評価点:55点/2024年/アメリカ・イギリス/148分
監督:リドリー・スコット
今後忘れ去られるだろう、大量生産された「ハリウッド大作」の一つ。
マキシマス(ラッセル・クロウ)が非業の死を遂げて16年。
ローマ帝国は退廃し、双子の皇帝が世を治める独裁政治が行われていた。
領土を広げ、圧政を敷き、税に苦しむ民が物乞いをしていた。
孤児だったハンノ(ポール・メスカル)は小国ヌミディアで戦士となり、妻とともに過ごしていた。
そこへローマ帝国の侵略があり、妻を殺されたハンノは捕虜となり、皇帝の慰みものであるグラディエーターとなった。
グラディエーターを抱える元奴隷のマクリヌス(デンゼル・ワシントン)は、ハンノに才覚を見いだし、復讐したければ俺の言うとおりにしろ、とささやく。
名作「グラディエーター」の続編。
もはや続編は作らないだろうと思われていたが、リドリー・スコットが再び監督することで作られた。
「トップガン」や「マッドマックス」などで気を良くしたスポンサーが企画を持ち上げたのかもしれない。
私にはそのあたりの情報に興味がないので、どちらでもいい。
物語は正統な続編で、かなり連続性がある。
この映画のみで鑑賞することは可能だが、前作を見ていたほうがより楽しめるだろう。
私はあんなに大好きだった前作を、全く覚えていなかった。
遺児のルシアスは髪の毛が金髪なのか黒なのかどっちなんだろう、ということが最後まで気になっていた。
▼以下はネタバレあり▼
点数を見てもらえばわかるが、あまり楽しめなかった。
どこまでも物語が薄っぺらく、「是非作らねばならない」というパトスが感じられなかった。
脚本が悪いのか、監督が悪いのか、よくわからないが、物語や演出に重厚さがなく、CGや小道具などの圧倒的物量はさすがのハリウッドだが、すぐに忘れ去れされる大作と言えそうだ。
まず厳しかったのは、主人公の敵、あるいは仇になる二人の皇帝と、マクリヌスの設定だ。
彼らには観客が憎むべきポイントが明かされていない。
税を搾り取っている、民衆が疲弊している、そういうアウトラインではなく、皇帝という人間性や、マクリヌスというその人の歴史性やキャラクター性が全く描かれていない。
終盤になって見せた双子の差異など語られても、もはやゲーム終了だ。
なぜあほなのか、何にこだわっているのか、平板な「いかにも悪い皇帝」像しか与えられていないのため、是非とも倒そうという敵=物語の課題になっていない。
マクリヌスはもちろん、黒白の反転はあるものの、政治に疎い成り上がりの商人を象徴する。
どこかの大統領選挙を見据えた「権力を握りたいだけの人」「ビジネスで政治を考える人」として設定されている。
しかし、彼がそこまで上り詰めたその過去が全く明かされていない。
よって、主人公たちは何に打ち勝てば良いのか宙ぶらりんになる。
(当然黒人を悪役に据えたのは、昨今の映画業界から言えば御法度だが、あの大物権力者を直接的に彷彿とさせる人物を悪役には設定できなかったという、例の〈政治的な正確さ〉が関与しているのだろう)
そのような敵しか設定されていないため、とうぜん主人公の正当性も霞んでしまう。
おもしろいのは皇帝にしても奴隷商人にしても、どちらも父性や母性といたものが全く描かれていないという点だ。
だから徹頭徹尾彼らは血縁がない、宙ぶらりんとして設定されている。
むしろなぜ皇帝に、元老院に入れたのか不思議なくらいだ。
皇帝は母親も恋人もいない、孤独な人物としてしか描かれておらず、対峙するハンノとは全く逆で、あまりにもその点が欠落しているからこそ、主人公の母親への愛慕はもはや気持ち悪いほど執拗だ。
映画として、母親や血族を描かなくてもかまわないが、主人公とのアンバランスさが際立っている。
だから気持ち悪さが目立つことになり、物語が急に矮小なスケールに感じてしまう。
また、主人公ハンノが急にルシアスとして立ち上がる展開も厳しかった。
こっそり囚人に会いに行くというリスクを冒した母(らしき貴族)に対してハンノは無碍にその愛情を斥ける。
しかし、いつの間にかハンノは、自らが皇帝の子息であり、難を逃れたルシアスその人であることを告白し始める。
いつしか、敵は妻を殺したはずの将軍ではなく、皇帝や雇い主のマクリヌスとなり、復讐から王位の奪還へと目的も変わってしまう。
この心変わりがまったく捉えられない。
大きく変わったのは闘技場で将軍とまみえた時だが、なぜそこで彼を英雄だと大衆に訴えかけたのだろうか。
将軍のその「おまえの母はおまえを愛していた!」という言葉を聞いて心を大きく変えたのだろうか。
