懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

日本茅葺紀行 その80 島根県三刀屋町の民家

2013年09月19日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 島根県三刀屋(みとや)町(現在は雲南市)

三刀屋町の奥まった集落に7戸の民家がある。そのうち6軒は茅葺き民家であった。冬は
雪がかなり積もる。今も茅葺きが残っているか不明、最近はこの近くにも高速道路ができた。
ある茅葺きの民家の夫婦は冬場は何もできないので三刀屋の町に息子が家を建てているのでそこで過ごす。春から秋深くまでは茅葺き民家に住み野菜や米を作っている。
歳を取っても畑作業は楽しいと二人で自給自足の暮らしている。
この家のご主人の話、猪の罠を各所に置いてある。猪が掛かっているが見周りに行ったら掛った猪を熊がかぶりついていた。
暴れる猪をするために持っていた鉄棒で熊の頭を何発か叩いてやっと猪を離して林に逃げ帰ったという。何も考えずに撮影していたのに熊が近くにいるんだとおもったものだ。
それにしても80歳くらいの人だったが熊を鉄棒で叩いて猪を奪い返した勇気たるや凄いとおもう。
熊や猪が怖くて山中で暮らせないというに違いない。

最近熊や猪が家の近所まで来て農作物や果樹の食害や人へ危害を加える事例が多くなった。
その原因は広葉樹が減り食べ物がなく人里に下りてくるためといわれている。
私は人里が過疎化高齢化で人が減少したこと山に入る人も狩猟をする人もすくなくなった。動物も人を怖がらなくなり柿の木などのある人里が効率よく食料が得られる。
山里では熊に食べられる前に柿の収穫して干し柿にしている。
何年か前に熊が出没が多くなり年間で3400頭も射殺された。
こんなに殺したら熊が絶滅するのではと思ったが絶滅どころか増えている。
ツキノワグマも九州では絶滅したようだが中国地方はまだかなり生息しているようだ。

カモシカは特別天然記念物に指定され絶滅が心配された。今から50年前にNHKがカモシカの撮影をするために二週間雪の中を探して撮影に成功している。
今は渡良瀬渓谷鉄道のように鉄道からカモシカが見える。今は15万頭はいて毎年1500頭づつ射殺して増えないようにしている。天然記念物を射殺して誰かが食っているというのはお口にチャックだそうだ。




歩きながら携帯を見ない

2013年09月18日 | 日記
東京で2020年にオリンピックが決まったが気になる事がある。
日本人の災害時の冷静な態度に世界から評価された。

しかし、その反面、歩きながら携帯を見る人、座っていても携帯電話からから眼を離さない、会話中も携帯を見ている人も多い。中には運転中にも禁止されているのにまだ通話する人がいる。
歩いている時は歩行に集中しないと危険である。視野が狭くなるし熱中して危険を察知できない。歩道には自転車も通るし車が間違って突っ込んできても逃げられない。

歩いているいる時は歩きに集中する。
会話中には会話に集中する事がなぜできないのかと思う。勉強中や仕事中も見ている人はいるとおもう。
オリンピックで外人が大勢くるのに外人の眼にはどう映るのであろうか、ネット依存になる人も多い。

ネット依存の生活はおかしい。歩いていて秋の花にも気づかず金木犀の匂いにも気づかずネットで秋の情報を得るのは何かおかしい。日本人の四季折々の移ろいも詫び寂び感じられない。これでは人と折衝したり対話する能力も育たない。
顔の見えないところでは過激で攻撃的な事も書くが対面では何も話せないかすぐにキレる行動をとる人間を増やす事にもなる。

歩きながら携帯ばかりを見る風習は恥ずかしい事だと公共広告で教えるべきではないかと思う。
オリンピックが決まりこんな事を思った。

懐かしの蒸気機関車写真展 その32 「機関区」 糸崎機関区

2013年09月18日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 広島県三原市糸崎 糸崎機関区

呉線に大型蒸気機関車 C62形C59形蒸気機関車が残っていたので多くの鉄道ファンが訪れた。呉線と函館本線が最後に残った大型蒸気機関車の路線であった。
呉線は電化で蒸気機関車は消えた。
その五年後に蒸気機関車は全廃となった。
糸崎までは快速で2時間程度で行けたのでよく通った。
今、糸崎機関区の横の国道2号線で走るが機関区の設備も機関庫もすべて消えて更地になっている。隣にあった工場の煙突も消えてなくなっている。

