ひとり気ままに

バツイチ女のひとりごと。離婚した人も、離婚を考えている人も、そしてこれから結婚する人も、「気ままな話」を聞いてください。

高野山旅行記3/21(土) ②

2009-05-06 22:11:05 | 旅行記
大門についた。時間は11時10分。
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歩くつもりなどなかったので、今日はセーターを着ているが、天気がよく、暑くなりそうである。
11時20分。予定通り大門から女人堂を目指し、出発した。
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この道は女人道と呼ばれる道である。
高野山の中に入れない女性が、御廟を拝みたいと八葉蓮華の峰峰のこの女人道をたどったといわれている。
たくさんの鳥居をくぐり、登っていく。
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予想通り、すぐに汗をびっしょりかいた。
ハイネックのセーターがかゆくなってきた。

きつい坂道を登り、少し開けたところに出た。吹く風が気持ちい。
眼下に根本大塔が見えた。
足がガクガクして、カメラも揺れてしまう。
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上から見る高野山は、何かのベールに包まれている感じがした。
やっぱり別世界のようだ。
しかし、そこを上から眺めている私。もっと偉くなった気がした。

まだまだ上り坂を上がる。
木々の間に、赤い祠が見えた。
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弁天岳山頂の嶽山弁財天祠である。
弁天様!!
去年の九頭龍神社の大祭で、弁天様の祠をお参りしてから始まっている。
竹生島の弁天様、江ノ島の弁天様とまわってきた。

さてここから下りになる。普通は逆周りをするようである。
ここを下っていくのは難しい。道がとても狭い。
途中で登山者に出会う。
「どこから来ましたか?」
「大門からです」
「頑張ってくださいね」
「ハイ、頑張ってくださいね」
60歳ぐらいの女性がひとりで登っていた。
私も60歳になったときは、あんな感じなのかしら?
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下に道が見えた。ゴールの不動坂口女人堂はもうすぐだ。
急な坂を下りると、そこは女人堂の前のバス停だった。
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12時15分到着。

汗がびっしょりだった。
女人堂にお線香をあげ、手を合わす。
その後ろでバスの音。あ、行っちゃった。
バス停で次のバスを待つことにする。

昨日来た道を見つめる。
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ここから先に行きたかったのだろう。
私も、またここに来たい。

バスに乗る。無料券も2回しか使わなかった。
高野山駅からはケーブルカーに乗って、極楽橋駅に行く。
去年室堂に行ったときに乗ったケーブルカーを思い出した。

極楽駅からは「こうや」にのる。
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13時28分発車。南海難波に14時50分に着く。
かいた汗が引いて寒くなってきた。1枚服を着て、ぐっすり眠ってしまった。

あっという間の3日間が過ぎた。
この旅行で私は弘法大師や密教についてとても興味を持った。
新しく引越しをする家の近くには、弘法大師が開いたというお寺がある。
そして、幼い頃私はこのお寺にあった幼稚園に通っていた。
高野山に行ったこと、引越しを決めたこと、すべてにつながりがあるように思われる。
阿字観のときに体験した宇宙とのつながり。
私は生かされている。そして守られている。と思った。




















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高野山旅行記3/21(土) ①

2009-05-06 14:19:52 | 旅行記
高野山3日め。今日は帰る日である。

昨日の夜、考えた。
昨日1日で高野山をほとんど回ってしまった。
今日は弘法大師の御入定日で、奥の院では法要が9時から行われる。
それに参加するか?
しかし、列車の都合上ここをお昼には出発しなくてはいけないし、お土産も購入しなくてはいけない。
またパンフレットをパラパラとしていると、山の上から根本大塔が撮影されていた。
そうだ、これを撮影しに行こう。
方角からして、弁天峠の辺りである。
大門から女人堂まで歩き、そこからバスに乗って高野山駅に行く事に決めた。
距離は2km、時間は45分と書いてあった。

今朝は天気がいい。今日も6時30分からおつとめが始まる。
昨日は、僧侶の真後ろに座ってしまったので、今日は一番入り口に座った。
今日のメンバーはスエットの人もいる。
私の写経をしっかりと奉納してくれた。
今日は初心者が多かったことや、人も多かったのでお焼香の時間が長かった。
一番端は風が当たり、寒かった。それになれない正座で、足がしびれてくる。
今日の私も邪念の塊だった。

