思想や哲学に興味がある人にとっては、もはやすでにちょっと古いかもしれないが、4月に刊行された本書は、すぐに購入して積ん読状態だった。
この夏、映画館にいくこともままならなかったので、本を読んでいた。
そして、そろそろこの本も手に取ろうと思って読み始めた。
さて、著者いわく、この本は「勉強の哲学」「現代思想入門」に続く入門書の三つめにあたる。
「センスが良い」といわれる「センス」とはなにか、を思索したものである。
千葉雅也は立命館大学の教授でもあり、思想が専門家なので、この本も哲学書に分類されるのだろう。
しかし、全くこの手の本を読んだことがない人でも十分理解できるように、それこそ入門書として書かれている。
まだまだ本屋に平積みされているだろうから、是非手に取ってもらいたい。
▼以下はネタバレあり▼
この本を読む前の時点で、私なりに「センスとは何か」ということを考えていた。
私の場合は、スポーツや学問、あるいは仕事について特に「センスがいい人とそうでない人の違い」のようなことを漠然と考えていた。
私の答えは、「世界観」や「仕事観」といった対極的に物事をどのように捉えているかということが、あらゆる行動の差異に現れるのではないか、ということだった。
千葉雅也は「意味にとらわれずに反復と差異に着目する」ことを提案する。
作品の大きな全体像やメッセージというような対極的な見方ではなく、徹底して形式・リズムをつぶさに見つめる(聞く・味わう)ことからセンスの源泉を探っている。
それはとりもなおさず、生活のリズムであり、行動の習慣であり、その人固有の身体性である。
私たちがいま最も疎かになって、何もかも外部化してアウトソーシングして委託しているものでもある。
アウトプットし続けて、他人任せ、技術任せになったところに、私たちは〈センス〉を宿すことができるのだろうか。
身体を伴うことこそ、人間の何ものにも代えがたい〈私〉を作っている。
AIにもビッグデータにも落とし込めない〈私〉である。
それは〈センス〉ということばと分かちがたく存在している何か、である。
日常と非日常。
反復とその破壊。
あらゆることに通じているが、その「なにかわからなさ」に対してメスを入れていくことを千葉雅也は考え続けているようである。
この夏、映画館にいくこともままならなかったので、本を読んでいた。
そして、そろそろこの本も手に取ろうと思って読み始めた。
さて、著者いわく、この本は「勉強の哲学」「現代思想入門」に続く入門書の三つめにあたる。
「センスが良い」といわれる「センス」とはなにか、を思索したものである。
千葉雅也は立命館大学の教授でもあり、思想が専門家なので、この本も哲学書に分類されるのだろう。
しかし、全くこの手の本を読んだことがない人でも十分理解できるように、それこそ入門書として書かれている。
まだまだ本屋に平積みされているだろうから、是非手に取ってもらいたい。
▼以下はネタバレあり▼
この本を読む前の時点で、私なりに「センスとは何か」ということを考えていた。
私の場合は、スポーツや学問、あるいは仕事について特に「センスがいい人とそうでない人の違い」のようなことを漠然と考えていた。
私の答えは、「世界観」や「仕事観」といった対極的に物事をどのように捉えているかということが、あらゆる行動の差異に現れるのではないか、ということだった。
千葉雅也は「意味にとらわれずに反復と差異に着目する」ことを提案する。
作品の大きな全体像やメッセージというような対極的な見方ではなく、徹底して形式・リズムをつぶさに見つめる(聞く・味わう)ことからセンスの源泉を探っている。
それはとりもなおさず、生活のリズムであり、行動の習慣であり、その人固有の身体性である。
私たちがいま最も疎かになって、何もかも外部化してアウトソーシングして委託しているものでもある。
アウトプットし続けて、他人任せ、技術任せになったところに、私たちは〈センス〉を宿すことができるのだろうか。
身体を伴うことこそ、人間の何ものにも代えがたい〈私〉を作っている。
AIにもビッグデータにも落とし込めない〈私〉である。
それは〈センス〉ということばと分かちがたく存在している何か、である。
日常と非日常。
反復とその破壊。
あらゆることに通じているが、その「なにかわからなさ」に対してメスを入れていくことを千葉雅也は考え続けているようである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます