ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

知識と知性は別の物

2008年06月21日 | 価値観
♪最近再読している本。「憂鬱と官能を教えた学校」(著…菊地成孔+大谷能生)。bugaluさんの影響で読んでます。商業音楽に欠かせない「バークリー理論」の再検証を含めた講義録。少々難しいけど面白いです。


 ぼくは本を読むこともわりと好きなので、時間が少しある時などは、すぐ最寄の本屋さんに入って、本を物色しがてら時間をつぶすのが好きです。 
 ある書店で時々偶然に出会う、仕事関係の知り合いがいます。知り合いといっても、挨拶を交わす程度の付き合いなのですが。
 その人は、書店でぼくを見かけるたびに、
 「勉強家ねぇ」とか、「読書家ねぇ」と声をかけてくるのですが、言われたこちらは素直に「そうなんですよ」と言えない気分になるのです。
 いや、むしろ「この本、枕にちょうどいい高さなんですよ」とかなんとか、ヒネクレた答えを発したくなるのです。


 その人はお医者さんと結婚していて、それを誇りに思っているようです。つまり、「医者=頭が良い。頭が良い人の妻も頭が良い」という論法なんです。そして「本好き=知的な人」という価値観を持っているようでもあるのです。
 その医師夫人自身もよく本を買っているようですが、彼女は本を読み、いろんな知識を覚えることで、「自分は人より知性がすぐれている」と思おうとしているところがあるようです。そして、ややもするとそこには知識や学力という物差しで人を計ろうとする「差別感」が現れているような気がするのです。


 ところが、ぼくにとって本が好きだということは、音楽を聴くのが好きだったり、スポーツが好きだったり、おいしいものを食べるのが好きだったりするのと全く同じレベルのこと、つまり、生活の中の楽しみのひとつに過ぎないのです。
 つまり、彼女とはこれだけ価値観が違うので、「読書家ねぇ」とほめられても(ほめられること自体、見下ろされているような気がするヘソ曲がりなぼくです)、素直に応答する気が起きないのでしょうね。


 読書は知的な楽しみです。けれど、本で得る知識は、言ってみればハサミとかペンとか定規などと同じく、ひとつのツールに過ぎないと思うのです。
 本から知識を得ることが大事なのではなく、本から得た知識を正しく使えるかどうかが大事なことなんじゃないのかなあ。
 その医師夫人は「本棚にある本の量が知性の現われだと思うタイプ」だから、よけいぼくと波長が合わないんだ、きっと。
 読んだ本の量が多いこと、つまり知識があることと、知性があることは、必ずしも同じ意味ではないですもんね。


 もちろん読書量も大切だとは思うけれど、読書で得た「ツール」を正しく使わないと、出てくるのは誤った結果ばかりですからね。例えば、「障害を乗り越えて」式の体験談を読んで涙する人が、平気で(つまり悪気なく)障害者差別をしている例、時々実際にみかけます。これなど、得た知識が適正に生かされていない例ですよね。読書も、姿勢というか、捉え方によっては、得られる結果が違ってくるってことでしょうか。


 読書で得た知識は、使い方次第では、自分というものを客観的に振り返ることもできるはずです。ぼくは、読書で得られる大きな財産のひとつは、正しく考えようという気持ちが育つことだと思うのです。文字を読んで「知識を得た」ことに振り回されず、目をちゃんと見開いて物事を正しく見ることができるよう、謙虚に心がけてゆきたいものだと思います。


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コメント (16)
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