朝食をいただいた。
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今日も山登りをするので、荷物は宅急便で送ることにした。
遍照光院のチェックアウトが10時なので、それまでにお土産を買って、荷物をつめなくてはいけない。
また、昨日の夜クラタさんから連絡があり「国宝の多宝塔も見ていってくださいね」といわれた。

まずは、多宝塔のある金剛三昧院に向かう。ここは北条政子が建立したお寺だそうだ。
北条政子。歴史弱い・・・。NHKのドラマを昔やっていた気がする。
北条氏は伊豆の国の豪族のはず。あ、源頼朝の奥様だ。
なんだか近親間あり。
立派な門を入った。勝手に見ていいのかわからないけど、とりあえずご参拝した。
本堂は改修をしていた。
多宝塔は立派だ。
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今日は天気がいいので一眼で撮影をする。
朝日を浴びて、光と影のコントラストが美しい。

来た道を戻る。途中でこんな標識を見つけた。
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この道は熊野に向かっているのである。
このまま歩きたい。そう思ったが、それは無理な話。

お土産物屋さんも開いたので、お土産を買う。
菓匠松栄堂でかるかや餅を買おうと思ったが、個包装されていなかったので、19日に食べたやきもちを購入した。
お香を買おうと思ったが、お店が見つからず、とりあえず宿坊に戻り、チェックアウトした。
「すみません、荷物を宅急便で送ってもらえますか?」
「着払いでもよいならいいですよ」
明日は引越しで、どこにいるかわからないので、実家に送ることにした。

ガイドブックを開いて、お土産物屋さんを確認する。
あら、ずいぶん近くなのね。
19日の夕食に出た、笹巻あんぷが美味しかったので、麩善で冷凍品を送ってもらうことにした。
隣の高野山大師堂でお香を購入した。
ごま豆腐も買いたかったが、好き嫌いがあるので、今回はやめた。
荷物が増えてしまったので、もう一度宿坊の遍照光院に戻り、荷物をつめる。
「いろいろありがとうございました」とお寺を出ようとすると、お世話をしてくれた方が、入り口まで来て、正座をして深々と頭を下げてくれた。
私も、帽子を取り深々と頭を下げた。

私の悪い癖で、お土産が足りないような気がして、かさ國のみろく石を購入した。
もう、お寺には戻れないから、リュックに詰めた。このあんこは暑さに持つかしら?

再び壇上伽藍により、写真を撮った。
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古いものも、新しいものも、光をあびて美しい。

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ひとつのお堂で、お祈りの声が聞える。
ただの観光地ではなく、実際に使われているところなんだとあらためて思った。

本当に、この場所は気持ちがいい。
ずっと、ずっとここにいたかった。
会社の同僚に「もしかしたら、帰ってこないかも」と言ったが、本当に帰りたくない。
仕事もせずに、好きな写真を撮っている毎日、それはこの場所が気持ちいとかだけではなく、現実逃避なのだろう。

現実に戻らなくては。
現実に戻るために、私は大門に向かって歩いた。





















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高野山旅行記3/20(金) ④

2009-05-06 10:22:24 | 旅行記
次にどこに行こうか、地図を眺めた。
明日行こうと思っていた「徳川家霊台」に行く事にした。
ここは、三代将軍家光が建立したもの。
右側が家康、左側が秀忠の霊屋になっている。
パンフレットを見ると、日光東照宮を思わせる造りだというが、私はまだ日光東照宮に行ったことがない。
天気もよくなって、日差しが差し込み、ここも他とは違う空気を感じた。
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道の反対側に心引かれる塔があった。
ただ、私の持っているパンフレットには何も記載されていない。
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宿坊に帰り冊子をみると「金輪塔」と書いてあった。
1834年に再建されたものらしいが、木の作りが渋さと歴史を感じるものだった。

そのまま歩き続けると女人堂に行く。ここも明日来る予定だったが、このまま行く事にした。
バスを待つより、歩いていこうと、坂道を登りだす。
坂道を登りきったところにあった。
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昔の女性はここまでしか入ることがゆるされていなかった。
女人禁制が解除されたのは1872年(明治5年)しかし、高野山で女性が暮らし始めたのはもっと最近の話らしい。
弘法大師が女人禁制にした理由は何だったのか?やはり、女性がいると精神が乱れるのだろうか?
御廟まであと少しなのに、ここまでしかこれなかった女性のせつなさ。そんなものを感じる場所であった。

時間は14時40分。16時までまだ少しある。
高野山の聖地は御廟と壇上伽藍である。
バスに乗って、壇上伽藍方面に戻った。
ここの空気はやはり良い。
たくさんのお堂があるので、ひとつづつゆっくり見てまわる。
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根本大塔の中も見学した。この中は曼荼羅の世界を現しているらしい。
高野山は山の上と言うこともあり、ほとんどの物が落雷や火災等で焼失し、再建されている。
根本大塔も昭和12年に再建されたもの、金堂に至っては、昭和7年に7度目の再建をしたものである。

今日も三鈷松の下へ行く。意外と簡単に三つ葉が見つかった。
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他の観光客も探していたが、なかなか見つからない様子。
この松に、何の御利益があるのかしら?

