3月10日 経済フロントライン
創業から7年後の1971年。
ナイトさんは大きなピンチを迎える。
急拡大を疑問視する銀行から取引の終了を告げられたのである。
新たに融資をしてくれる銀行を見つけたものの
突然 取引を止められ会社が破たんする危険性があった。
ナイトさんはある経済誌の記事を思い出す。
(「SHOE DOG」より)
日本は生まれ変わった。
世界第3位の経済国になった。
すさまじく精力的な日本の総合商社。
時にプライベートバンクとして
あらゆる会社に有利な条件で貸し付けを行なう。
ナイトさんはポートランドにも日本の商社があると知り頼ろうとする。
日商岩井だった。
ポートランド支店で営業を担当しナイトさんと接した 皇孝之さん(75)。
当時28歳。
アメリカに赴任したばかりで新しいビジネスを探していた皇さんは
ナイトさんの熱意に触れ
社内で「支援すべきだ」と主張する。
(皇孝之さん)
「我々がよく言っていたのは“当たるのは100に3つ”。
仕事仕事がみんな当たる
そんなことは絶対にない。
100のうち3つに入っていたという感触は当時はありませんでした。
当たる感触が出てきたのは2年ぐらいかかりますね。」
当時アメリカにはシューズメーカーは少なく
ビジネスチャンスがあると考えた。
皇さんはナイトさんの会社に関する詳細な書類を作成。
日商岩井が商品の仕入れなどをサポートするようになる。
(皇孝之さん)
「“近い将来アメリカで1番のスポーツブランドにする”と
高らかに宣言するわけです。
日商岩井としても
彼らの夢を買った
夢に投資した。」
この年(1971年)ナイトさんはナイキブランドを立ち上げる。
クッション性の高さや独自のデザインで
ヒット作を次々と売り出す。
しかし
ナイキ誕生から4年
急拡大のひずみが噴出する。
発行した小切手が口座の残高不足から換金できなくなったのである。
従業員への給料も払えなくなった。
しばらくして銀行は取引を停止。
融資の回収に走る。
このときナイトさんがワラをもつかむ思いで頼ったのが日商岩井だった。
対応した経理担当の伊藤忠幸さん。
(伊藤忠幸さん)
「ナイトさんが血相変えて僕のところに来たんです。
『ミスターイトー とにかく来てくれ』と。
一緒にナイキ本社があるビーバートンのオフィスに行ったんですね。
黒い服を着た人が
かばんに配達された小切手なんかをボコボコ入れているんです。
びっくりして
“Who are you?”
“What are you doing?”と言った。
“バンク・オブ・カリフォルニア(メインバンク)の代理人だ”と。」
伊藤さんは銀行も損失を抱えていると聞いていた。
その穴埋めのために債権の回収に走ったと考えていた。
将来性のある企業を銀行の事情でつぶしてはならない。
伊藤さんはナイトさんとともに銀行に向かい
“日商岩井が借金を全額肩代わりする”と伝えた。
伊藤さんがそのことを上司に報告したのはすべてが終わったあとだった。
(伊藤忠幸さん)
「将来 未来に向かってナイキ号という飛行機がテイクオフする瞬間
そこでね バンク・オブ・カリフォルニアが来て
ちょっと都合が悪くなったから燃料抜くぜというようなもの。
これから いよいよというときになんて事するんだ。
ものすごく腹が立ったんです。
権限規定なんか無視して
行けというようなもので
やってしまった。」
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「日商岩井に“ノー”と言われたら廃業でした。
彼らとは親しく付き合ってきたし
当社のことをよく知っていました。
経営手法も信用してくれて大きな会社になれると信じてくれていました。」
その後 靴からアパレルなどへ事業を拡げ
世界一のスポーツ用品メーカーになったナイキ。
本社の一角に皇さんや伊藤さんへの感謝を込めて“日商岩井ガーデン”という日本庭園を造った。
日商岩井はその後 合併して「双日」となったが
40年以上前の出来事が今も語り継がれている。
(双日 藤本昌義社長)
「フィル・ナイトさんからいただいたシューズ。
僕らにとっては伝説。
当時 日商岩井でナイキを創った人たちは裏ではいろんなことを言われたと思う。
“こんなところに貸すのか”と。
結局それを熱意でもって論破して
最終的にはああいう形で融資をした。
そういう熱意をいまひとりひとりに持ってほしい。」
ナイトさんを支援した皇さん。
皇さんのもとにはナイトさんのサインが入った本が届けられた。
いま何を思うか。
ナイトさんに向けたメッセージ。
(皇孝之さん)
「本をありがとう。
この行が気に入りました。
あなたは“私の兄弟”だ
いつの日か私の孫たちに伝えたいです。
“おじいちゃんはあのナイキを創るのに貢献したんだよ”と。」
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「すごい 本当に最高だ。
胸がいっぱいだ。」
「最も語りたかったのは創業当初のことです。
株式公開してからのことはみんなが知っています。
でも皇さんや伊藤さんのことを知っている人はほとんどいないでしょ。
彼らのことこそ知って欲しいのです。」