を出たが、駅前のサイゼリアでピザを食いながビールを飲み、適当に時間をつぶして帰ってきた。

(みなさまのご迷惑にならないように、マスクをし、手には小型のアルコール除菌スプレーを持って、自分が触ったところはシュッシュした。まわりから見ると、超潔癖なガイコツに見えたに違いない)

 

家に帰って、ヨメに「どうだった?」と聞かれたので、検査と点滴を受けてきた、と嘘をついた。

企業説明会から帰ってきた娘と会社から帰ってきた息子に、「検査してきた?」と聞かれたので、もちろん、と答えた。

(しかし、夜、娘に小声で『おまえ、医者に行ってないだろ』と鋭いことを言われた。さすがだ)

 

熱が下がったのだから、大袈裟にする必要はない、と思った。

 

真面目に働いておられる世の多くの方々には、私の行動は賛同していただけるものだと確信しております(この程度のことで、医療関係者の方々のお手を煩わしてはいけない)。

 

私は、自分に腹を立てていたのだ。

なぜ、流行性感冒ごときで、多額の治療費を支払わなければいけなかったのか、と。

もっと、きちんと自分の体と向き合っていれば、そんなことにはならなかったはずだ。

 

今週は、大急ぎの仕事が2つあって、自分の体のことを考える余裕がなかった。

仕事中にアドレナリンが大量に出て、熱があることに気づかなかった。

2つの仕事が終わって、やっと人間に戻った。

そして、高熱が出た。ぶっ倒れた。

 

もし、一人暮らしだったら、と考えたらゾッとする。

 

それにしても、多額の出費でした。

また真面目に働かなくては。

 

いや、それよりも、簡単に金を稼げる方法を私は思いついた。

我が家のブス猫の写真集を出して、その印税で元を取るというのは、どうだろうか。

 

その話を娘にしたら、我が娘は、こう言った。

「バカだな、おまえ。こんなブス猫の写真集なんか出したら、世の中を不穏にする意志があるって思われて、『共謀罪』で捕まるぞ」

 

おお、何というタイムリーな、時事ネタ的なツッコミ!

 

 


間違えられたTシャツ

2017-04-23 06:50:00 | オヤジの日記

「今年一番ビックリしたよな」と娘に言われた。

 

風呂から上がったときのことだった。

風呂場の脱衣所の一番上の棚に、いつも私の着替えが置かれていた。

半袖のTシャツと短パンだ。

部屋の中では、365日、私はこの格好で過ごす。

どんなに寒くても半袖短パンだ。

だから、この日も風呂上がりに半袖シャツ短パンに着替えた。

 

着替えた後に、リビングに行って、休もうと思った。

 

しかし、そのとき、大学4年の娘に言われたのだ。

「おまっ、それ、何だよ、何のギャグだ!」

いや、普通に着替えただけですけど・・・。

 

「だって、それ、ボクのTシャツだからな!」

 

改めて見てみると、普段は無地のはずのTシャツに色がついていた。

娘が好きな少女時代のユナちゃんの画像が薄くプリントされたTシャツだった。

間違って紛れ込んだようだ。

 

え?

 

娘は身長159センチ、41キロ。

私は180センチ、56キロ。

どちらもガイコツだ。

とは言っても、同じガイコツでも、サイズが違う。

しかし、何の違和感もなく、普通に着られたのだ。

こんなにもサイズがピッタリだなんて。

 

「何で違和感なく着られるんだよ」と娘。

だって、着られるんだもん。

「スゴすぎて、笑えるわ。今度から交互に着ようぜ」と娘に言われた。

それを聞いたヨメが、「普通は、父親が一回でも着たものは、嫌がるものじゃないの、娘って」と呆れた。

「だって、似合っているんだからいいじゃない」と娘。

 

娘の高校時代のクラスメートたちが、たまに我が家に遊びにくるが、その彼女たちが、こう言ったことがあった。

「父親の歯ブラシを見ただけで気持ち悪い」「父親の後にお風呂に入るのは絶対にイヤ」「洗濯も別々がいい」

えらい言われようである。

しかし、我が娘は、そのあたりは全然平気だ。

私の飲みかけの珈琲を勝手に飲むこともある。

チャーハンを食っているとき、油断していると横取りされることがある。

学校から疲れて帰ってくると、「あー眠い」と言って、わざわざ私の布団を押し入れから出して横になるのだ。そして、「オヤジ臭いな」と文句を言ってから寝る。

 