無理がある。
処刑されるその直前、母親に抱きついたルシアスは、「おまえはどの面を下げていうてんねん」と思わざるを得ない。
いや、さらに言うならローマを脱出したときの金髪の少年が、ローマに還ってきたとき、なぜか父親と同じ黒髪になっているのはどういうことなのだろう。
その連続性のなさと、断絶が物語の統一感や説得力、没頭感を阻害する。
そういう事情だから、当然闘技場でのアクションへの移入も阻害される。
もはや物語は破綻している。
敷かれたレールをただひたすらに進む暴走トロッコのように、どんな筋書きになるのかはキャラクターとの関係性ではなく、脚本家のさじ加減によって決められる。
主人公は死ぬわけがない。
負けるわけがない。
そういう物語の中にある闘技場に、意外な結末は待っているはずがない。
サイとの決闘、海上の戦い、ラストのお母さん奪還と、すべてが予定通りに進んで危機感もない。
前作のアクションのほうがはるかに臨場感と説得力があった。
映像技術は格段に上がっているはずなのに。
もちろん、アメリカ映画にあるような、象徴性がないわけではない。
かつてはあったはずの、民衆のための政治を取り戻すべきだ、というメッセージは、かつて強国だったアメリカを意識してのものだろう。
ローマ帝国が民主的な手続きを踏んで政治を行っていたかは甚だ疑問だが、アメリカ国民にとっては、左であっても右であっても憂国の閉塞感が支配していることを鑑みてだろう。
しかしそれも、結局は血族という封建的な体制に依拠することでしか解決策を見いだせないのは、過去に戻りたい、という望郷に近い。
それを闘技場からの世論の高まりを契機に描いてしまっては、あたかもメジャーリーグの良い試合を見て溜飲を下げるのと等しい。
あるいは闘技場がアメリカンドリームのような扱いで、その死さえも軽んじられている。
(ことさら血を描くのも、その死の軽さとの均衡をとりたいからという底意を感じる)
ネットニュースではさらに続編を作るという話も出ているそうだ。
作りたければ作れば良い。
ただ、無理して時間を作ってみるほどではなかった、というのは記録として残しておきたい。
(すぐに内容を忘れるだろうから)
監督:リドリー・スコット
今後忘れ去られるだろう、大量生産された「ハリウッド大作」の一つ。
マキシマス(ラッセル・クロウ)が非業の死を遂げて16年。
ローマ帝国は退廃し、双子の皇帝が世を治める独裁政治が行われていた。
領土を広げ、圧政を敷き、税に苦しむ民が物乞いをしていた。
孤児だったハンノ(ポール・メスカル)は小国ヌミディアで戦士となり、妻とともに過ごしていた。
そこへローマ帝国の侵略があり、妻を殺されたハンノは捕虜となり、皇帝の慰みものであるグラディエーターとなった。
グラディエーターを抱える元奴隷のマクリヌス(デンゼル・ワシントン)は、ハンノに才覚を見いだし、復讐したければ俺の言うとおりにしろ、とささやく。
名作「グラディエーター」の続編。
もはや続編は作らないだろうと思われていたが、リドリー・スコットが再び監督することで作られた。
「トップガン」や「マッドマックス」などで気を良くしたスポンサーが企画を持ち上げたのかもしれない。
私にはそのあたりの情報に興味がないので、どちらでもいい。
物語は正統な続編で、かなり連続性がある。
この映画のみで鑑賞することは可能だが、前作を見ていたほうがより楽しめるだろう。
私はあんなに大好きだった前作を、全く覚えていなかった。
遺児のルシアスは髪の毛が金髪なのか黒なのかどっちなんだろう、ということが最後まで気になっていた。
▼以下はネタバレあり▼
点数を見てもらえばわかるが、あまり楽しめなかった。
どこまでも物語が薄っぺらく、「是非作らねばならない」というパトスが感じられなかった。
脚本が悪いのか、監督が悪いのか、よくわからないが、物語や演出に重厚さがなく、CGや小道具などの圧倒的物量はさすがのハリウッドだが、すぐに忘れ去れされる大作と言えそうだ。
まず厳しかったのは、主人公の敵、あるいは仇になる二人の皇帝と、マクリヌスの設定だ。
彼らには観客が憎むべきポイントが明かされていない。
税を搾り取っている、民衆が疲弊している、そういうアウトラインではなく、皇帝という人間性や、マクリヌスというその人の歴史性やキャラクター性が全く描かれていない。
終盤になって見せた双子の差異など語られても、もはやゲーム終了だ。