C62形蒸気機関車の16番と17番が隣同士で並んでいる。
こんな位置から撮れる場所があったのか何かの設備の上に登って撮ったのであろう。
昭和の時代はこんなことが許される時代でもあった。
後ろに電気機関車のEF15 EF58が並んでいる。EF58が主力機であるのがうかがえるが電気機関車はほとんど撮影していない。







茅葺き民家 ダゴ飾り

2013年09月17日 | 茅葺き民家
撮影場所 大分県

ダゴ飾りは棟に乗っている茅を束ねたカラスオドシの事です。
大分や福岡南部で見かける。
しかし、茅の葉を除いて束ねたもので腐れ易いのでトタンや杉皮を巻いたものもある。
関西地方にも茅を束ねて棟飾りにする「めわら」があるがほとんど見かけなくなった。

ダゴは九州ではダンゴの事で月見団子もダゴというし、太い麺状にしたものもダゴという。
糸や針金が絡まってもダゴになったという。
大分や福岡には山梨のホウトウとよく似たダゴ汁がある。
「ほうとう」とほとんどかわらない。しかし山梨のかぼちゃほうとうはないようだ。
茅を束ねてドタァと棟の上に乗せることからダゴ飾りの名前がついたのではないかとおもう。





懐かしい風景 出港 鹿児島港

2013年09月16日 | 懐かしい物
撮影場所 鹿児島県 鹿児島港

鹿児島港から屋久島行きの出港風景を撮影した。
私はその頃、宮崎県で働いていた。屋久島は九州で一番高い山で九州でいる時に登山をしておきたかった。
屋久島へは鹿児島港から船が出ていた。屋久島以外にも種子島や奄美大島や沖縄本島などいろいろなところに船がでていた。
この写真は昭和42年8月だった。
沖縄はアメリカから返還される前でパスポートが必要であった。(返還は昭和47年5月)
出港の際に女性の楽団が演奏してくれた。みんな甲板にでて演奏を聴いた。屋久島行きの船は男ばかりだった。今のように山ガールなど少なかった。男ばかりのところで女性が演奏するのを見たさに殺気立っていた。


初めて屋久島に行った昭和42年には屋久島には港がなかった。
沖合まで小型船が迎えに来ていた。しかし、外洋に面しているので結構波が高い。
一メートルくらい上下する船に飛び下りなければならない。年寄りや女性は二人でサポートして降ろすが足を捻挫したり骨折したりする事もあるであろう。
その年は安房から永田に島を東西に縦走した。しかし、その当時はまだ屋久杉の伐採をしていて原生林を見たくて来たのに伐採された荒れた山肌を何時間も歩かないといけないコースだった。まだ営林署で働く人のための小学校もあった。環境問題が表面化して屋久島の伐採が終わったのは昭和45年だった。、
次に屋久島に行ったのは昭和43年5月で島の北側に港が出来てフェリーになり縄文杉など大きな杉が見られるコースが近くなった。

撮影したネガも余り残っていない。千本くらい撮っておけば無くなることもないか10本程度の撮影だから無くなるのだろう。あの時代は目的を持ってなんでも撮影しておくべきだった。








日本茅葺紀行 その79 愛媛県久万町

2013年09月15日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 愛媛県久万(くま)町(現在は久万高原町)