そんな娘と私がいまハマっているのは、我が家の家猫「セキトリ」の体を両側から吸うことだ。

最初は嫌がったセキトリも、いまでは、大人なしく吸われるままにしている。

セキトリにとっては、いい迷惑だろうから「仕方ないから、変わった親子に付き合ってやるかニャー」と、思っているかもしれない。

 

ところで、娘がセキトリが心配だから「ネコ保険」に入ろうと言い出した。

全員が賛成した。

 

中途半端に安価な保険は心配なので、それなりに保険料の高いものを選んだ。

誰が払おうか、という話になったとき、娘が真っ先に「私が払う」と手をあげた。次にヨメが「私が払う」、そして、息子が「俺が払う」。

最後に私が「じゃあ、俺が払う」と手を挙げたら、「どうぞどうぞ」となった。

そんな予定調和のコントの結果、保険料は私が払うことになった。

 

セキトリ、長生きしろよ。

 

ブッサイクすぎて、哀れだ!


マツはマツ

2017-04-16 07:07:07 | オヤジの日記

3週間前のことだった。

東急東横線大倉山駅の近くにある友人の事務所に行った帰りに、改札の外で私は電話をかけていた。

その私の姿を、2メートルほどの近さで凝視する男がいた。

無礼なやつだな、と思った。

芸能人だって、こんなに無遠慮に見つめられたりはしないだろう。

俺は、ブラッド・ピットではない、と思った(アンジョリーナ・ジョリーを好きだったことだけは似ているが)。

どうせ、誰かと間違えているのだろうと思った。

私は自覚しているのだ。自分が、とても平凡な顔をしたガイコツだということを。

 

電話を切った。

すると、男は私を凝視したまま近づいてきて、「まつだろ?」と聞いてきた。

それが、私には「待つだろ?」の意味に聞こえた。

いえ、誰も待っていませんけど・・・。

「違う違う、小学校のときに同じクラスだったマツだよね、あなたは」

確かに、私は小学生の頃から今まで友人たちに「マツ」と呼ばれていた。

 

本当に同級生か。

しかし、まったく覚えがない。

40年以上前のことなのだ。

教室の景色や校庭の景色は思い出せるが、教室内にいた人間の顔は、朧げにしか思い出せない。

記憶に薄い靄がかかっている感じだ。

 

そんなおぼろ状態だったとき、相手の男が「クチバだよ。クチバシンヤだよ」と声を張り上げた。

靄が、突然に晴れた。

小学校5年6年のとき同級だった朽葉慎也だ。

みんなから「クチバシ」と呼ばれていたことも思い出した。

当時の朽葉は、華奢な体をしていたこともあってか、目立たない男だった。

だが、今の朽葉は、小太りで疲れた顔をしていた。

我々の年代の男は、たいていは疲れた顔をしているものだが、朽葉の顔は、それが際立っていた。

病気なのかもしれない。

 

しかし、俺のことがよくわかったな、こんなにも年を食ったのに。

 

「だって、マツはマツだからな」

 

言っていることがわからない。

ただ、それを確かめる暇は私にはない。

私は、急いでいたのだ。

だから、電話番号を聞き合って、その場は別れた。

 

10日ほど経って、朽葉から電話がかかってきた。

「俺んちに遊びにこないか」

日にちを調整して、15日午後に行ってきた。

朽葉の家は、東横線日吉駅から10分程度歩いたところにあった。

私は、日吉には土地勘があった。

結婚して初めて住んだ場所が、横浜市港北区日吉本町だったのだ。

朽葉の住む家は、一軒家で、築20年以上経っていた。

広い2階建てだった。何部屋あるかは聞かない。

それは、私には関係ないことだ。ただ、広いな、とは思った。

その広い一軒家に、朽葉はひとりで住んでいた。

ご両親は亡くなり、いまは朽葉ただ一人。

 

缶チューハイを二人で飲んだ。

 

ひとりで寂しくないか、などという無神経なことは私は聞かない。

寂しくないわけがないからだ。

 

朽葉は、昔話をしたがったが、私は適当にはぐらかした。

大学陸上部時代の友人とも大学時代の話をすることは、ほとんどない。

私は、今の話題が好きだ。

ただ、だからと言って、朽葉に、自分から、いま何している、と聞くこともない。

私は、出来の悪いマスコミではない。

 

しかし、相手が話してきたら、もちろん聞く。

朽葉は、自分から、一年前に大病したことを機に会社を辞めたことを話しはじめた。

いまは、退職金と父親の遺産で暮らしているという。

「まあ、悠々自適かな」と小さく笑った。

 

話が苦手な展開になってきたので、私は気になっていたことを朽葉に聞いてみた。

俺に声をかけたとき、「マツはマツだから」と言ったよな。あれは、何なんだ?

