懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺き民家 兵庫県今田町の民家 モノクロ

2015年02月20日 | 茅葺き民家
今田町は現在、篠山市になった。
昔であれば丹波地方でふる。
今田町の行き止まりの道を一本一本訪ね歩く。
集落の一番奥に前に茶畑の茅葺民家があった。
しかし、撮影したのは12月16日、太陽の角度の一番低い時期で茶畑は影でつぶれている。
春になって新葉が出る頃に来ようと思ったが結局来なかった。
後でというのは忘れの公約である。
撮影するなら必ず実行する意思の強さがないとしいい作品は残せない。

12月から1月は茅葺民家を撮る者にとっては光線が悪い。
色は光が物に当たりその反射を目やカメラは検知している。太陽が当たらなければ緑の葉でも黒くなる。見える色は天候や時間、季節によって変化する。
冬至では緯度が35度では光線の角度は31.6度
屋根の角度は一般的に45度以上のため裏側は影になる。
ちなみに夏至は78.4度、春秋は55度である。

太陽の光線の角度の簡易計算方法が載っていた。
南中高度とは太陽が一番南に来た時の角度

1.春分、秋分では・・
南中高度=90°-緯度
となります。

2.夏至では
南中高度=90°+23.4°-緯度
となります。

冬3.至では
南中高度=90°-23.4°-緯度


私は春分と秋分の頃の光線が一番好きだ。物が立体的に見えるように思う。
本来ならば一年間同じ風景を撮り光線によりどのように写るか体得するのがいいのだがなかなかできない。

日本茅葺紀行 NO,196 秋田県大仙市の民家

2015年02月19日 | 日本茅葺紀行
大仙市は平成の大合併で生まれた市でどのあたりにあるか判りにくい。
宮城県の仙台の近くかとか大山の山の麓かと想像してしまう。
中心は花火で有名な大曲で大曲の大と仙北郡の仙の合体させたものか。
角館の周辺は何度か訪れたがそれから横手に掛けて走った事がない。
所詮、1日行程の旅行で走る程度では細部まで見て回れない。茅葺の集合しているところは何度も訪れ撮影しているが無いと思われる場所は手薄である。
この日は六郷の名水に立ち寄り横手まで移動する。
途中何軒か茅葺民家はあったが少ない地域である。
それでも一軒素晴らしい民家があった、曲がり屋で柱を外壁で隠さずそのまま見せている豪壮な造りである。平成の時代に人が住んでいる民家が残っているのは私にとって文化財で昭和の遺産と思う。

途中のスーパーでトーフカステラを買って食べる。
県民ショーで紹介された。卵やバターが高くカステラが食べられない時に豆腐に砂糖を加えてカステラ風にしたもので今でもこの地域では売られている。カステラははやっぱり普通のカステラがいい。私の子供の頃は本物より代用食が多かった。


懐かしい物  タコつぼのある風景

2015年02月18日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県倉敷市下津井

それまでは蒸気機関車の写真を撮っていたが昭和47年3月に岡山の新幹線開業のダイヤ改正で本州から多くの蒸気機関車が消えた。鉄道の撮影から次のテーマを探していた。昭和48年10月に瀬戸大橋の着工を控えていた瀬戸大橋の建設で大きく変わる下津井の風景を撮り始めた。
しかし、第一次オイルショックで超インフレとなり石油の使用量は抑える。物価は28パーセントの超インフレとなる。
結婚当初で厳しい時代を体験する。
総需要抑制策で瀬戸大橋の建設は五年間凍結となり昭和53年10月着工となる。
勢い込んで下津井を撮影していたのに気落ちした。
下津井はタコ漁が盛んである。この当時はこんな素焼きのタコ壷だった。
瀬戸大橋が出来れば前方に橋がある事を想定して撮影した。
現在は割れにくいプラスチック製になっている。
瀬戸内はタコ壷を海底に沈めるだけだがエサを入れるところもある。エサを入れるタイプはエサを引けば入り口が閉まる構造になっている。

