評価点:65点/2022年/アメリカ/114分
監督:マーティン・キャンベル
まあ、都合の良い記憶だこと。
長年殺し屋をしてきたアレックス(リーアム・ニーソン)はアルツハイマー病の初期症状が出始めていた。
一念発起し辞めようとするが、新たな依頼を受けてしまう。
簡単な仕事のはずだったが、少女を殺す依頼であることに気づき、彼はとっさに拒否してしまう。
彼の信条として子どもを殺すことは許されざる仕事だった。
依頼人に、契約解除を申し出るが、依頼人は拒否、窮地に追い込まれる。
テレビでそのターゲットである少女が殺害されたことを知ったアレックスは、依頼人たちに復讐しはじめる。
一方、FBI捜査官のヴィンセント・セラ(ガイ・ピアース)は、保護したはずのベアトリスが何ものかに殺されたことについて、捜査し始める。
主人公はリーアム・ニーソン演じる殺し屋だが、もう一人FBI捜査官も視点人物になっている。
MEMORYというタイトルどおり、記憶がモティーフになっている。
アクション映画なので、何も考えずに見れば良いが、思っているような展開にはならないかもしれない。
社会的な視座ももちあわせているので、お手軽な映画、というよりは少し現実を突きつけられるダークな映画だ。
何も考えなくて良い映画を見たいなら、この映画は少し注意が必要かもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
殺し屋で、アルツハイマー病、という掛け合わせはおもしろかった。
もちろん、リーアム・ニーソンなのですべてやってのけるわけだが、作品のテーマにその設定が深く関わっているため、結構が崩れない。
ラストの、解決されない結末も、私としてはよかったと思う。
さて、どういうことか。
殺し屋で、アルツハイマー病ということは、裏でも表でも社会的なヒエラルキーの外にいるということだ。
遊撃手のような、何ものにも拘束されない自由人なのである。
昔で言うところの旅人であり、社会のルールから外れた人物として設定されている。
だから、表のルールも、裏のルールも飛び越えてしまえる強さがある。
彼が信条にしているのは、子どもを殺さない、ということだった。
それなら初めから依頼しなければ良いのに、あるいは受けなければいいのに、と思うがそこは目をつむるしかない。
少女を殺すことになってしまったアレックスは、その依頼を拒否し、組織に復讐することを誓う。
もはやその動機が薄すぎて、命と記憶をかけて行うにはどうかと思うが、ここも目をつむるしかない。
そんな自由人のアレックスは、表では慈善事業を行って、裏では人身売買を斡旋している大物白人、ダヴァナ・シールマン(モニか・ベルッチ)にたどり着く。
もちろん、映画であるということもあるが、アメリカ国民には、どうしても大物白人は裏で必ず悪事を行っているに違いないという一種の文法がある。
権力者はすぐに腐敗し、お金持ちは必ず裏がある。
しかし、そんな権力者は自分の都合の良いようにルールを作り上げているので、虐げられるのはいつも弱い民衆である。
ある意味では、現実の側面を照射したこの文法は、この映画でも貫かれている。
だからFBI捜査官でも手出しはできない。
ルールを作っているのは、そのダヴァナであり、ルールを執行するのは警察官であるからだ。
しかし、頭がおかしくなってしまった「常識外れの殺し屋」であればそれが可能になる。
ルールで裁けない人間を、どうやって裁いていくのか、というのがこの映画の根幹にある。
そこにはヴィンセントが明かしたような悲壮な現実しかない。
残酷描写が多いのも、それが彼らを取り巻く恐ろしい現実であるからだろう。
かなり多くの人が、あっさり死んでいく。
下手な映画であれば、ベアトリスは生かしながらアレックスと行動を共にさせるだろう。
あるいは、アレックスの銃によってダヴァナは殺されるだろう。
しかし、そんな単純な映画ではない。
法によって裁かれない者は、それ以上の何かによって寝首をかかれるしかない。
お気軽なアクション映画に陥らないのは、こうした徹底したリアリズム(とも言いがたいが)があるからだろう。
そんなに気持ちの良い映画ではないし、カタルシスが大きいわけでもない。
結果、評価が中途半端になるだろうし、社会的なのか娯楽的なのかよくわからない映画になりさがっている。
まあ、そのバランスは難しい。
監督:マーティン・キャンベル