 

「上手くは言えないけど」と朽葉。

「マツは、あの頃、いつだってマツだったからさ」

 

さっぱり、わからない。

 

そう言えば、私の息子は、子どもの頃から、みんなに「マッちゃん」と言われて親しまれた。

私の小学校のとき、松田という子がいたが、彼も「マッちゃん」と呼ばれていた。

中学のとき、松島、松崎というのがいたが、彼らも「マッちゃん」だった。

高校のとき、私と同じ苗字がいたが、彼も「マッちゃん」。

大学のとき、教授に松木という人がいたが、気さくな性格だったこともあって、学生から「マッちゃん」と言われて親しまれた。

 

じゃあ、なんで、俺は「マツ」なんだ。

 

「だって、マツはマツだからさ」

 

さっぱり、わからん。

 

その日の夜、新宿でいかがわしいコンサルタント業を経営する大学陸上部時代の同期オオクボに、なあ、俺は何で「マツ」なんだ、と聞いてみた。

 

オオクボは、間を置くことなく、「マツは昔からマツだったからなあ」と白痴的なことを言った。

コンサルタントが、曖昧な表現で誤魔化そうとするんじゃねえよ! このクズ社長! と罵って、私は電話を切った。

 

 

お願いだから、誰か私を「マッちゃん」と呼んで。

 

 


モンスターにはならない

2017-04-09 06:57:00 | オヤジの日記

午後2時半、得意先での打ち合わせを終えて、国立駅から歩いて家に帰ろうとした。

 

国立駅から旭通りを歩いていけば、7分程度でマンションに着く。

旭通りの歩道は狭い。

2人がやっとすれ違える程度の幅しかない。

その狭い通りを、フラフラしながら歩いている男がいた。

私の前を右にフラフラ左にフラフラ、花見帰りで酔っぱらっていたのかもしれない。

私は、事情があって早く帰りたかったので、追い越したかった。

だが、相手がどちら側にフラフラと寄っていくかが読めなくて、追い越せないでいた。

だから、面倒くさいと思った私は、左の車道側に降りて男を抜いた。

すると、「おまえ、追い抜くときは、右側だろう!」と男に怒鳴られた。

 

はあ?

 

車道に降りたことを怒られるのならまだしも、左から追い抜いたことを怒るとは・・・。

東京都の条例では、人を追い抜くときは右からと決められているのだろうか。

顔を見ると70代半ばの小太りの赭ら顔の男だった。

酔っぱらいだ。

「右だろうが! 右!」と男がまた喚いた。

 

前日も同じような出来事(コチラ をごらんください)があってイライラしていた私は、はあ? なんだ、おまえ! と私よりかなり年上の男に対して、強く睨み返した。

睨み返したら、ご老人は、途端に大人しくなった。

申し訳ないとは思ったが、「酔っぱらいモンスター」にいつまでも関わりあっているわけにはいかない。

私は急いでいるのだ。

 

マンションに着いた。

マンションは7階建てで、もちろんエレベーターがある。

我々の部屋は4階だが、私はエレベーターを利用したことがない。

いつも階段を駆け上がった。

このときも駆け上がろうとした。

しかし、そのとき私の目に移ったもの。

ご老人が、エレベーターの扉を左手に持った杖で叩いているところだった。

 

何をしている?

 

見ると、「定期点検」の札が貼ってあって、エレベーターが使えない状態だった。

「動けよ、バカ!」と言いながら、ご老人が扉を何度も杖で叩いていた。

叩けば動くというわけでもないだろうに。

杖とエレベーターの扉を比較したら、エレベーターの方が絶対に強いと思う。

だから、危険なのではないかと思った。

杖が折れたら、ご老人が怪我をすることもあり得る。

 

やめた方がいいですよ、とご老人に声をかけた。

だが、「▲○■◆※※↓」と怒鳴られた。

そして、さらに意地になったように、ご老人は、杖で扉を叩き続けたのだ。

その音を聞きつけた管理人が、駆けつけてきた。

管理人さんは、60代半ばの温厚な人だった。

当然のことながら、「やめてください」と止めた。

だが、その言葉がご老人の感情に火をつけたのか、ご老人は、狂ったように扉を叩き続けたのだ。

「俺の部屋は6階だ。エレベーターが▲○■◆※※↓!」と叫んだ。

 