なぜあほなのか、何にこだわっているのか、平板な「いかにも悪い皇帝」像しか与えられていないのため、是非とも倒そうという敵=物語の課題になっていない。
マクリヌスはもちろん、黒白の反転はあるものの、政治に疎い成り上がりの商人を象徴する。
どこかの大統領選挙を見据えた「権力を握りたいだけの人」「ビジネスで政治を考える人」として設定されている。
しかし、彼がそこまで上り詰めたその過去が全く明かされていない。
よって、主人公たちは何に打ち勝てば良いのか宙ぶらりんになる。
(当然黒人を悪役に据えたのは、昨今の映画業界から言えば御法度だが、あの大物権力者を直接的に彷彿とさせる人物を悪役には設定できなかったという、例の〈政治的な正確さ〉が関与しているのだろう)
そのような敵しか設定されていないため、とうぜん主人公の正当性も霞んでしまう。
おもしろいのは皇帝にしても奴隷商人にしても、どちらも父性や母性といたものが全く描かれていないという点だ。
だから徹頭徹尾彼らは血縁がない、宙ぶらりんとして設定されている。
むしろなぜ皇帝に、元老院に入れたのか不思議なくらいだ。
皇帝は母親も恋人もいない、孤独な人物としてしか描かれておらず、対峙するハンノとは全く逆で、あまりにもその点が欠落しているからこそ、主人公の母親への愛慕はもはや気持ち悪いほど執拗だ。
映画として、母親や血族を描かなくてもかまわないが、主人公とのアンバランスさが際立っている。
だから気持ち悪さが目立つことになり、物語が急に矮小なスケールに感じてしまう。
また、主人公ハンノが急にルシアスとして立ち上がる展開も厳しかった。
こっそり囚人に会いに行くというリスクを冒した母(らしき貴族)に対してハンノは無碍にその愛情を斥ける。
しかし、いつの間にかハンノは、自らが皇帝の子息であり、難を逃れたルシアスその人であることを告白し始める。
いつしか、敵は妻を殺したはずの将軍ではなく、皇帝や雇い主のマクリヌスとなり、復讐から王位の奪還へと目的も変わってしまう。
この心変わりがまったく捉えられない。
大きく変わったのは闘技場で将軍とまみえた時だが、なぜそこで彼を英雄だと大衆に訴えかけたのだろうか。
将軍のその「おまえの母はおまえを愛していた!」という言葉を聞いて心を大きく変えたのだろうか。
無理がある。
処刑されるその直前、母親に抱きついたルシアスは、「おまえはどの面を下げていうてんねん」と思わざるを得ない。
いや、さらに言うならローマを脱出したときの金髪の少年が、ローマに還ってきたとき、なぜか父親と同じ黒髪になっているのはどういうことなのだろう。
その連続性のなさと、断絶が物語の統一感や説得力、没頭感を阻害する。
そういう事情だから、当然闘技場でのアクションへの移入も阻害される。
もはや物語は破綻している。
敷かれたレールをただひたすらに進む暴走トロッコのように、どんな筋書きになるのかはキャラクターとの関係性ではなく、脚本家のさじ加減によって決められる。
主人公は死ぬわけがない。
負けるわけがない。
そういう物語の中にある闘技場に、意外な結末は待っているはずがない。
サイとの決闘、海上の戦い、ラストのお母さん奪還と、すべてが予定通りに進んで危機感もない。
前作のアクションのほうがはるかに臨場感と説得力があった。
映像技術は格段に上がっているはずなのに。
もちろん、アメリカ映画にあるような、象徴性がないわけではない。
かつてはあったはずの、民衆のための政治を取り戻すべきだ、というメッセージは、かつて強国だったアメリカを意識してのものだろう。
ローマ帝国が民主的な手続きを踏んで政治を行っていたかは甚だ疑問だが、アメリカ国民にとっては、左であっても右であっても憂国の閉塞感が支配していることを鑑みてだろう。
しかしそれも、結局は血族という封建的な体制に依拠することでしか解決策を見いだせないのは、過去に戻りたい、という望郷に近い。
それを闘技場からの世論の高まりを契機に描いてしまっては、あたかもメジャーリーグの良い試合を見て溜飲を下げるのと等しい。
あるいは闘技場がアメリカンドリームのような扱いで、その死さえも軽んじられている。
(ことさら血を描くのも、その死の軽さとの均衡をとりたいからという底意を感じる)
ネットニュースではさらに続編を作るという話も出ているそうだ。
作りたければ作れば良い。
ただ、無理して時間を作ってみるほどではなかった、というのは記録として残しておきたい。
(すぐに内容を忘れるだろうから)
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