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ナイキと日本企業 知られざる物語 ①原点は日本企業 ナイキ創業者のベンチャー魂

2018-03-28 07:00:00 | 経済フロントライン

3月10日 経済フロントライン


世界最大のスポーツ用品メーカー ナイキ。
いまその自伝が注目を集めている。
タイトルは SHOE DOG
20万部を売り上げたこの本には日本人の多くが知らない事実が記されている。

アメリカ北西部オレゴン州のポートランド。
自然豊かで気候も温暖。
“住みたい町”のランキングで上位になることも多い町である。
ナイキ本社はポートランド中心部から車で20分ほどの郊外にある。
敷地面積はなんと東京ドーム35個分。
さまざまなスポーツ施設が
従業員のレクリエーション
さらに製品の開発テストに使われている。
創業者のフィル・ナイトさん(80)。
2月で80歳になった。
大学時代は地元で陸上選手として活躍。
卒業後はスポーツシューズを売るビジネスをしたいと考えていた。
授業でレポートを書いている時に
日本のものづくりに大きな可能性を感じたという。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「私はスタンフォード大学のビジネススクールで論文を書いていました。
 もし日本製のカメラがドイツ製のものより売れるのなら
 スポーツシューズも同じだ。
 アディダスやプーマなど市場を独占していたドイツ製のシューズより売れるはずだと考えました。」
戦後15年余。
アメリカでは日本製のカメラの売り上げがドイツ製のカメラを追い抜こうとしていた。
スポーツシューズの分野でも同じことが起こると考えたのである。
しかし「日本に行く」と言うと祖母が
「日本ですって?
 戦争に負けたことを自覚していない連中もまだいるわ。
 目をくり抜かれるわよ。」
ナイトさんは動じなかった。
東京に乗り込み
スポーツ用品店を次々と訪ね
ある靴を見つける。
軽くて耐久性に優れた靴。
神戸のメーカーが作ったものだった。
当時 24歳。
ナイトさんは“アメリカのビジネスマン”だと言ってそのメーカーに飛び込む。
「今日はお時間をいただきあるがとうございます。
 フィル・ナイトと申します。」
「どちらにお勤めですか?」
無職のナイトさん
予想外の質問だった。
「オレゴン州ポートランドの“ブルーリボン社”です。」
とっさに口にしたのはありもしない会社の名前だった。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「“私はビジネスマンだ”と言おうとしていたので会社名が必要でした。
 でもそれをちゃんと考えていなかったのです。
 もしまた同じ状況になれば
 正直に“これから会社を始めるつもりだ”と言うでしょう。
 そのときはプレッシャーを感じてあのように言ってしまったのです。」
ナイトさんがプレゼンを終えると重役たちは席を離れ部屋を出て行ってしまった。
交渉は失敗だと思ったナイトさん。
ところが数分後
重役たちはシューズを手に戻り
“アメリカでの販売を任せる”と答えたのである。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん) 
「彼らは私が若くまだ世間知らずだとわかっていたはずですが
 話しているうちに私がシューズに少し詳しいと知って真剣な議論になりました。
 アメリカ西部13州で販売してもいいと言われて
 とてもうれしかった。」
ナイトさんが訪ねたのはオニツカ
現在のアシックスである。
当時社長だった鬼塚喜八郎さん。
ナイトさんを見て“終戦直後に創業した時を思い出した”とのちに記している。
(「私の履歴書」鬼塚喜八郎著)
創業時にリュックをかついで全国を歩いた私の姿がダブり
この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。
帰国後ナイトさんは大学時代のコーチ ビル・バウワーマンさんと会社を設立。 
靴の販売に加え開発にも着手する。
その記録がオレゴン大学に残されていた。
よりクッション性の高い靴底などを研究して
オニツカに提案。
少しでもいい靴を作りたいと取り組んだのである。
当時オニツカ側で開発を担当した林英雄さん(78)。
(元オニツカ シューズ開発担当者)
「記録をとるためには軽さが大事とか
 いろんなことを言ってこられて。
 シューズを分解して
 バウワーマンさんがこういうシューズがあったらうれしいというアイデアを送ってくれた。
 あとは我々が組み立てて
 何べんも失敗して
 くり返して
 こういうものを出したら
 非常に満足だと。」
ナイトさんの会社は順調に売り上げを伸ばす。
創業から3年後には自宅の仮オフィスを出て専用オフィスを構えるまでになった。
しかし問題も抱えていた。
融資を受けていた銀行から
経営の安定には現金が少ないと指摘されていたのである。
ナイトさんは収益のすべてを靴の仕入れにつぎ込んでいた。
1足でも多く売りたかったからである。
一方で
現金が不足し
何かトラブルがあれば破たんする可能性があった。
(ナイキ創業者 フィル・ナイトさん)
「上手くいって成長できると信じていました。
 だから収益のすべてを再投資していました。
 さらに当時は会計士としても働いていたのですが
 給料の半分はつぎ込みました。
 当時はベンチャーキャピタルなどありませんでした。
 だからそうしたんです。」
成長を目指して走り続けたナイトさん。
銀行の指摘にも耳を貸さず
独自の道を進んだのである。



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