懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい物 老いる

2018年03月05日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県旧大佐町尾原

人は老いれば誰でも身体がうごかなくなり歩行も不自由になる。
元気で100歳まで動きまわる人もいる。
こんな人はエリート中のエリートである。
しかし人間の元気は当てにならない。パソコンと同じでいつ壊れるかわからない。阿藤快さんや大杉連さんのように突然亡くなることもある。

わたしは介護施設に10年行っているがみんな身体不自由だが亡くなる人はあまりない。
悪くなっての粘りが強い。
頑張れないので無理しない身体が悪いのはわかっているので自分にできる事をして満足する。
いまさらあれしたいこれしたいとは思わない。元気な人の自慢話はなるべくなら聞かない。
何でもできる人を羨ましいとは思わない。

年寄れば諦めも肝心


中学二年生のブログ

2018年03月04日 | 日記
私のブログに読者登録があった。私のブログの読者にしている人はマニアックな人が多い。
そんなマニアックな中にまたマニアックな人が増えた。
箱軒ブログという作者で中学二年生だ。
中学二年生で渋い趣味を持っている。

箱軒の言葉さえ知らなかった。
大阪で戦災で焼失しなかった地域に残る箱軒の店舗を撮り歩いているのだ。
大正から昭和初期にはやった建物のようだ。
看板建築は東北や五所川原などてよく見かける。

看板建築はNHKの美の壺でも放送があったが箱軒もあったのだろうか

それにしても中学生でこんなことに興味を持ちカメラを持って走り回っている事に感心する。
文章もしっかりしている漢字も誤りがなく言葉もよくしっている。RCこんな言葉をしったのは30歳になってからだ。
私の中学時代はどうであったかと振り返る。悲しいから何の目標も根性もなく成人雑誌にしか興味がなかった。

最近は中学生で将棋の六段の棋士がいるができる人は中学生でしっかり自分のやる事を決めている。
私が立ち寄る鉄道のホームページになめくじ会がある。堀越庸夫氏のホームページもよく見る。双方とも中学生で鉄道撮影を初めて70歳の現在も続けているのは驚きだ。



茅葺き民家 石碑のある風景

2018年03月03日 | 茅葺き民家
撮影場所 兵庫県旧千種町

茅葺き民家の前に石碑が立っていた。
何の石碑が忘れてしまった。
田舎や古い町並みにいくとこんな石碑や地蔵や祠が立っている。
不幸があったり災難がある都度建てられたのだろう。
疫病、干ばつ日照り、冷害、土石流、津波、地震津波、台風、虫害、雪害、噴火、領主からの搾取と集落の災害や苦難の歴史だったのかもしれない。
昔の人は平和で穏やかな時間より苦しい苦難の時間が長かったかもしれない。

馬を供養した馬頭観音や集落に災いがこないようくな石仏があった。
復興には村民の協力と信仰に頼るしかなかった。

山梨県には丸石信仰があり川原で拾ってきた丸石を山の様に積んでいる。
あれは面白い信仰だとおもった。
各地の石仏の立てられた意味もわかると面白い。

日本茅葺紀行 NO,432 青森県つがる市の民家

2018年03月02日 | 日本茅葺紀行
青森県つがる市の西の端は砂丘地帯が十三湖まで続く。
海岸に近いところは松の防砂林が続く。
海岸近くの砂が吹き寄せるところは各地松林が植えてある。

鳥取県の鳥取砂丘近辺の風景に似ている。
松林は日本各地に残っている。能代市の松原や唐津の虹の松原は壮観である。
時間のある人は日本の松原巡りをすると面白いと思う。
黒松は少々潮風が吹こうが地下水に塩分があろうと強いものだ。

余談だがつがるといえば横浜市の野見山動物園につがる君という日本一長寿のラクダがいた。この動物園は入園料が安くこのラクダは人気者だった。青森の人が個人で飼っていたが世話ができず動物園が引き取った。飼われていた地名からつがる君の名がついた。
つがるの名を聞くとつがる君のドキュメントを思い出す。


つがる市の砂丘の中に湿地があり初夏には日光キスゲが咲き乱れる。
日光キスゲなどは霧ヶ峰のような高いところにある高山植物と思ったが青森までくると平地でも見られるのだ。

