評価点:76点/2024年/アメリカ/100分
監督:マイケル・サルノスキ
期待していたものと、なんか違う?!
末期がんだったサミラ(ルピタ・ニョンゴ)は、ホスピス暮らしで、久しぶりにマンハッタンに出かけて舞台を見ることになった。
彼女はかつて食べていたピザの見せに行こうと、密かに心に決めていた。
劇が終わり、いよいよピザを食べに行こうとしたとき、緊急速報がなる。
街の様子がおかしくなったことに気づいたときには、攻撃が始まっていた。
人気ホラーの「クワイエット・プレイス」の前日譚を描いたスピンオフ映画。
過去の作品を見ている方が楽しめることは間違いない。
音を認知して襲ってくるエイリアンに襲われた地球が舞台になっている。
過去の作品とは違って、この作品はどちらかというと人間ドラマに重きを置いている。
だから、ホラー映画を期待していくとちょっと驚くことになるかもしれない。
話の設定や流れは、シリーズを踏襲しているので、シリーズが好きな人は楽しめるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
この手の映画を作ると、どうしても群像劇や、ディザスター映画になってしまう。
「宇宙戦争」や「ワールド・ウォーZ」などが良い例だろう。
しかし、そうではなく、この作品では一人の人間から見た徹底的な個人目線でこの災難を描いている。
何を映画に期待していくか、ということもあるだろうが、ホラー映画ではないことは確かである。
また、シリーズの続編ではない、あくまで「スピンオフ」であるという点ももう少し強調されても良かったかもしれない。
大手レビューサイトではかなり★を下げているが、ミスマッチによるところが大きいのではないかと想像している。
主人公となるサミラは、自分の生き方を見失っている。
それは当たり前で、彼女は死ぬまでの時間をただ待っているだけに過ぎない。
これから先長く生きられる希望もなければ、描ける夢もない。
ただ、彼女のたっての望みは、昔食べたピザ屋に行くこと。
それは世界が終わろうとも、命を賭けても、彼女にとっては重要なことだった。
それは、生きる証、というべきものと言ってもいい。
「そんなことをしなくてもよいではないか」と客観的には思う。
けれども、この映画を見ていると、早い段階で、是非行くべきだ、という思いに同化するだろう。
この映画では、彼女の思いが前景化されており、音を出したら襲ってくるクリーチャーは、背景にある。
今作で、謎のエイリアンたちは、もちろん重要な舞台装置ではあるし、シリーズから一貫して同じ描かれ方をしているが、それでもテーマそのものではない。
生きる最後の希望だったピザを食べることに、共感を覚えた弁護士エリック(ジョセフ・クイン)は、彼女とともに行動する。
彼は水が怖く、彼女とピザを探しに行きながら、彼もまた自分の恐怖に立ち向かうことになる。
このあたりの展開が見事で、ほとんど説明がない中でも十分理解できる作りになっている。
世界が崩壊していく中で、彼女が望んだピザはすでに失われていた。
しかし、たどり着いた先には、自分が生きてきたことを肯定する喜びがあった。
かつて父が弾いたピアノがあり、ジャスバーがあった。
終末と、臨終にあって、彼女は自分の死を受け入れる覚悟をもち、自分の生の価値を理解する。
それは、もちろん、喧噪で満ちて失われたアメリカの都市文化ということでもある。
もしかしたらニューヨークはエイリアンに襲われたのではなく、もっと大きな何か、例えばグローバニズムや新自由主義や、完全に国民を失ったナショナリズムなのかもしれない。
文化性を失い、人が住めなくなったニューヨークで、再びジャズの音が流れることは、非常につよい皮肉にもなっている。
彼女に共感できるのは、私たちが常に死にゆく動物であり、かつどれだけ長く生きようとも、短い生涯であろうとも、結局自分の生き方を肯定できない、絶望の淵にいるということを意味している。
だから、この映画はホラーの形をとりながら、私たちの生き方を深くえぐってくる人間ドラマになっている。
あるいは社会的なつよいメッセージ性をもつ。
そういうことを見たかったわけではないんだ、と思った人は、その通りだ。
安全な場所からきゃーきゃー言うために見た映画が、観客席の側に物騒なナイフが飛んできたら、だれだって怒ってしまうだろう。
生き残った二人が安易な恋愛に陥ることもなく、感情的な別れの言葉を交わすわけでもなく、ただ都合が良いくらい全然鳴かない猫を通して描く、この潔い倫理観がやはり日本映画にはあまりない展開でもある。
私はこういう映画が嫌いではない。
監督:マイケル・サルノスキ
期待していたものと、なんか違う?!
