2021年3月11日 読売新聞「編集手帳」
おとといの夕食は?と聞かれ、
即答できる人はそうはいまい。
人間は出来事の大半を1日のうちに忘れてしまうという。
平穏な日々の何げないことほど、
きれいに忘れるものだろう。
宮城県亘理町の高橋ひろみさん(56)は携帯電話を長女のひな乃ちゃんに渡し、
遊ばせていたことを長く忘れていた。
約10年を経て思いだし捜して見つけだすと、
5歳の娘が打ったたどたどしいメッセージがメール画面にいくつも残っていた。
「ままだいすき」に始まり、
「おはなばたけであそぼうね」といったお誘い。
「あさごはんわめだまやきでおねがいします」というお願いもあった。
ひな乃ちゃんは幼稚園の送迎バスが津波にのまれ園児7人とともに亡くなった。
<口を出てまだあたたかきことばかな>(山口優夢)。
どれほど遠く離れた場所にいようと、
電源が入っていようとなかろうと、
母と娘を温かくつなぐ携帯電話が忘却のなかに埋まっていた。
「天国で会ったときに『楽しかったよ』と言えるよう精いっぱい生きていく」とひろみさんは話す。
そのことばは返信ボタンを押さずとも、
ひな乃ちゃんに届いているだろう。