この写真は昭和48年で舟は木造船ばかり穏やかな漁村である。
しかし昭和49年末に某石油会社の石油タンクから油漏れ、瀬戸内海をすべて汚染する大災害になる。フェリーに乗っても瀬戸内海は完全に死んだと思った。
素潜りが好きで夏には島にサザエ獲りに行っていたがもう出来ないと思った。
流出した石油の回収に漁民の人々も動員された。これから数年漁に出られなくなった。
下津井は流出地から近いので岩壁も砂浜も石油で覆われ回収したドラム缶が並んだ。それ以来、下津井には行けなくなった。

それでも自然の浄化力は凄いものだ。5年もしたら元の状態に戻ったように思う。
考えて見れば石油も元は木などの植物から出来ている。炭素と水素からできている。
時間を掛ければ食べるバクテリアもいるし分解し炭素と水素に還るものもある。


岡山の茅葺民家 長船町の民家 モノクロ

2015年02月17日 | 茅葺き民家
長船町は現在は瀬戸内市

長船町は備前長船の名刀で有名だ。
福岡の街も長船町にある。
吉井川の洪積地でもある。いい粘土が取れるので焼き物も盛んであっった。
この民家のあったところも須惠地区、須惠は須恵器などを生産していたのでこの地名が残っていたのであろう。陶と書いて「すえ」と読む地名や人名もある。
こんな昔からの田園地帯の集落を走って茅葺民家を探す。
昭和40年代ならば半数が茅葺であっただろう。
平成の時代にはさすがに少ない。
一日走って5軒発見出来れば走行だった。
エネルギーと時間の無駄使いだったがやり始めたら辞められぬ。
何の意味のない事に熱中するのが人生かもしれない。

岡山南部の民家は寄棟で下屋がある民家が多い。下屋も本瓦葺きで重量感がある。
棟はがんぶり瓦を乗せている。

茅葺き民家 島根県伯太町の山際の民家 モノクロ

2015年02月16日 | 茅葺き民家
島根県伯太町(現在は安来市)

伯太町の集落を訪ね歩く。ここへ行けば茅葺民家があるという補償もない。
初めから分かっているところへ行くよりひょっこりあった方が感動が大きい。
こんな趣味は効率やノルマーは無用である。全国各地を訪ね歩くガイドブックもない自分の感性だけが基準である。
自分が必要とするもの感動するものにシャッター押す。
京都の寺院や世界遺産を追いかけている人がいるがそんな写真は好きでない。
観光地のむ景に写る人も観光客、私は人々の日常の何気ない暮らしの風景が好きで追いかけている。

山際に建つ茅葺民家、屋根もかなりくたびれている。
山際で湿気も多く風通しも悪い。ムカデや蛇の訪問も度々であろう。山に近いと土砂災害や山火事の危険性もある。
私が働いていた時に山際に自宅があり大ムカデに二回噛まれた人がいた。
蒲団にもぐり混んでいたのに触れて噛まれた。大きく腫れていた。
二度噛まれると身体に抗体が出来て命を失う事があると言われていたが彼は二回噛まれたが異常はなかった。むしろ二回目の腫れは軽微であった。これは個人差があると思うが。

昔は山際に建てれば有利な点もあったと思う。水が得やすい井戸や横穴水、薪も取りに行きやすい等もあったと思う。こんな民家も昭和の風景になるであろう。゛
崖崩れの起きそうな土地への住宅建設は広島の土砂災害を契機に厳しくなるであろう。




日本茅葺紀行 NO,195 兵庫県篠山町の民家

2015年02月15日 | 日本茅葺紀行
兵庫県篠山町は現在は篠山市になっている。
篠山に初めて訪れたのは平成になってからだ。
昭和の時代に来て茅葺に関心があったらもっといい写真が撮れたと思うがいかんせん関心が無かった。
何か丹波地方に来ると落ち着くのだ。茅葺民家も残っていて日本の昔の懐かしい風景に出合うのである。そんな丹波地方はの道は走ったように思ったが周り方が雑で奥に入るとまだ茅葺が残っていた。こんな時は嬉しいものだ。何かテーマを持ち探索していて偶然であうと感動するものだ。その感動する気持ちは20代でも60代でもちっとも変わらない。
人生は感動の数だけ楽しみがある。