まあ、都合の良い記憶だこと。
長年殺し屋をしてきたアレックス(リーアム・ニーソン)はアルツハイマー病の初期症状が出始めていた。
一念発起し辞めようとするが、新たな依頼を受けてしまう。
簡単な仕事のはずだったが、少女を殺す依頼であることに気づき、彼はとっさに拒否してしまう。
彼の信条として子どもを殺すことは許されざる仕事だった。
依頼人に、契約解除を申し出るが、依頼人は拒否、窮地に追い込まれる。
テレビでそのターゲットである少女が殺害されたことを知ったアレックスは、依頼人たちに復讐しはじめる。
一方、FBI捜査官のヴィンセント・セラ(ガイ・ピアース)は、保護したはずのベアトリスが何ものかに殺されたことについて、捜査し始める。
主人公はリーアム・ニーソン演じる殺し屋だが、もう一人FBI捜査官も視点人物になっている。
MEMORYというタイトルどおり、記憶がモティーフになっている。
アクション映画なので、何も考えずに見れば良いが、思っているような展開にはならないかもしれない。
社会的な視座ももちあわせているので、お手軽な映画、というよりは少し現実を突きつけられるダークな映画だ。
何も考えなくて良い映画を見たいなら、この映画は少し注意が必要かもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
殺し屋で、アルツハイマー病、という掛け合わせはおもしろかった。
もちろん、リーアム・ニーソンなのですべてやってのけるわけだが、作品のテーマにその設定が深く関わっているため、結構が崩れない。
ラストの、解決されない結末も、私としてはよかったと思う。
さて、どういうことか。
殺し屋で、アルツハイマー病ということは、裏でも表でも社会的なヒエラルキーの外にいるということだ。
遊撃手のような、何ものにも拘束されない自由人なのである。
昔で言うところの旅人であり、社会のルールから外れた人物として設定されている。
だから、表のルールも、裏のルールも飛び越えてしまえる強さがある。
彼が信条にしているのは、子どもを殺さない、ということだった。
それなら初めから依頼しなければ良いのに、あるいは受けなければいいのに、と思うがそこは目をつむるしかない。
少女を殺すことになってしまったアレックスは、その依頼を拒否し、組織に復讐することを誓う。
もはやその動機が薄すぎて、命と記憶をかけて行うにはどうかと思うが、ここも目をつむるしかない。
そんな自由人のアレックスは、表では慈善事業を行って、裏では人身売買を斡旋している大物白人、ダヴァナ・シールマン(モニか・ベルッチ)にたどり着く。
もちろん、映画であるということもあるが、アメリカ国民には、どうしても大物白人は裏で必ず悪事を行っているに違いないという一種の文法がある。
権力者はすぐに腐敗し、お金持ちは必ず裏がある。
しかし、そんな権力者は自分の都合の良いようにルールを作り上げているので、虐げられるのはいつも弱い民衆である。
ある意味では、現実の側面を照射したこの文法は、この映画でも貫かれている。
だからFBI捜査官でも手出しはできない。
ルールを作っているのは、そのダヴァナであり、ルールを執行するのは警察官であるからだ。
しかし、頭がおかしくなってしまった「常識外れの殺し屋」であればそれが可能になる。
ルールで裁けない人間を、どうやって裁いていくのか、というのがこの映画の根幹にある。
そこにはヴィンセントが明かしたような悲壮な現実しかない。
残酷描写が多いのも、それが彼らを取り巻く恐ろしい現実であるからだろう。
かなり多くの人が、あっさり死んでいく。
下手な映画であれば、ベアトリスは生かしながらアレックスと行動を共にさせるだろう。
あるいは、アレックスの銃によってダヴァナは殺されるだろう。
しかし、そんな単純な映画ではない。
法によって裁かれない者は、それ以上の何かによって寝首をかかれるしかない。
お気軽なアクション映画に陥らないのは、こうした徹底したリアリズム(とも言いがたいが)があるからだろう。
そんなに気持ちの良い映画ではないし、カタルシスが大きいわけでもない。
結果、評価が中途半端になるだろうし、社会的なのか娯楽的なのかよくわからない映画になりさがっている。
まあ、そのバランスは難しい。
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