貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

「何で年よる」 死の予感!

2021-08-04 10:17:54 | 日記

「何で年よる」 死の予感!

令和3年8月4日(水)

此秋は 

  何で年よる 

      雲に鳥

  この秋は、どうしてこんなに

年老いたと感じるのか。 

 空を仰げば鳥が雲の向こうに

消えていく、

の意。

 元禄7年(1694)の作。

 前書き「旅懐」    

 旅懐・・・途中の感慨。

「雲に鳥」・・・「鳥雲に入」は、

連歌以来の季語で、春の扱い。

 ここは、そうした約束事を離れ、

上・中に見合う景として案じ出された。

 底本に9月26日の吟とあり、

「下の五文字にて寸(すん)々(ずん)の

腸(はらわた)さかれける」

と苦心作であったことを旨を記す。

 この前後の体長の不良が

老いの実感を呼び起こしたとみられ、

上・中の感慨と下五の景とが

絶妙の感合をなし、

一読して胸に迫るものがある。

 と同時に、それでもなお句の表現を

巡って頭を悩まし続けていたことが

知られ、さらに深い思いを抱か

されることになる。

◎今年の秋は、どうしたことか、

身の疲れをひどく感じてならない。

 秋空を寂しく眺めやると、

雲の向こうを飛ぶ一羽の鳥が

見える。

 その飛び方が、我が身の衰えと

よく似ていて、力なげである。

 旅に病む我が心のようで、

旅の愁いをひとしお感じてしまう。

 秋の空に浮かんでいる白い雲は、

まるで死体のように侘しげである。

 そこに、飛んでいる鳥は弱々しく

て頼りない。

 全体として、ふと上を見た芭蕉には

全てが死の予感のように見えた。

 身も心も弱り切った芭蕉の、

生気を全て抜き去った。

 声にならぬため息を映した

ような句である。

「何で年よる」という表現には、

やがて来る冬の寒さとともに、

去りゆく秋の決別の情が染みている。

 芭蕉は天を見上げて祈りながら、

雲と鳥の高い視点から自分を

見下ろしている。

「何で」というの口語の疑問詞は、

雲と鳥とを結びつけていながら、

雲と鳥との別れをも示している。

 言ってみれば、二重の疑問を

読者に突きつけている。

 秋という季節には、

春のような華やかな喜びもなく、

夏のような暑さによる生命の力

もなく、

と言って、冬のような固く強く

迫ってくる景色も寒さの苦しみ

もない。

「何で」の疑問は、四季の中から

ことさらに秋の曖昧さ、寂しさ、

孤独感を選び出すよすがに

なっている。

 これも、元禄七年の、

芭蕉の死の直前の句である。

 終末近くの生と死とへの

不思議な思いが存分に流れ出た名句。

 また、それが、春、花の下で死のうと

思い焦がれた西行との差である。