末期がんだったサミラ(ルピタ・ニョンゴ)は、ホスピス暮らしで、久しぶりにマンハッタンに出かけて舞台を見ることになった。
彼女はかつて食べていたピザの見せに行こうと、密かに心に決めていた。
劇が終わり、いよいよピザを食べに行こうとしたとき、緊急速報がなる。
街の様子がおかしくなったことに気づいたときには、攻撃が始まっていた。
人気ホラーの「クワイエット・プレイス」の前日譚を描いたスピンオフ映画。
過去の作品を見ている方が楽しめることは間違いない。
音を認知して襲ってくるエイリアンに襲われた地球が舞台になっている。
過去の作品とは違って、この作品はどちらかというと人間ドラマに重きを置いている。
だから、ホラー映画を期待していくとちょっと驚くことになるかもしれない。
話の設定や流れは、シリーズを踏襲しているので、シリーズが好きな人は楽しめるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
この手の映画を作ると、どうしても群像劇や、ディザスター映画になってしまう。
「宇宙戦争」や「ワールド・ウォーZ」などが良い例だろう。
しかし、そうではなく、この作品では一人の人間から見た徹底的な個人目線でこの災難を描いている。
何を映画に期待していくか、ということもあるだろうが、ホラー映画ではないことは確かである。
また、シリーズの続編ではない、あくまで「スピンオフ」であるという点ももう少し強調されても良かったかもしれない。
大手レビューサイトではかなり★を下げているが、ミスマッチによるところが大きいのではないかと想像している。
主人公となるサミラは、自分の生き方を見失っている。
それは当たり前で、彼女は死ぬまでの時間をただ待っているだけに過ぎない。
これから先長く生きられる希望もなければ、描ける夢もない。
ただ、彼女のたっての望みは、昔食べたピザ屋に行くこと。
それは世界が終わろうとも、命を賭けても、彼女にとっては重要なことだった。
それは、生きる証、というべきものと言ってもいい。
「そんなことをしなくてもよいではないか」と客観的には思う。
けれども、この映画を見ていると、早い段階で、是非行くべきだ、という思いに同化するだろう。
この映画では、彼女の思いが前景化されており、音を出したら襲ってくるクリーチャーは、背景にある。
今作で、謎のエイリアンたちは、もちろん重要な舞台装置ではあるし、シリーズから一貫して同じ描かれ方をしているが、それでもテーマそのものではない。
生きる最後の希望だったピザを食べることに、共感を覚えた弁護士エリック(ジョセフ・クイン)は、彼女とともに行動する。
彼は水が怖く、彼女とピザを探しに行きながら、彼もまた自分の恐怖に立ち向かうことになる。
このあたりの展開が見事で、ほとんど説明がない中でも十分理解できる作りになっている。
世界が崩壊していく中で、彼女が望んだピザはすでに失われていた。
しかし、たどり着いた先には、自分が生きてきたことを肯定する喜びがあった。
かつて父が弾いたピアノがあり、ジャスバーがあった。
終末と、臨終にあって、彼女は自分の死を受け入れる覚悟をもち、自分の生の価値を理解する。
それは、もちろん、喧噪で満ちて失われたアメリカの都市文化ということでもある。
もしかしたらニューヨークはエイリアンに襲われたのではなく、もっと大きな何か、例えばグローバニズムや新自由主義や、完全に国民を失ったナショナリズムなのかもしれない。
文化性を失い、人が住めなくなったニューヨークで、再びジャズの音が流れることは、非常につよい皮肉にもなっている。
彼女に共感できるのは、私たちが常に死にゆく動物であり、かつどれだけ長く生きようとも、短い生涯であろうとも、結局自分の生き方を肯定できない、絶望の淵にいるということを意味している。
だから、この映画はホラーの形をとりながら、私たちの生き方を深くえぐってくる人間ドラマになっている。
あるいは社会的なつよいメッセージ性をもつ。
そういうことを見たかったわけではないんだ、と思った人は、その通りだ。
安全な場所からきゃーきゃー言うために見た映画が、観客席の側に物騒なナイフが飛んできたら、だれだって怒ってしまうだろう。
生き残った二人が安易な恋愛に陥ることもなく、感情的な別れの言葉を交わすわけでもなく、ただ都合が良いくらい全然鳴かない猫を通して描く、この潔い倫理観がやはり日本映画にはあまりない展開でもある。
私はこういう映画が嫌いではない。
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