数少ない四国の茅葺き民家探しと観光を兼ねて愛媛県と高知県を訪れた。
松山から砥部焼に立ち寄りコーヒーカップを買った。
各地の焼き物の里に立ち寄りコーヒーカップを買っている。
砥部焼は陶器というより有田焼のような磁器に近い。
砥部から久万町には峠越えになっている。久万高原の名の通りだ。
久万高原に茅葺き民家が残っている情報が得られたので訪れた。
畑野という地域だった今はもう茅葺きは消えていると思う。
その頃は私も歩けていたので棚田にある茅葺きを何軒か撮影した。
棚田から外れたところに小屋も茅葺きの家があった。
大きな柿の木があった。10月末に来れば柿の実が色づきいい写真が撮れたであろう。
柿の実も撮影はタイミングが難しい。みんな取られて干し柿にされたら撮影できない。
棚田から茅葺き民家に向かう途中にハゼの木のようなのが植えてあったのでキハダ(黄柏)だという。キハダは皮が黄色で昔は染料にしていたが今は漢方薬の原料になっている

ここから面河(おもごう)渓に立ち寄り野村町に向かった。

懐かしの蒸気機関車写真展 その31 「機関区」 五稜郭機関区

2013年09月14日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道函館市 五稜郭機関区

函館本線五稜郭機関区は大型蒸気機関車の基地でこの大型機関車を見に行った鉄道ファンは多い。五稜郭の名前がいい明治維新のロマンを感じるが機関区には何度も行ったが恥ずかしながら五稜郭の遺跡には行った事がない。

機関区に行って何が楽しいのかと鉄道に興味のない人は思うだろう。
でっかい車体、給炭や給水作業、煙の匂い、汽笛、移動する時のクランクの動きを見たり匂ったりするのが楽しい。
旅行なので時間はあまりない滞在しても2時間である。
2時間の間にお目当ての機関車がいればよいがいなければがっかりである。
本当ならばひとつの機関区に一日いたかったものだ。

特急も引いたC62形 大型貨物用D52形がいた。D51形より一回り大きい。


茅葺き民家 京都府園部町

2013年09月13日 | 茅葺き民家
撮影場所 京都府園部町七江

園部町は丹波地方の一部で兵庫県の篠山市と風景がよく似ている。
民家は入母屋造りでカラスオドシを乗せている。
家の周りを板張りや漆喰の塀で囲っている家がある。
関西は塀にも金を掛けている。
ブロック塀ではがっかりだが昔ながらの塀は昭和の風景である。

園部町にはポツポツと茅葺き民家が残っいた。園部町全域では数十軒あったように思う。
いまも数軒残っているようだ。
私は美山町へ行く時は国道372号線から園部町を横断する県道を使い日吉町、美山町へと走った。
国道372号線は姫路から京都を結んでいるので阪神淡路大震災で高速や国道が通行止めになった時にここが流通の幹線になった。






懐かしい物  木の半鐘

2013年09月12日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県神郷町(現在は新見市) 

神郷町から走っていない道を茅葺き民家を探しに鳥取県の日南町を走っていた。
神郷町は500メートル程度の緩やかな高原であった。
その道路脇に木の半鐘があった。
その高さが今まで見たこともない低さであった。
その前に石仏があった。
半鐘のカネを盗んで行ったりイタズラで叩く人もいないというのが前提になっているのであろう。
車を止めて面倒くさがらず撮影した。
周りを見渡せばまだらに民家がありのどかな風景だった。






日本茅葺紀行 その78 京都市左京区花背

2013年09月11日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 京都市左京区花背

左京区も花背までくると随分山中である。
京都北側の山はどこから入るにしても曲がりくねった峠道である。それもかなり険しい。
京都の北側は要塞である。大勢の兵で都を攻めるのは難しかった。前には桂川が流れ平野が広がっている。長い間、都が置かれた好都合の場所だった。

秋になって京都の街に入るのは大渋滞で時間ばかり掛かる。
私は日吉町から花背に入る。
花背や広河原、久多には茅葺き民家も残り懐かしい日本の農村風景だった。
初めて行った時の感動が今も忘れられない。
端正な茅葺き民家である。立ち並んだ杉林
昔から維持されてきた風景だったのだろう。
しかし、花背も過疎化で茅葺き民家に住む人も少なくなった。
土日だけ京都の市街地から帰って家や田畑の手入れをしている人も少なくない。
これから民家も取り壊されそうな気がする。
私はフィルムカメラの時に行ったままでデジカメになり訪れた事がない。
死ぬまでにもう一度行ってみたいものだ。