16時。今日は早めに宿坊に戻って混む前にお風呂に入りたい。
宿坊の入り口で楽しい彫刻を見つけた。
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お部屋に戻る途中にお庭もある。
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夕食は18時から。お風呂から出ても時間がある。
ツアーのひとつである「写経」をすることにした。
最初に願い事を書く。私の願い事って難だろう?「満願成就」と書いてみた。
心を静めて字を書く。だめだ、邪念がよぎる。

写経が終わり、ホッとしているところに夕食が準備された。
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今日もたくさんの精進料理である。
お風呂の前にお腹がすいたので、少々のお菓子を食べたがそれを反省した。満腹。

今日はこれで終了かと思ったら、「阿字観はご存知ですか?」と聞かれた。
瞑想体験である。
春分のこの日に私はそれがしたいと思っていた。
出発前の予定では、1日目は町石を歩き体を鍛え、春分の2日目は写経と阿字観で心を鍛え、3日目に聖地である御廟に行く予定だった。
しかし、阿字観の話がいっさい出てこなかったので、あきらめていた。
「はい。体験したいと思っていました」
「それでは、またあとでお声をかけます」

20時ごろ声をかけられた。
大広間に次々と人が集まる。ヨーロッパ系の海外の方もいた。
まずは阿字観の説明があった。
その後軽いストレッチから始まる。
「座布団をはずして足を組んでください。座布団を半分に折ってお尻の下に入れてください。鼻とお臍が垂直になるようにしてください。これで姿勢がよくなりました。少し長い時間この姿勢でいるので、楽な位置を探してください。手は、左の手を水平に上に向けて置き、その上に右の手を上向きにして重ね、両方の親指の先は軽く着けます。これを法界定印を結ぶといいます。その手を丹田(下腹)の所に置きます。大日如来様の目を覚えていますか?半眼にしていますよね。あの様な感じで、鼻筋を通して五十センチから一メートルぐらいのところを見る感じにします」
この姿って、根本大塔にいた大日如来様と同じポーズ。
「次に呼吸法です。下腹を引っこめながら、胸に溜まっているモヤモヤした不浄の気を、口を軽く開いて、ゆーっくりと吐き出します。 今度は吸います。口を閉じ鼻から吸います。それでは次に、吐き出すときに阿字観の『阿』の字を思い出しながら『アー』と吐き出してください。吐き出したら、口を閉じ鼻から吸います。これを繰り返します。それでは部屋の電気を消しますね」

瞑想するのは始めてである。
座禅のようなことを想像していた。
しーんとした中で禅を組み、心を鍛える。
座禅もしたことがないので、よくわからないが、無心になれる状態ではなかった。
それは、呼吸法を意識しなくてはいけないからだ。
それも少しすると慣れてきた、そして自分が宇宙の中に漂っている感じ、銀河系を外から見ている感じが頭の中に描かれた。
これは、周りの方の「アー」と言う息が、宇宙の音に聞えたのだ。
宇宙飛行士や宇宙人じゃないのに、宇宙の音ってわかるの?と思われるが、確かに私は遠い昔、この宇宙を漂っていたという感覚になるのだ。
確か大日如来と宇宙は結びついているような話を読んだ。そして宇宙の生命を自らの生命として生きることを阿字の世界と書いてあったような・・・
もしそれが正しければ、私の阿字観は正しく出来ていたのだろう。
20分ほどの瞑想をおこない、その後別の部屋に案内された。
本来阿字観を行う部屋である。
阿字観にもいくつか方法がある。
このお部屋には、丸い月の中にうっすらと大日如来様が書かれた掛け軸があった。
これを見ながら瞑想をする。しだいに大日如来様のお顔がはっきり見えるようになるという。

