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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

竜とそばかすの姫(V)

2023-02-21 20:23:01 | 映画(ら)
評価点:44点/2021年/日本/121分

監督・原作・脚本:細田守

すべてが“借り物”である。

すず(声:中村佳穂)は自分の声に自信を持てない女子高校生。
幼なじみの忍(声:成田凌)に憧れていた。
すずは幼い頃に事故で母親を亡くし、孤独を感じていた。
そんなとき、同級生から〈U〉というメタバースを紹介されアバター〈BELLE〉を作った。
身体とリンクさせる〈U〉では、潜在的な能力が発現されて、〈BELLE〉として注目を浴びる。
しかし、そのコンサート会場に、嫌われ者の〈竜〉と言われるアバターが乱入し、場がしらけてしまう。
なぜか〈竜〉の存在が気になるすずは、彼に近づこうとする。

おおかみこども」以来の細田守作品。
ちょっとしたいざこざもあって見る機会を失っていたが、周りに「絶対面白くないよ!」と強く勧められたので、これは見るしかないと思ってアマゾンで見た。
体調がすこぶる悪く、それでも起きているよりはマシかな、ということで再生ボタンを押した。

二度と見ることはないので、制作陣には申し訳ないが、体調が万全でもそれほど評価は変わらないものと思っていただきたい。
例によってこれから下の記事は、辛辣なものになる。
この映画がお好きな方はこれ以上踏み込まないことをおすすめする。

逆に、映画を見終わったときにモヤモヤした感じがあった人には、少しすっきりしてもらえるかもしれない。


▼以下はネタバレあり▼

久々の細田守の作品であって、少しわくわくしていた。
皮肉ではなく。
いつになったら面白くなるのだろうと思っていたら、ラストを迎えていた。
そんな感じの映画だった。

相変わらず画は素晴らしいし、見せ方も面白い。
けれども、それだけで映画を成立させられるほどかと言われると、やはりそこまでではない。
現実も、メタバースも、映画館でならまだしもテレビ程度の画面では、没頭感や革新性はない。
もっとはっきり言えば、どこまでも既視感がある。

さて、物語の主題は、自信を持っていなかったすずが、〈BELLE〉となることで自信を取り戻す物語、ということになるだろうか。
メタバースから現実、高知から東京という往来があるので、やはり日常から非日常、日常に戻ってくるタイプの物語だ。
メタバースに没頭することで、現実に戻ってきたときに大切な何かに気づく、という仕掛けである。

見せ場となるのはやはり〈U〉の中で見せられる〈BELLE〉の歌声だった。
だが、冒頭から私は彼女のリップシンク(声と口の動きを連動させること)に違和感を覚えて、がっかりした。
これこそこの映画の最大の見せ場なのに、3Dで描かれた「アナと雪の女王」に遠く及ばない。
これは致命的だった。
歌っているように見えなかった。
この違和感は、技術の問題なのか、どういう問題なのかはわからない。
けれども、これを完璧にリンクさせてこその、日本のアニメーション技術の粋(すい)と言えるではないか。

それは横に置いておこう。
この映画の致命的な部分はもう一つ。
登場人物の誰一人として立体的な人間がいない、ということだ。

すず。
彼女はなぜ父親と和解できないのだろうか。
母親が突然いなくなったことは悲しかっただろう。
母親からの愛情が足りなかったことだろう。
しかし、それと父親と会話ができない、という点は何ら関係がない。
ラストで東京から帰ってきた彼女を迎えに来た父親と、なぜ和解できたのか。
その点が不明瞭で、釈然としない。

歌が人前で歌えない、というのもよくわからない。
巧い設定で、いくらでも物語を深掘りできたはずなのに、それがストーリーに生きてこない。

彼女と対峙する人たちの内面もまたよくわからない。
〈U〉のアバターに、正義を振りかざす連中がいる。
彼らは特に、〈BELLE〉と対峙するものたちとなる。
しかし、彼らがなぜ運営も認めていない「アンベール」ができるマシンを持っているのだろう。
個性が発揮できる〈U〉の中において、なぜ彼らはあえて正義を掲げるのだろう。
このあたりの設定があまりにも描かれないので、薄っぺらい印象しか受けない。
彼らの目論見が打ち砕かれても、カタルシスを得られないのは、彼らの「課題」が示されないからだ。

ただ、ネット警察のようなもやっとしたキャラクター設定しか与えられていないのだ。

また、現実の世界での敵となる、恵と知の父親(声:石黒賢)についても同様だ。
なぜ彼らを殴るのか。
なぜそれを隠すのか。
DV男ってこういうものでしょ? という程度の設定しか与えられていないので、すずと対峙してもそこから何も生まれない。
残念ながらあれで解決したとは思えないし、二人の子どもが良いように、「助けたいって言葉だけ」に過ぎない。
彼らはその後どうやって生きていくのだろう。
すべてを置き去りにしてしまって、果たしてどんな意味があるのだろう。
少なくともどうなったかを登場人物の誰かに語らせて、いったんは落ち着いたことを示しておくべきだった。
「あの子たち、保護されたらしいわよ」とか。
(あまりに退屈すぎてエンドロールを最後まで見ていない。そこにあったらすみません)

その後日談があってもなくても、父親がなぜ子どもに暴力を振るうのかが見えてこないから、やはり解決してもカタルシスが低い。
そして、それとすずの父親との和解がリンクしてこないと、物語としての完結性が乏しくなる。
部屋を散らかしたまま物語が終わる印象だ。

主人公も、その対峙する敵も、あやふやで曖昧でぼやけている。
だから物語を貫く世界観もテーマもぼやけてしまう。
私はこの映画を見ながら、まるでネットから得た情報だけで組み立てたような映画だな、と思った。
実際に生きている人間がどこにもいない。

一人も人がいないような高知の田舎なのに、繁華街(商店街)は大都会のような混雑ぶりだったり。
(祭りでもあったのか? いくらなんでも人が多すぎる)
部員が一人しかいないのに、インターハイに出場するハイクオリティの同級生がいたり。
(都合が良すぎる)
超絶イケメンの幼なじみに「私だけ」結局気に入られていたり。
(結局勝ち組かよ)
世界中が〈BELLE〉の正体を探しているときに、ずすの周りはすべて見抜いていたり。
(その予兆どこにあった?)

リアルな女子高校生(何がリアルか知らんけど)や、リアルな父親・母親像がいない。
そこにあるメッセージ、テーマがない。

この映画は、どう生きろ、と結局いいたかったのだろうか。
自信を持って生きろ、というのなら、DV男は不要だったし、親の愛情、ということならすずの父親をもっと描くべきだった。

それぞれ良い設定を持ちながら、本当に描くべき中心を描かない。
だから、面白そうになりそうで、全く面白くない映画になってしまった。

最初に言ったように、見せ場である歌のリップシンクに違和感がある、まさにその状態だ。
歌は良い。
画は良い。
でもかみ合わない。
この絶妙な違和感に、私はこの映画の本質を見た気がする。

余談。
一人の作家性に映画の命運を託すのではなく、ピクサーのようにチームにして脚本をたたいていく(錬成していく)ほうがいいのではないか。
彼に才能がないとは思わない。
けれども、ジブリ(の宮崎駿)のようなシステムは、やはり特殊な現場であるような気がする。

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