扉には無数の傷が見えた。

だから、私は、これは器物損壊ですね、警察を呼びます、と言ってiPhoneを取り出した。

「警察」という言葉に敏感に反応したご老人は、杖を床に叩き付けて、マンションを出ていった。

あらま・・・元気だこと。

 

「扉たたきモンスター」が消えたことを確認した私は、階段を駆け上がった。

部屋に入ると左耳を冷やしている娘がいた。

大学4年で就職活動中の娘は、帰りの中央線の車内で、耳を傷つけられたのである。

娘の隣に座った70年輩のご老人が、クラシック・ギターをむき出しで持っていたという。

普通はケースに入れて移動するものだが、なぜかむき出しだった。

 

国立駅で娘が降りようとしたところ、ご老人がむき出しのギターを持ち替えようとした。

その反動で、ギターのヘッドが、娘の耳に当たったのである。

しかし、ご老人は、知らんぷり。

だが、幸運にも、それを目撃していた人がいた。

30歳前後の男の人だった。

 

「ちょっと、ホームに降りましょうか」と言って、男は娘を促し、ご老人の手を強く引っ張って、ホームに降ろした。

娘の左耳からは、少し血が出ていた。

「名刺はお持ちですか? この方があなたのギターで怪我をされました。もし、何かあったら、あなたの責任です。所在を証明するものをこの方に渡してください」

毅然とした態度だったという。

それに対して、ご老人は「偶然だろ? 変なこと言うなよ」と抵抗した。

そのとき、男が、名刺入れから名刺を出して、娘とご老人に渡した。

立川で弁護士事務所を開業している人だったようだ。

 

それを見たご老人は、渋々娘に名刺を渡した。

学習塾を経営している人だった。

人に学問を教えていても、人を怪我させたら知らんぷりできる教育者。

しかも、結局、娘に対して謝らなかったというのだ。

 

つまり、「謝らないモンスター」だ。

 

「まったく最近の若いものは!」という大人は多い。

だからと言って、「最近の年寄りは!」というつもりは私にはない。

若くたって年を食ったって、非常識な人は大勢いる。

総理大臣夫人が非常識なのだから、誰が非常識でも不思議はない。

私だって、人前で平気で屁をする非常識な男だ。

 

だが、「モンスター」にはならないでほしいとは思う。

なりたくないとも思う。

モンスターになってしまったら、言葉が通じない。

人間ではなくなる。

 

たった二日間で起きた出来事を大げさに騒ぎ立てることはないとは思うが、これから先、言葉が通じない年老いたモンスターが増殖しないという保証はない。

 

この二日間を経験してみて、私は思った。

 

たとえ社会の役に立てなくても、私は決して人様の邪魔をしない老人になりたい・・・と。

 

 

最後に、人様の邪魔にならない キレイな「国立駅前の桜並木」で、締めることにします。

 

 


軽くない割ばし

2017-04-02 06:27:00 | オヤジの日記

武蔵野から国立に転居したとき、一つの問題が持ち上がった。

 

それは、「割ばし問題」だ。

 

6年前に、ヨメの母親(私にとっては義母)が死んだ。

その義母は、8年前に、埼玉のメガ団地に住む我が家にやってきた。

認知症が進んで、三鷹での一人暮らしが難しくなったからだ。

ヨメには、上に兄が二人いたが、その兄たちは幼い頃義母から育児放棄を受けた。

そんなこともあって、兄たちは実の母親を引き取ることをせず、我々に押しつけたのである。

(ヨメだけは、育児放棄を受けなかったようだ)

 

その認知症が進んだ義母の日課は、朝の10時に、団地から1.2キロ離れた100円ショップに行くことだった。

そして、必ず割ばしを一袋買うのだ。

20膳入りの割ばしだった。

それが、徐々に溜まっていった。

その義母は、困ったことに、私の仕事を理解できない人だった。

パソコンで仕事をするという職業があることが想像できない人だった。

だから、「あいつは、一日中テレビで遊んでいる」と思い込んだ。

しかもヨメ一人を働かせて、ヨメの稼ぎで生活していると思い込んだ。

冷静に考えればわかることだが、週に4日のパートで一家4人が食えるほど、ヨメのパート代は高くない。

しかし、それをまわりの人たちは、簡単に信じたのだ。

 

義母もヨメも巨大宗教の信者だった。

信者さんは、同じ仲間の言うことを疑わなかった。

その結果、団地内を歩くと、義母のお仲間に「あんた、いい年をしてなぜ働かんかね」「奥さんだけを働かせて恥ずかしくないかね」などということを遭遇するたびに言われた。

悪意ある噂話は、インターネット上だけでなくても、簡単に広まるようだ。

 