お部屋に戻る。
体の細胞が生き生きとしている感じがした。
春分の日1日を無駄なく過ごして、私は大満足だった。
明日は帰らなくてはいけない。























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高野山旅行記3/20(金) ③

2009-05-05 22:37:30 | 旅行記
時間はすでに10時30分。
御廟橋まで戻った。橋の手前に「水向地蔵」があった。
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よくわからないけど、思いっきり水をかければ願い事でもかなうのかと、水をかけた。
次の順番の男性にかかってしまい、すみませんと頭を下げた。
仕方がないので、足元にちょろちょろと水をかける。
実は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けて冥福を祈るのが正しかったようだ。

奥の院の参道を歩き始める。
こちら側は、企業の供養塔が多い。
いろいろな企業が、労働災害等でなくなった人の供養をしているのだ。
面白かったのは、某シロアリ退治の会社。シロアリの供養塔だった。

参道が終わり、国道371号線にぶつかった。
ここからどうしようか?
昨日の語り部のクラタさんが、高野山内の語り部さんを紹介してくれた。
時間があれば、いろいろなお話が聞けると言う。
とりあえず、その方のいる金剛峰寺に行く事にする。
ここからバスに乗ればいい。
今回のツアーの中に、3日間バス乗り放題の券も含まれている。
バス停に行くと、バスはさっき出たばかり、次のバスまでには時間がある。
それなら歩きましょう。と国道を歩き始めた。

少し歩くと、国道に沿って、奥の院内の道があることに気づいた。
垣根の切れ目から、再び奥の院側に入る。
昔の道なのか?人気がまったくない。
途中、墓地があった。お彼岸と言うこともあり、お墓参りをしている人がたくさんいた。

少し広い場所があり、明らかに何かあった場所だと感じた。
中央に昔の説明文が書いた板があったので読んでみた。
どうも、このあたりは、高野山で罪を犯したものの処刑場であったようだ。
悪や未練などの黒いものが渦巻いて蛇と化して人々を苦しめた。
それを弘法大師が退治した場所らしい。
しかし、なぜここだけ看板を新しくして、観光スポットのひとつにしないのだろうか?
雨が降ったからなのか、ジメジメして暗い感じのするところだった。

それを過ぎると、国道側に燈籠が並んでいた。
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最後は国道への出口になっていた。
よく見ると、一つ一つが四国八十八ヶ所のお寺の名前を刻んであった。
つまり、ここから一つ一つお参りをして、最後に御廟に行けば、お遍路さんをしたことになるのではないのだろうか。
かなり新しいものである。そのうち観光スポットになるのであろうか?

11時20分宿坊である「遍照光院」に戻ってきた。
今から金剛峰寺に行くと、確実にお昼になってしまう。
先に昼食を済ませてから行く事にした。

「中央食堂さんぼう」で麦大豆御飯を食べた。
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時間はちょうど12時。。クラタさんがぜひ行くようにとすすめてくれた「高野山霊宝館」を先に見学することにした。
ここでは山内の重要な文化遺産を保存している。
近くで見る仏像たちに私は吸い込まれた。
心が安らぐものばかりである。
ゆっくりこの場にいたかったが、次に行かなくてはいけない。

後ろ髪を引かれる思いで、総本山金剛峰寺に向かった。 
金剛峰寺とは、弘法大師が名づけた高野山の総称であり、高野山真言宗3600ヶ寺、信徒一千万の総本山である。
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ここで、クラタさんから紹介された方を訪ねたが
「午後から女人堂のほうへ行きました」
と会うことが出来なかった。やっぱりアポなしではダメだった。

中に入り、いろいろな部屋をみた。
ふすまには立派な絵が描かれている。
その中の「柳の間」ここでは豊臣秀吉に追放された、秀次が自刃した間である。
きっと、語り部さんがいたら、もっといろいろな話が聞けたのだろう?
新別殿ではお茶とお菓子振舞っていた。
そして、尼さんが高野山のお話をしてくれた。

お話が終わって、また中を見学する。
白砂の綺麗なお庭があった「蟠龍庭」(ばんりゅうてい)である。
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雲海の中で、雌雄一対の龍が、奥殿を守っているように表現されている。
そういえば、屋根の彫刻は面白かった。龍が飛び出していた。
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語り部さんにきっと会える。と思っていたのでちょっと残念だった。
これなら、レンタルの高野山音声ガイド機を借りておけばよかった。
奥の院にも、ガイド機の番号がたくさんあった。
背景を聞きながらまわったほうが、見落としもないし、そのものに対しても理解が出来る。
すでに時間は13時45分。今から借りても無駄だろう。
今日は16時までに宿坊に帰らなくてはいけない。







