「不倫」はよくない。
それは当然のこと。
どう言い訳しようが、それはモラルに反することだ。
ベッキーさんは、不倫をしたと騒ぎ立てられて、レギュラー番組、CMを全て降りた。
無理やり降板させられたといってもいいかもしれない。
それは、彼女がモラルに反することをしたのだから仕方のないことだ。
(ただ、彼女が本当に不倫をしたかどうかの『確証』はないが)
だが、桂文枝師匠は、同じように「不倫」の二文字がネットに載っていたが、レギュラー番組にいまだにご出演なさっているということを聞いた。
かつて大ベストラーを書き上げた乙武洋匡氏は、出版社やマスメディアにとっては今も「金づる」だろうから、文枝師匠と同じように、今も仕事をなさっている。
つまり、結論は簡単だ。
男社会を支持する集団ヒステリー人間が、インターネットの世界には数多くいらっしゃる。
その人たちは、女のベッキーさんは許せないが、男の文枝師匠や乙武氏は許せるということだ。
女は、どんな立場の人であっても「みせしめ」という集中砲火を受けるが、それなりのステータスを築いた男には、この種の「飛び道具」は滅多に飛んでこない。
男の不倫は、ときが経てば忘れられるが、女の不倫は集団ヒステリー人間が、ネチネチと粘液質にその人格を否定して、少しでも頭を出すとすぐその頭を殴ることを繰り返す。
ようするに、もぐら叩きと一緒だ。
ただ、男社会のもぐら叩きでは、「叩いてもいい」のは女か、集団ヒステリー人間が地獄に落ちてもいいと認めた少数の男だけである。
そう考えると、不倫というのは、悪いことではないような気がしてくる。
「不公平な色分け」ができる罪は、本当の意味では、罪とは言えないのではないだろうか。
それは、ただの「感情論」による糾弾。
あるいは、「弱いものいじめ」。
この集団ヒステリー人間は、それが弱いものいじめだということを知って叩いている気配が濃厚だ。
ただ叩きたいから叩く。
対象物は、弱い立場で言い訳のできない人なら、誰でもいいのだと思う。
だが、弱い立場ではない文枝師匠や乙武氏を叩く勇気は、彼らにはなかった。
「叩いてもいいひと」をゲットしたときだけ、そのゲームは、未来永劫まで続く。
そして、集団ヒステリー人間のターゲット、「叩いてもいい女」候補はいくらでも作れるだろうから、この現象が終わることはない。
今で言えば、集団ヒステリー人間たちの「叩いてもいい女」ターゲットは、藤原紀香さんかもしれない。
実を言うと、私も藤原紀香さんは苦手な人なのだが、結婚して叩かれ、熊本の方たちを応援しても叩かれるというのは、あまりにも不憫に思える。
「売名行為」とまで言う人がいるのだから、その理不尽なヒステリー熱の熱さには驚かされる。
たとえ売名行為だったとしても、応援くらいさせてあげればいいのに・・・と思う。
それによって、少しでも力を得る人がいたなら、それは「有意義」だということだ。
それに対して、叩きやすい人しか叩かない行為は、「有意義」とは言えない。
つまり、人を叩く行為より売名行為の方が「有意義」であるということ。
集団ヒステリーが「有意義」なものになるのは、本当の悪を叩いたときだろう。
だが、多くの場合、この集団ヒステリーは「小さな悪」しか叩かない。
「大きな悪」には、むしろひれ伏して賞賛を与えることの方が多いように思われる。
集団ヒステリーの行き着く先の一つの例として、イスラミック・ステートがある。
彼らは、強いものに立ち向かっているつもりかもしれないが、実質的には、弱者を抹殺しているだけである。
これは、紛争国の全てに言えることだが、紛争国の扇動者は、弱者を踏み潰すだけで、強い権力にはほとんど歯が立たないのが現実だ。
なぜなら、集団ヒステリーは、本質的なものや実態を避けて、そのエネルギーを弱い者に向けないと、その組織を存続させることができないからだ。
ネットも然り。
強いものに立ち向かったら、簡単に瓦解することが本能的に分かっているから、集団ヒステリーは、弱者にしかそのエネルギーが向かわない。
私は卑怯者なので、無意識のうちに「人と同じ行動を取らないこと」を選んでしまうのだが、それは私が卑怯で弱いために、集団ヒステリーの中に入るのを怖がっているからである。
集団ヒステリーが必要か必要でないかと言われれば、私は必要がないものだと思う。
だが、集団ヒステリーに身を委ねるのが心地よい人、というのも現実世界では数多くいる。
どうせなくならないものなら、距離を置いて楽しめばいいのではないか、と最近の私は思うようになった。
中途半端な結論で、申し訳ないが。