私は、ノイローゼ寸前になった。

(家族のために懸命に働いているのに、何の仕打ちだよ! と思った。団地全体を爆破したいと本気で思ったほどだ)

 

その私の異変に最初に気づいたのは、当時中学2年の娘だった。

「おまえ、限界に近いな。ボクに考えがあるんだけどな」と言い出したのだ。

「ばあちゃんを三鷹に返さないか。そして、うちらが引っ越して、ばあちゃんの面倒を見るんだ」

しかし、学校の友だちと離ればなれになるぞ、それでもいいのか。

「我が家の大黒柱は、間違いなくおまえだ。ボクは、おまえには胸を張っていてもらいたいんだよ。でも、ここではもう無理かもしれない」(父親思いの娘は、父親が謂れもない仕打ちを受けていることに心を痛めていたのだ)

だが、娘のこの提案は、ヨメと息子の大反対にあった。

「ここで15年間築き上げてきたものを壊すつもりなの!」

しかし、そう言われても娘はめげなかった。

娘は、既成事実を積み上げることにしたのだ。

まず、クラスの友だちと吹奏楽部の部員たちに「私、武蔵野に越すの」と告げた。

担任と吹奏楽部の先生にも告げた。

ご近所の人たちにも言い回った。

そして、私はその間に、美容院などを経営している顧客に、あなた様が持つアパートに住まわせてチョンマゲとお願いをし、承諾を得た。

三鷹市にも連絡を取って、介護サービスセンターを紹介してもらい、引っ越してすぐサポートを受けられるように手配した。

外堀を埋められたら、ヨメも息子も諦めるしかなかった。

そうして、7年前に、我が一家は、義母が所有する三鷹のマンションから1.5キロ離れた武蔵野に越すことになった。

 

埼玉のときと同じように、義母の悪意ある噂話を周りが信じることが心配だったが、三鷹の人たちは常識的な人が多かったようだ。

「いまは、パソコンで仕事をするのが当たり前ですから」と言って、義母の言葉を笑い飛ばした。

娘のおかげで、私の暮らしは平静を取り戻した。

 

しかし、その9か月後に、義母は、火事で死んだ。

危篤と言われたとき、義母の実の子どもたちは、仕事を理由に駆けつけなかった。ヨメも、花屋のパートを休めないと言って、病院には行かなかった。

結局、義母の最後を看取ったのは、一番折り合いが悪かった私と娘の二人だけだった(実は義父のときも私ひとりが看取った)。

娘とふたり、義母の耳元で「逝くなー」と叫んだが、義母が私たちの言うことなど聞くはずがなかった。

 

それは、2011年1月23日、午前7時26分のことだった。

 

マンションの室内は、ほぼ全焼した。

しかし、奇跡的に焼けなかったものが3つあった。

一つは、13冊のアルバム。

一つは、死んだとき、手に握りしめていたキーホルダー。

そして、もう一つは、2つの段ボール箱に詰められた割ばしだった。

どれも煤をかぶってはいたが、中は焼けていなかった。

 

13冊のアルバムは、きっと義母がこの世に残しておきたかったものだったはずだ。

キーホルダーも、思い出の品だから残しておきたかったのだろう。

では・・・・・割ばしは何のために?

武蔵野から国立に転居するにあたって、その割ばしをどうしようかと家族で話し合った。

ヨメは「捨てましょう、意味がないんだから」と言った。

 

しかし、私は抵抗した。

 

お義母さんが、人間としての認知力が衰えてきたと感じたとき、きっと割ばしの存在だけは、ハッキリとわかったんじゃないかな。

他のものは、認識が難しくても、割ばしだけは認識できた。

逆に言えば、割ばしが認識できなかったら、自分はもうダメだと思ったんじゃないだろうか。

つまり、お義母さんは、毎日割ばしを買うことで、自分を確認していたんじゃないか。

認知症と闘っていたんじゃないのか。

そう思ったら、たとえ一本一本は軽い割ばしでも、そこに込められた思いは、決して軽いものではないと俺は思うんだ。

だから、持っていこう。

そう言ったら、だれも、反対しなかった。

 

いま、その割ばしの入った段ボール箱は、ヨメの部屋の大きな仏壇の横に積まれていて、ヨメは毎朝、祈っていた。

しかし、世界で2番目に罰当たりな私は、義母の葬式で手を合わせることもせず、墓参りでも手を合わせたことがなかった。

もちろん、仏壇に手を合わせたこともない。

 

それだけは、これからも絶対に、変わらない。