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高野山旅行記3/20(金) ②

2009-05-04 20:12:25 | 旅行記
17町石の一の橋まではすぐだった。
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この先に、弘法大師(空海)の御廟がある。
この橋の正式名は「大渡橋」と言うのだが、浄域への入り口なので、一の橋と言うそうだ。
杉の木々が並び、神秘さを感じる。

一の橋から御廟までの1.9kmは、20万基をこえる各時代のあやゆる人の供養塔が立っている。
全国の大名、武将、戦争、震災、企業と多くの供養塔がある。
高野山の奥の院は、日本第一の死者供養の霊場である。

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古いものは、苔むして、崩れかかっているものもある。
大きな大名家では、鳥居もあり立派な供養塔になっている。
私の感覚では、お墓に鳥居ってミスマッチ。
しかし、ここは供養塔であって、お墓ではない。
宗教もいとわないこの場所では、鳥居は結界をはるためのものなのだろうか?

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供養塔は町石と同じように、五輪塔になっており、上から宝珠、半月、笠、円、方形をかたどっている。
これは、仏教で宇宙を形成する物質は、空、風、火、水、地の五つの要素からなる。と解かれていることから、それをかたちどっており、それぞれの部分に梵字(サンスクリット文字)が刻まれている。

有名な武将の供養塔がたくさんある。日本史に弱い私でも、知っている人ばかりだ。
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これは武田信玄とその子勝頼の墓碑である。

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これは重文になっている、上杉謙信、景勝の霊屋。
どの供養塔の前にも、誰のものか表記してあるのでわかりやすい。

26町石を過ぎると、中の橋がある。
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小雨になってきた。すれ違う人も増えてきた。
霧なのか、朝もやなのか、高野山自体清々しい空気の場所であるが、雨のおかげで、一掃の清々しさを感じる。
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少し山側に、ここで一番大きな供養塔があった。一番石と呼ばれている。
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正式には「崇源院供養塔」と言う。
高さ6.6m、台石の大きさは八畳敷、完成までに3年を要した。
この塔は、徳川二代将軍秀忠の次男、駿河大納言忠長が母堂(淀君の妹)追善のために建立したものだ。
駿河大納言?徳川家の人は家康しかわからない。しかし、駿河とつくのだから、今の静岡の人に違いない。
なんとなく近親間。
しかし、こんな大きな石を、この高野山の山の上に運んだのは、なき人を供養するとともに、権力を示したかったに違いない。
上の人々はいいけれど、このために税を多く払った人がいて、このために辛い仕事をした人々がいる。
その人々の思いのほうを強く感じる。

34町石を過ぎると、御廟橋に着いた。
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ここから先は撮影禁止。大師廟の霊域に入るからだ。
この橋の板石は36枚で、橋全体を1尊として、金剛界37尊を表している。
もちろん町石も、大師御廟をあわせて37の金剛界を表している。
この橋を渡ると、仏の浄土に住くと信じられている。
また、罪や煩悩が除かれるというので、無明の橋とも呼ばれたそうだ。

御廟までにも、、いくつもの供養塔などがある。
その中に昔、兜率天から落ちてきたという「みろく石」があった。
この石は、罪の浅い人は軽く、重い人には重く感じられるという。
私は、重くて持ち上げられないといけないので、持つことはしなかった。

階段を登り、ここが御廟かとおもえば、ここは「燈籠堂」だった。
ここには、1000年近く燃え続けている二つの「消えずの火」がある。
本来は拝堂であるが、参拝者が先祖供養や家内安全を祈って、燈籠を奉納し、堂内が燈籠でいっぱいになったので、燈籠堂と呼ばれているらしい。

燈籠堂の奥に弘法大師御廟はあった。
835年3月21日寅の刻、大師は御年62歳でご入定した。
それから1174年、大師はここで生き続けている。
ろうそくに火を灯し、お線香を焚いた。
大師の前で手を合わせる。
ここでは、私だけの平和を祈る気が起こらない。
すべての人が幸せになりますように。そんな気持ちにさせられる。

手を合わせていると、雲間から太陽の光が差込み、周りが明るくなった。
それは、大師が「よくいらっしゃいました」と言っているように感じた。
とても清々しく、清らかな場所。
いつまでも手を合わせていたい。そんな場所である。







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