それは当然のこと。
どう言い訳しようが、それはモラルに反することだ。
ベッキーさんは、不倫をしたと騒ぎ立てられて、レギュラー番組、CMを全て降りた。
無理やり降板させられたといってもいいかもしれない。
それは、彼女がモラルに反することをしたのだから仕方のないことだ。
(ただ、彼女が本当に不倫をしたかどうかの『確証』はないが)
だが、桂文枝師匠は、同じように「不倫」の二文字がネットに載っていたが、レギュラー番組にいまだにご出演なさっているということを聞いた。
かつて大ベストラーを書き上げた乙武洋匡氏は、出版社やマスメディアにとっては今も「金づる」だろうから、文枝師匠と同じように、今も仕事をなさっている。
つまり、結論は簡単だ。
男社会を支持する集団ヒステリー人間が、インターネットの世界には数多くいらっしゃる。
その人たちは、女のベッキーさんは許せないが、男の文枝師匠や乙武氏は許せるということだ。
女は、どんな立場の人であっても「みせしめ」という集中砲火を受けるが、それなりのステータスを築いた男には、この種の「飛び道具」は滅多に飛んでこない。
男の不倫は、ときが経てば忘れられるが、女の不倫は集団ヒステリー人間が、ネチネチと粘液質にその人格を否定して、少しでも頭を出すとすぐその頭を殴ることを繰り返す。
ようするに、もぐら叩きと一緒だ。
ただ、男社会のもぐら叩きでは、「叩いてもいい」のは女か、集団ヒステリー人間が地獄に落ちてもいいと認めた少数の男だけである。
そう考えると、不倫というのは、悪いことではないような気がしてくる。
「不公平な色分け」ができる罪は、本当の意味では、罪とは言えないのではないだろうか。
それは、ただの「感情論」による糾弾。
あるいは、「弱いものいじめ」。
この集団ヒステリー人間は、それが弱いものいじめだということを知って叩いている気配が濃厚だ。
ただ叩きたいから叩く。
対象物は、弱い立場で言い訳のできない人なら、誰でもいいのだと思う。
だが、弱い立場ではない文枝師匠や乙武氏を叩く勇気は、彼らにはなかった。
「叩いてもいいひと」をゲットしたときだけ、そのゲームは、未来永劫まで続く。
そして、集団ヒステリー人間のターゲット、「叩いてもいい女」候補はいくらでも作れるだろうから、この現象が終わることはない。
今で言えば、集団ヒステリー人間たちの「叩いてもいい女」ターゲットは、藤原紀香さんかもしれない。
実を言うと、私も藤原紀香さんは苦手な人なのだが、結婚して叩かれ、熊本の方たちを応援しても叩かれるというのは、あまりにも不憫に思える。
「売名行為」とまで言う人がいるのだから、その理不尽なヒステリー熱の熱さには驚かされる。
たとえ売名行為だったとしても、応援くらいさせてあげればいいのに・・・と思う。
それによって、少しでも力を得る人がいたなら、それは「有意義」だということだ。
それに対して、叩きやすい人しか叩かない行為は、「有意義」とは言えない。
つまり、人を叩く行為より売名行為の方が「有意義」であるということ。
集団ヒステリーが「有意義」なものになるのは、本当の悪を叩いたときだろう。
だが、多くの場合、この集団ヒステリーは「小さな悪」しか叩かない。
「大きな悪」には、むしろひれ伏して賞賛を与えることの方が多いように思われる。
集団ヒステリーの行き着く先の一つの例として、イスラミック・ステートがある。
彼らは、強いものに立ち向かっているつもりかもしれないが、実質的には、弱者を抹殺しているだけである。
これは、紛争国の全てに言えることだが、紛争国の扇動者は、弱者を踏み潰すだけで、強い権力にはほとんど歯が立たないのが現実だ。
なぜなら、集団ヒステリーは、本質的なものや実態を避けて、そのエネルギーを弱い者に向けないと、その組織を存続させることができないからだ。
ネットも然り。
強いものに立ち向かったら、簡単に瓦解することが本能的に分かっているから、集団ヒステリーは、弱者にしかそのエネルギーが向かわない。
私は卑怯者なので、無意識のうちに「人と同じ行動を取らないこと」を選んでしまうのだが、それは私が卑怯で弱いために、集団ヒステリーの中に入るのを怖がっているからである。
集団ヒステリーが必要か必要でないかと言われれば、私は必要がないものだと思う。
だが、集団ヒステリーに身を委ねるのが心地よい人、というのも現実世界では数多くいる。
どうせなくならないものなら、距離を置いて楽しめばいいのではないか、と最近の私は思うようになった。
中途半端な結論で、申し訳ないが。