私が蒸気機関車の写真を撮っていた頃に国鉄篠山線というのがあった。
福知山線の篠山口から分岐していたと思う。
累積赤字が大きな問題になり篠山線も大赤字路線で廃線になった。大赤字路線の廃止が始まった時期である。
篠山線の乗車券を買うために駅に返信用の手紙同封で手紙をだした。
30円乗車券を10枚購入依頼した。100円玉は二つ折りの厚紙に貼り送っていた。
国鉄の入場券は早く処分したが乗車券は1000枚ほど数年前まで持っていてオークションで売ってしまった。現在はこの金でフルサイズの一眼デジカメを買った。




蒸気機関車 機関車を斜め後ろから撮る

2015年02月14日 | 蒸気機関車
伯備線および函館本線のD51形蒸気機関車を後ろから撮った。
正面ばかりでは飽きがくるので後ろから撮ったのかと思う。光線の都合や動輪やクランクがよく見えるので撮ったのであろうか

D51蒸気機関車は沢山いたので感動も薄れマンネリ気味だった。
機関区の所属する機関車をすべて調べ全台撮るくらいの意気込みがほしかった。
昭和の時代から消えるのは蒸気機関車だけではなく他にもあったと思う。
そんな消える風景も横展開して記録する事が必要だった。今思うと人生には反省ことが沢山ある。
たかが写真を撮るだけだが横展開できる豊富な知識と企画する能力が必要とされそれが個性にもなる。人間は何歳になっても身体が動かなくても勉強せにゃあアカン。


岡山の茅葺民家 加茂町倉見 モノクロ

2015年02月13日 | 茅葺き民家
岡山県加茂町倉見(現在は津山市)の茅葺民家

かっては人々が暮らす賑わいも活気もあったであろう集落、人が去り家は壊され更地になった。誰も畑をする者もなく林や山に還るのであろう。
現在もここで人が暮らした痕跡も次第に消えようとしている。
後、20年もしたら動物と木々の里になるのであろう。
こんな人々が暮らしてきた各地の集落を記録していくのがアマチュアカメラマンの役目のように思う。


茅葺き民家 東京都八王子市の民家 モノクロ

2015年02月12日 | 茅葺き民家
息子が学生の頃に八王子周辺に住んでいて茅葺民家があると教えてくれた。
市の指定の茅葺民家で家族で生活していた。
正面に立て札が立っていて生活をしているので写真を撮ったり敷地に立ち入らないでほしい旨を書いてあった。撮らせてもらいたかったので断りもなく撮るわけにもいかず挨拶に行く。
立て札に反して快く撮らせてくれ話しもしてくれた。
茅葺民家を撮影する以上、他人の敷地に入り人やプライベートな事も撮影する。
住人に取ってはカメラマンは迷惑な存在である。断られる事も多々あるが簡単に引きさがってはこんな趣味はできない。情熱を持って交渉するしかない。これも人生修業のひとつ思い心を無にして相手の話しをじっくり聞く。

関東の茅葺は余り見たことが無かった。関西は茅の端は45度の角度に切りそろえるが関東は水平に切る。兜造りも関西以西では目にしない。




日本茅葺紀行 NO,194  山梨県忍野村の小屋と道祖神

2015年02月11日 | 日本茅葺紀行
忍野村には茅葺民家も残る。集落の外れにこんな小屋と道祖神があった。
写真の右側の石柱は見えにくいが男女が描かれた道祖神だ。
我々のところには道祖神は全く見掛けない。
道祖神は長野、山梨、埼玉、群馬で見かけた。
長野の安曇野は観光にもなっていて新しい物も多い。
群馬県には沢山あった誰も観光として撮る人はいないので自然体でよかった。
マニアックな人は何千体と撮っているのであろう。
こんな小屋はいつまで維持されたのであろうか
石垣の上に建物が建てられているのがよい。
これがコンクリートならば興ざめである。
この石も落ち着きのある色でよい。
火山性の岩石であろう。火山性の岩石はマグマがゆっくり冷え固まったものは組織が揃い収縮するときに割れ柱状節理になる。石の目にくさびを入れれば綺麗に割れる。
加工しやすいので石垣や建設用石材に使われてきた。
大阪城や江戸城も100キロ以内のところの石切り場から運んでいる。