この砂丘地帯を横切り日本海にでた途中集落が点在するが民家が新しく茅葺きはなかった。
日本海にでて若者が一人ルアーで釣りをしていた。
海岸を独り占めできる釣り人の少なさである。ヒラメやカレイ狙いで来ている。
70センチくらいのヒラメは何回か釣ったという。
釣り好きにはたまらない場所だ。
定年後全国を旅をしながら釣りをして晩御飯のおかずにする人がいる。
鯵が食べたければ岸壁からサビキ釣り
こんな旅も楽しいと思う。

砂丘地帯から数キロ内陸部に県道が走っている。十三湖までいける。その道沿いに茅葺き民家が残っていた。



回想 初任給

2018年03月01日 | 日記
私が初任給を手にしたのは半世紀以上前だ。
初任給は16000円だった。
入社した時の案内に三年くらい貯金すれば電蓄が買えると書いてあった。
今ならばステレオとかコンポというのであろう。
戦後の復興期に育ったので貧乏根性が沁みついていた。

小学校では日本の車の台数は250人に一台 アメリカは3人に一台、
電話は100軒に一台、アメリカはほぼ100%、イギリスの舗装率は100%と習った。
私の住むところの県道は砂利のままタイヤ跡で穴が掘れるのて定期的に整地していく。

この給料では毎月2千円を貯金してボーナスで二万円していた。年間6万ほどの貯金である。車を持つなど夢の夢だった。
しかし、職場にクラウンの車をもっている人がいた。中学卒だったが副業で車の修理工場をやっていた。会社勤めで副業は禁じられていた。親が社長で休みに手伝っていた。
私が入社して2年後に退職して本格的に修理工場を始めた。
これから車社会がくるのを先読みできたのである。
厳しい人だったので私は避けていた。避けずにこれからの将来の事を聞いておくべきだった。
昭和43年頃になると自動車の免許を取りにいくようになった。
私の住む市には教習所はなかった練習場しかなく試験は宮崎市まで受けにいっていた。
何事も早く取得するものだ。私のようなグズは駄目だなあと思う。

車や自宅を持つのはずっと先の夢だと思っていた。子供の頃からの貧乏根性がコンプレックスになっている。しかし、11年後には自宅も持つことができた。
初任給16000円で田舎と言えども1500万円は掛かる自宅を建てられるものだ。
あの安い給料で10年後にはみんなアメリカのような暮らしに成れたのは不思議なものだ。

家を建てるについて住宅担当の人に相談に行ったら頭金なしで建てた人がいると説明があった。その軽さに驚いた。
会社も社宅を造ると維持費は掛かるし個人の財産になる自家建設をすすめた。
金も低利で貸してくれた。
高度成長期で給与は10年で五倍になった。20年後は10倍になった。ベースアップもあり20倍以上になった。今の中国である。
それと残業が多くローンの支払いにもくろんでいた者もいた。今は36協定で厳しく管理されているが80時間以上残業をしていた者もいた。
農産物の自由化や1ドル360円の固定相場から変動相場になり円高で暮しが楽になった。

バブルまで給料は上がり続けたが世界一高い給料に競争力を失い正規、非正規の身分制度を作ってしまった。

昭和41年の文芸春秋にアメリカの経済学者が21世紀に向けて成長するのは日本。韓国、中国であると書いてあった。中国はみんな国民服の貧しい時代であった。
もう一度どんな未来予測だったか読んでみたいものだ。

私の昭和鉄道遺産 その63 直方駅9600型

2018年03月01日 | 私の昭和鉄道遺産
撮影場所 福岡県 筑豊線直方駅

直方駅に停車している9600型蒸気機関車
貨物を牽引して発車まで待っている。機関士は新聞を広げて読んでいる。
鉄道に興味のない人が見れば何の興味も湧かない写真であろう。
しかし、鉄道に興味のある人はこんな写真にも懐かしさを覚える。

自分も余り考えもせず汽車がいれば撮影していた。
40年後、50年後どうなるかも考えず撮った。
30年後にはパソコンが発達してアナログ写真がデジタル化されて画面でも印刷物にも
なりデータを他人に送れる時代がくるとは思わなかった。
そんな時代が来るのが分かっていればもっとと違った写真も撮っていたであろう。

その当時は何でもいいから撮っておこう何でもいいから集めておこうの考えだった。
素人考えでこうなるだろうと思っても当った試しがない。
株にしても金を買うのにしても思惑で買ったものは見事外れる。

長年コツコツと自分の興味のある事を続ける事であろう。