ずいぶん前に購入したままになっていた積ん読の一つ。
そろそろ書庫を整理しなければと思って片っ端から読もうと考えている。
それはともかく、鷲田清一はたくさんの本を出版しているが、そのどれもがなぜ腑に落ちる。
語り口も観点も、なるほどな、と思わせる。
このエッセイ集は、3.11後に書かれたものがおおく、雑誌や新聞に掲載されていたものをまとめたものだ。
2、3読んで気づいたことは、そういえば私が考えていた「毎日コラム」は彼を意識して始めたのだった、ということだ。
朝日新聞の「折々のうた」に掲載されている記事を読んでいて、「書き手として同じ題材は二度使わない」ということを、それでいて毎日連載するという難しさに挑んでいる。
その姿に、書き手としての挑戦であり、読み手としての自負のようなものを感じていた。
だから、私もそれを無様でも挑戦してみようとおもったのだった。
そういうことに気づかされた。
それもともかく。
ことばが洗練された中に、どう生きていくべきかを試行錯誤している筆者の姿を見いだすことができるだろう。
語ることによって自身を削り出していくかのような、彫刻家のような文章だ。
たくさんの本を読みながら、博識でありながら何を追っているのかを自覚している。
読みながら不思議だが、羽生善治の話を思い出した。
コンピューターは多くの手を知ることで強くなる。
人間はむしろ手数を読まないことで、その様々な手を飛び越えることで強くなろうとする。
彼も同じで、様々な本を読みながら、それでいてあらゆる知識を掴みながら、抽象化していくことで思索を深める。
ただ本を読んでいる、いわゆる生き字引とは違う、〈智恵〉を持った人。
そういう知的な生き方を私もしてみたいと思う。
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